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レンガ屋根に腰掛けたチェルシーが第一に複雑な心持ちだったのは、あのとき扉を開くとノットがおののく程のスピードでデスク上のキーボードに指を滑らせていたことだ。
ノットの真面目さはそこそこ知っている。冷静になれば考えが及ばないことでもなかったが、あの状況でさえも事務作業に身を投じるとは一種の職業病の域にまで達しているのかも知れない。
「言っておくが……不本意だ。いや、不可抗力だ」
「ええ、あたしも同意です」
意図が知れないとはいえグルシェムの命に逆らうことは出来ない。互いに、今一番望まない展開であったとしてもだ。
チェルシーはもうへらへらと笑う気すら起こらない。確かに三日間に仕事でも何でもしてやろうとは思っていたが、まさかこんな形になってしまうとは完全なる誤算だ。
「何を、あたしは何をすればいいんです」
「ああ。そうか、君は初めてだな。能力は?」
「バリアの強度は保証しますよ」
チェルシーは手のひらに杖を出現させた。
「攻撃は出来るか?」
「出来ないことは……ないです、が」
「が?」
「成功率が十分の一です」
「何故そんな微妙に不完全なんだ」
そんなこと知りませんよ。
乾いた笑いで誤魔化した。能力が発現したときからそうだったのであって、チェルシーが選択したことではないのだ。
するとノットは仕方ないと言ってどこからか黒の端末を取り出した。ぱっと光りだした液晶画面に触れて操作すると、やがてそれを耳元に当てた。小型の電話機だ。
「そうだ、私だ。場所はアンドレッドシティ・ノートロード……」
ノートロード、今二人の居る区だ。
「どこに掛けたんですか?」
「我社と連携している企業だ。部隊が数分で到着し、周辺の建物を破壊し始める」
「まさか、仕事を丸投げする気ですか」
「君は勘違いをしているようだな。街を襲うのは目的ではなく手段だ」
手段?
チェルシーはノットの目を見て無言のまま次の言葉を待った。
「英雄戦線協定が適用されるのはヒーローと悪だけではない。知っているな?」
「ええ。常人を超える能力を持っているとはいえあたしたちも人間ですからね、相手どころか一般人を巻き込んで死なせてしまうなんてことはあってはいけない。ヒーローはいいですよね、悪の組織に比べてそのリスクが低いんですから」
いつだって先に仕掛けるのは悪の方だ。ヒーローはそれを阻止し住民を救う。無機物は一晩で傷つ残さずに復元されている。強力な能力を保持するが故に細心の注意を払わなければいけないのは主に悪なのだ。
故意でないにしても殺してしまえば罪に問われる。
「だから専門職の企業を雇うのだ。彼らならば誰一人殺めることなく無機物のみを破壊出来る、そういうプロだ」
「掟を破らないためですか……それでは、あたしたちは何をするんです、高みの見物ですか?」
「言っただろう、これは手段に過ぎないと。……じきに来る」
やがてチェルシーの耳が奇妙な音を捉える。空を切る鋭い音。そしてまた別の奇怪な、声に似た音を。
徐々に近づいてくる音のする方角がわかると二人は体の向きを変えた。そしてその正体を目にする。
「え……うえぇぇ……」
「来たな」
十数の影が屋根を軽々と跳び、跨ぐ姿はさながら忍に似ている。ただしその身に纏うものを除けば、の話だが。
「何か気持ち悪いんですが」
全身、それも顔や手足の先まで全てを、ぴったりと肌につく黒い布に覆われている。ギィと悲鳴とも鳴き声とも判別のつかない音を発しながら向かって来る様は人間でないようにも見える。彼らがノットの言うプロの部隊らしい。
(あ、でもテレビで見たことある……)
小さい頃メディアで目にした中に、悪の組織の下っ端の下っ端として駒扱いされる、所謂雑魚にこんな奇妙な風貌の多勢多数がいたはずだ。そんなことを思う内に黒の部隊は二人の脇をすり抜けて、街に降り立っていった。
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ブレイブスピリット
けたたましいサイレンが鳴った。五秒程でそれが止むと今度は打って変わりスピーカーからやけに静かな声が全社員に告げる。
「ノートロードにて敵の姿を複数確認……内一名はブラックシューター。繰り返す──」
二度目の放送が終わる前にエルは廊下を駆け抜けていた。
(ブラックシューター……こんなに頻繁に出て来るなんて!)
並の敵ならばこんなに焦ることもないんだろう。だがそれがブラックシューターとなれば話は全くの別物だ。未だかつてブレイブスピリットの中で奴に勝てた者はいないのだから。
「エル!」
「シュノンさん!」
道の端に待ち構えていたシュノンが声を上げたのにエルが応える。引き止められる、そう思った。先日の怪我はほぼ完治したが彼女の立場上、みすみす行かせられないだろうことは薄々予想出来ていた。
「エル、まだ包帯が取れていないんだから」
「もう治ったってば。それより早く行かなきゃ誰かに先を越される」
「無理して行ったってまた──」
「ほら」
腕の包帯を素早くほどいて外し、生身をシュノンに見せつけた。完全に元通りとは言えないものの、火傷の痕は薄い赤のかさぶたしか残っていない。一日、二日しか経っていないとは思えない回復をエルが無言で語るのにシュノンは言い返せないでいる。
「炎の使い手が火傷なんかで引っ込んでるなんて、それこそ馬鹿らしい!」
「……」
大丈夫、あとはそう一言だけを残してエルは再び走り出した。そうして医務室の前も通り過ぎエントランスも目の前というとき、またもや視界に人影を捉えた。
細く艶やかな金髪は彼の他に見ない。
「おや」
「あれ、あんたは確か」
確か、ヒューイ。明らかに彼は外へ行こうとしていた。
「エル君、だったね」
「あんたもノートロードに?」
「ああ。その様子だと君もらしい。だがすまないね、僕に行かせて欲しいんだ」
「えっ……なら俺も一緒に」
「僕一人で、だ」
たった今まで、どう見たってただの頭の弱そうな男に見えていたヒューイが目を鋭くした。見えない眼光に当てられたエルは瞬時に身を固くする。誰かに向けられているはずの彼の闘争心をエルの肌が感じてしまっている。
「あ、いや。すまない、君を巻き込んでしまうかも知れないと思っただけだ。とにかくだ、ここは譲ってもらうよ」
「……あっ、え?」
遅れてエルが我に返るとヒューイは既に自動ドアをくぐり抜け、手の届かない位置にまで離れていた。
▼
一方のノートロードでは、気味の悪い裏声で奇声を発するプロたちが順調にレンガやらコンクリートやらを殴り壊していた。素手で痛くないのだろうか、ひょっとしてあの声は痛い痛いという喚きを表現しているのだろうかとチェルシーはぼんやりと考えたりもしたが、彼らが下っ端の雑魚よろしく、顔を見合わせぴょこぴょこと跳ねるのを見てその予想は砂と消えた。
だがノットの言った通り、黒の部隊の働きぶりは完璧だ。一部始終を上から眺めていたのだが、本当にただの一人にも怪我を負わせていない。
「人を見かけで判断しちゃ駄目って本当だったんですね、おばあちゃん……」
しかしチェルシーはふとある考えを浮かべた。違和感だ。黒の部隊は確かに完璧に仕事をこなしている。ただ、よく見ていると彼らは一般人を、倒壊に巻き込まれない程度よりさらに遠くに逃がしてから壁を壊しているような気がするのだ。
念に念を押してだと言われればそうもとれるのだが、いつの間にかチェルシーたちの足元の道には部隊以外の人間は誰一人残っていない。
「そろそろか」
ノットが遠くの空を見ながら静かに呟きを洩らす。チェルシーもノットの目を向ける方へ視線を移す。するとまもなく、彼が少し先の時間を見透かしたかのように、小さな影が視認できた。
(……そういうことですか!)
やっとわかった。感じた違和感、そしてこのタイミング。先程『じきに来る』とノットが言ったのは、部隊を指しての意味ではなかったのだ。
「街を壊させたのは──」
人影が、隣の家の屋根に降り立った。風の抵抗を受けて乱れていたはずの金色の髪が、触れることなくあるべき形に戻っている。
「やあブラックシューター。”ヒーローは遅れてやって来る”なんて、言い得て妙だと思わないかい?」
──ヒーローを誘い出すための、手段。




