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Not Knock  作者: モク
第1章 ブラックシューター
11/21

10

 ヒーローを辞めたのは、もう五年前になる。当時所属していた会社はノットが抜けて間もなく潰れてしまった。流星(シューティングスター)の名に(たが)わぬ瞬速と銃弾の正確さも相まって、彼は同業者からも一目置かれていた。

 その点については、現在とさほど相違ない。


 ヒーローだったノットと今のノットとで明らかに異なること、それは志であった。






 仕事が手に付かない。

 自室で報告書に目を通そうにも、数行おきに内容が頭のてっぺんから抜け出て一から読み直し。文字を書こうものなら、たったの数秒で気が滅入る。まるで出来損ないの学生のようだと内心自嘲した。

 悪らしく、表へ出て街に危害を加えに行くでもいいが、気分転換に軽く腕を振るうものではないし、今の精神状態ではヒーローと遭遇したときに油断が生じかねない。


 ノットはたまらずデスクに突っ伏した。

 ここまで純粋な苦しさを覚えたのはいつ以来だろう。この苦痛から逃れる術を誰が知っているのか。

 チェルシーに非はない。彼女の言葉通り、ノットが詮索しなければ知ることのなかった事情だったのだ。

 過去に一度助けた彼女を、今度は傷つけた。自身ですら、今度の落ち込みようの深いわけがわからない。ただ昔の彼を知っているというチェルシーに動揺してしまったのが重なったこともあるのではと、想像していた。


 謝ろうとしたのだ。だが彼女は、彼女の方から、顔を背けて……



「……私を正当化してどうする」



 駄目だ。無音の部屋に籠っていると余計に神経を削られそうだ。


 コートを羽織り一歩部屋の外へ出ると、それまでの静寂をひっくり返すような慌ただしい部下たちの足音があった。最新の防音壁とは大したものだと多少感心する。

 ノットの足はふらふらと、ある場所へ向かっていく。数分足らずで到着し目の前の扉を開けると、案の定、苦いような酸っぱいような、彼にとってはとにかく不快な臭いが鼻をついた。



「医務室で害のある物質を漂わせるなと、何度注意すれば理解するんだ」


「ここんとこ客なんて滅多に来ねえからよ。へいへい消すから、まあ適当に座れや」



 睨みに負けたかスティーヴンは灰皿にタバコの先を押しつけた。



「で、何用かね?」


「睡眠薬を、少し」



 偉そうな老人が髭を弄るような仕草でふざけていたスティーヴンの手がぴたりと止んだ。

 睡眠薬を欲しがっている? ノットが? 食事娯楽睡眠より会社を取る仕事人間が?



「無理にでも寝ようってか。どういう風の吹き回しか知らねえが、そろそろ雲行きが怪しくなりそうだな」


「私は大真面目だ、藪医者め」


「俺はクズに違いねえが藪医者とは聞き捨てならんな。いや、まあ、お前が真面目なのは俺が一番よく知ってると言ってもいいが……仕事を全うするためなら睡眠すら惜しまねえお前が睡眠薬なんざ欲しがるとは、天変地異でも──」


「やめろ大袈裟な。私の方が恥ずかしくなる」



 次第に速くなり止まる気配を知らぬ口を苦々しく言いながら制止する。

 スティーヴンの言う通り、ノットは無理矢理にでも今の意識を手放そうと考えていた。落ち着きを得たスティーヴンも、のっぴきならぬ闇を宿した目を覗いたらしい。

 先日の過労を引きずっているのではなさそうだ、ということにも既に気がついているだろう。見れば指先まで震えている。



「ノット、変だぞお前」


「同感だな。全く己の過去がこんなにも厄介なものだったとは」


「お前まさか、まだ引きずってんのか。今さら」


「引きずっているのではなく、引きずり出されたのだ」



 スティーヴンが怪訝そうに眉をひそめた。



「あの少女は、シューティングスター(ヒーローの私)を知っている。過去に面識があるらしい……私は不覚ながら覚えていないのだが」



 不意に、チェルシーという少女が気を失っているノットに付き添い、初めて医務室に来たときのことをスティーヴンは思い出した。推測に過ぎないが、彼女があのとき本当に言おうとしたこと、いや尋ねようとしたことは、ノットのことだったのだろうか。


 スティーヴンはノットが暁帝国に入社する以前よりの友人であり、すなわち彼の過去も知っている。だがチェルシーは二人がどこまでの関係情報を共有しているかを知らない。だから躊躇したのではないか。

 元ヒーローが現悪の組織などと迂闊に広めることになれば、ノットが周囲からどんな批判を受けることになるだろう。故に社内でこのことを知っているのは旧友であるスティーヴンと、司令官のグルシェムだけであるはずだったのだ。



「なるほどな。彼女がそれを言いふらす危険はあるのか?」


「彼女は、私が聞かなければ話さずのままでいたと言っていた。可能性は低いだろう……いや、そのことじゃないんだ」


「じゃあ、何だ」


「動揺した……そのせいで彼女を傷つけた」



 いっぱいに目を泳がせながらノットはぼそぼそと言った。

 今だって動揺しまくってんじゃねえか。スティーヴンはため息をつく。



「あのなあ、俺は医者だが……生粋の名医だが、心理カウンセラーじゃねえ」


(何故言い直した)


「その手の相談なら他を当たれ」


「な、私はお前が友人だからと思って──」


「お門違いだっつってんだよ。そもそも俺はチェルシーちゃんと一度会ったきりだ、アドバイスも何もあったもんじゃねえ。つか、考えてねえでお前が自分で彼女と会って話す方が早いだろう?」


「ぐ……ぬう、もっともだ」


「そういうことだ。出てけ」



言うが早いか、ノットは手荒に医務室からつまみ出された。







「三日、三日ですかあー。どうしよっかなあ」



 黒地に橙のライン。細い腕の部分とは対照的に袖の部分は広く、歩く度にひらひらと揺れ、手を体の前に置けば同色のショートパンツをゆうに隠してしまう。

 ノットに買ってもらったのは、上下セットの服だった。さらに言えば、それらはチェルシーの為にサイズが調節されているもので、とても私服とは言い難い。


 彼女は残りの三日間を無意義に過ごすつもりは毛頭なかった。仕事なりなんなりしてやろうと意気込んでいるところである。

 早々に荷物をまとめたとして、帰りたいと思える場所などどこにもないのだし。



「ううむ、腹が減っては何とやら。困ったものですねえ」



 食堂へ近づくにつれ開け放たれた扉から鼻腔をくすぐる匂いが漏れ出ているのがわかる。困った困ったと復唱しながら、足の向く先はその扉であった。


 だが、待てよ。

 自分は払う代金を持っていないじゃないか。いくら悪の組織とはいえ社内で食い逃げとなれば即座にボコボコにされること請け合いである。



「いやはや、困った困った」


「何が困った、なの、お姉さん」



 誰とも知らぬ声にはっとすれば、チェルシーは顎に指を当てながら食堂の前で仁王立ち。まずいと察し脇に逸れながら振り返ると、背の低い少年が立っている。


 青混じりの黒い髪は短いながら柔らかそうで、大きな目はそれより色の深い漆黒だ。

 何より彼は見るからに、チェルシーよりも若い。



「ああ、いえね。いい匂いがするもんですから」



 笑顔で質問に答えたところで、チェルシーの腹の虫が「さっさと飯を寄越せ」と鳴いた。流石に口元を引き攣らせる。



「お姉さん、お金、ないの? ……フレイアルテ」


「はい。ご一緒に如何でしょう、チェルシー様」



 いつの間に現れたのか、少年の後ろにはしっとりと微笑む女性がいた。

 少年の目と同じ漆黒の長い髪は光沢を帯びながら、彼女が翡翠色の目を細め首を傾けると合わせて糸のように揺れる。



「えっと。何故あたしの名前を?」


「暁帝国に所属する全ての方の名前は把握しております」



 そう言って彼女はまた微笑んだ。

 この人が笑う度に小さな、菫のような花が一つずつどこかで咲くのではないかとチェルシーは思った。入社したばかりのチェルシーで名まで知っているとは、彼女は相当マメらしい。



「僕はヴェストラル。こっちはフレイアルテ、僕の従者」


「チェルシーです」



 ヴェストラルはしばらくチェルシーの目を見つめていたが、不意に照れくさそうにそっぽを向いた。彼も社員だろうか。そうだとするならば、若すぎる。従者と言うが、チェルシーにはフレイアルテは彼の保護者のように思えて仕方ない。



「ご飯、食べよ」


「本当にいいんです?」



 ヴェストラルの大きな瞳に見つめられながら、フレイアルテに目をやる。



「ええ。そうしてくだされば、ヴェストラル様もお喜びになります」


「およろこびになります」



 ヴェストラルの、抑揚のない口調で繰り返す姿が、真面目そうでとても可愛らしかった。

 彼が肯の返事を待っているのは誰にでも悟られることだろう。小さな手をぎゅっと握りしめながらの上目遣いは反則だ。



「じゃあ、お言葉に甘えて」



 その言葉を待っていたような、フレイアルテの小さい花の笑顔とはまた違う、大輪の花が一気に花を開いたようなヴェストラルの笑顔にチェルシーも思わず口元を緩めた。

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