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Not Knock  作者: モク
第1章 ブラックシューター
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幕間 餞別

 間に合わぬならそれでも構わないという心持ちで、エルは段々と足早になっていた。


 ヒューイがヒーローを退職す(やめ)るという。

 して、今朝はその彼が荷を引取りにきているようで、惜別の言葉をくれてやるには最後の機会となる。シュノンは生憎の多忙であるため、知り合ったばかりの薄いよしみを口実に、エルは一人思う箇所を駆け回っていた。よくよく考えなくともヒューイに別れを言う義理など見つからないが、では幾人が彼の引退を悲しむだろうかとすると、あまりに寂しかった。

 五年もブレイブスピリットに顔を出していなかった妙なホストのような男に、果たして友人などいない。覚えていたのもシュノンくらいである。


「……いたよ」


 ロビーを見下ろせる階段の踊り場から、派手な色の後ろ姿が拝めた。エントランスの手前に突っ立っているというのに、やはり通り行く社員は誰一人として気にも留めない。

 いくら空想と酷似しているといえども、現実はより虚しく残酷に打ちのめす。心なしか小さくなった背中が泣いているように見える。いるとも知れぬ誰かに後ろ髪を引かれているのだろう。

 ボストンバッグには既に荷が詰め込まれているであろうに、その人はショーウィンドウに飾られたマネキンの如く、その場から動こうとしない。

 いよいよこれは、見ていられなかった。







 ふう、と諦めかけていたときである。気配とぶっきらぼうな声が一緒にやってきた。


「本当に辞めるんだな」


「おや。ため息まで聞きつけてくるとは、流石」


「馬鹿。さっきからずっと同じ場所に……いや、あんたの髪の色は五月蝿いから、目立つんだ」


 エルは気難しい面持ちであったが、それはわざと作った顔だ。上から見えていたとは、言えなかった。ヒューイは少し照れくさそうに笑った。


「シュノンだけでも来るのではないかと思っていたのだよ。だから、たまげたね」


 素直に「寂しい」といったことを口に出す気はないと見える。


「彼女は仕事だ。俺ですいませんね」


「悪く言ったんじゃない。感謝してるんだよ」


 ヒューイがふっと目を細くすると、長い睫毛が僅かにきらめく。


「シュノンは僕のような男でも、気にかけてくれていたからね。君も彼女に言われて来たのだろう」


「別に……間に合わなくても、それならそれで良いと思って、とりあえず探しただけさ。なにしろ俺は、あんたと一度話しただけだから」


「口実なんぞどうでもいい。出ていく間際に話が出来る、今の僕にこれより嬉しいことはないね。ありがとう。これで、心持ちが少し軽くなるだろう」


 エルは眉間に皺を寄せて、何かを言おうとする口を閉じた。端的にしおらしいことを言うまでもないが、やはり、先日の濃ゆい胡散臭さを思わせる影は失せてしまっている。これでは、エルの方が嫌味な意地を張っているように思えてしまったのだ。


「あんたさ、自分の能力を気に入ってないんだってね」


「そりゃあね、あんなもの。力馬鹿にぴったりじゃないか。僕の精神が潔しとしないね。だから五年も──」


 ちらとエルの顔を伺っていたヒューイは、雄弁であった口を不意に休ませ、ため息混じりに笑みをこぼした。


「そうかい。シュノンに聞いたんだね」


「うん。あの人、お喋りだからね。ちょっと寂しそうに話してたけど」


 ロビーの喧騒を疎ましく思ったか、ヒューイは「表へ出よう」と言って先を歩いた。


「僕の美学と合っていないというのは、嘘ではないよ。けれどヒーローとして、仕事を優先すべきであろうと、僕とて思わないわけでもなかった──どこまで聞いたのかな?」


 陽の高くない今朝の、心地好く冷たい風が指先やら頬やらを撫でた。


「大まかに。”事故で仲間に怪我をさせてしまった”って。それくらい」


「怪我をさせてしまった、という時点で、事故であったとは既に言いがたいかも知れないね」


「故意でないのなら、事故だ」


「しかしね。僕と組むことを億劫に思っていた輩は、その不幸をどうしても僕の過失にしたかったんだよ。僕は図体と力ばかりが飛び抜けて、硬い反面、邪魔でもあったんだろう」


 仲間という肩書きがありながら、腹の中ではどぶのように黒い魂胆を持て余している。そしてそれが零れて出た嫌悪の顔つき。己が厭わしく思われている、そんな記憶を、ヒューイはどこか懐かしむような目の奥に蘇らせていた。


「それなら僕は引っ込んでおいてやろうと、こう思ったわけだ。誰か僕を気にかける人がいるだろうと考えていたが、想像以上に僕は哀れだったらしい」


「シュノンさんは、気にしてたんじゃないの」


「ああ、そうだね。うん。彼女だけだよ、ありがたい」


 揺らされた少し長い金髪を耳にかけて、ヒューイは続ける。


「ブラックシューターはね、僕を嫌っていた奴らをみんな倒してしまった。だからって、敵討ちなんて綺麗なもんじゃない。僕が彼を倒してしまえば、見直してくれる人が何人かはいるんじゃないかと推し量っていた」


「あんたは、人に見られることばかり考えているんだな」


「人目を欲しない男に見えるかい? だから敢えて自分で言うんだが、この五年よく耐えたと思ってる。そろそろ潮時なのだよ」


 話を聞けば聞くほど、段々何だか呆れが増してきた気がする。ただ、彼は彼なりに、望むものを浴びるために思いつく限りを実行してきたのだろう。エルはその点において、ヒューイが羨ましかった。

 言葉は続けられた。


「いつの間にか、何の為に戦うのかわからなくなっていた。理屈は知っているよ。正義の為だと一言で終わらせてしまえばよかったことも。けれど、そのどれもが納得出来なくなった。注目が欲しかったのも、周りが僕の存在を求めればそれが理由になると思っていたからでね。今はもう、ないんだよ」


 だから、違う道を行こうと決めたのさ。そう言ってヒューイは清々しく笑った。未練のようなものが全く感じられないと言えば嘘だが、少なくともそれの正体が後悔であるようではない。


「君は世間で話題に昇る程、強いらしいじゃないか。若さとはかくも素晴らしい」


「そんなんじゃない。俺はなんとなくやってきただけなんだよ」


「そうかい? 目標なんかもないのかな」


「なかった。前は」


 そう、羨ましかったのだ。

 目標に突き進む力を得ていたヒューイが羨ましかった。


 そして今は違う。見失った彼とは逆に、エルには見つけたものがある。

 『‥‥期待しよう』そう言って笑った相手は、悪であるが悪い人間ではないように思えた。悪の組織にいる連中はことごとく気に入らない奴ばかりだが、彼だけには負けても妙に納得してしまった。


「それはよかった。エル。君はまだまだ成長するだろうさ。僕はここまでだけれど、新しい楽しみになる」


「言われなくても、もっと強くなってやるよ」


(今度は、絶対に倒してやるよ)


「大切にしたまえよ。その決意も……彼女のことも」


 いたずらっぽく笑うと、ヒューイはその台詞を最後に、ブレイブスピリットに背を向けた。


「彼女……?」


 脳裏に浮かんでくる人物が笑うところまでを想像して、エルは一気に赤面する。しかしヒューイは既に歩き始めている。


「い、いい加減なこと言うんじゃねえよ!」


 ひっくり返った声で叫ぶと、振り返らぬまま手を振る「さよなら」が静かに来るだけだった。


 ぽつんとエントランスの前に残されたエルは、罰が悪そうに頭を掻いた。

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