格差
俺は、7月の下旬、北海道のH町で開催されるセミナーに参加予定してる。実家には少し帰省するだけだ。セリナちゃんは、軽井沢での音楽祭に参加。二人とも、楽器奏者は常に練習と研究なのだ。
セミナーが始まる前に、俺はセリナちゃんの自宅で、合わせ練習をさせてもらう事になった。
で、今、彼女の家の前まできてるのだけど、正直、居心地の悪い。
ここは、いわゆる”高級住宅地”と呼ばれる地域で、家も大きく、緑がおおい。そのせいか都会の喧騒とは、無縁の地域のようだ。
チャイムをならして、数秒、緊張して固まってた。セリナちゃんが、いつものジーパン姿ででてくる。
「あの、じゃ、今日からよろしくお願いします」
しまった、何か家族への手土産を持ってくるべきだったかな?
実は昨夜は、”セリナちゃんちに行く”って事で、俺は盛り上がって、眠りが浅かった。
要反省だな。
頭の中で持ち物をチェックした。
楽器一式、楽譜に休憩の時の水、抜かりない。ケースをあけて”楽器がない” って事は、ないだろう・・・多分。
「あはは、何か緊張してるようだけど、気にしないで。家には、今、私しかいないし」
彼女は笑って、俺を自宅の音楽実に案内してくれた。
家でセリナちゃんと二人きり・・二人きりという言葉が俺の頭の中でグルグルめぐってる。
今度こそ、きっと二人で盛り上がるだろう。その時こそは”付き合って下さい”って告白しよう。
セリナちゃんの研究熱心で真面目な所、時たま寂しそうな笑顔、言う時には、ビシっと言う強さ、彼女の周りに優しい森の風が吹いてるような晴れやかさ。そんなセリナちゃんの素敵な所を知ってるのは、俺だけって自信はある。
でも、どうも健人の噂話を聞くと、ピアノ科だけでなく学内で、セリナちゃんは注目の的のようだ。早めに彼氏として名前をあげておかないと。誰かにさらわれてからじゃ遅い。
俺はどきどきしながら、セリナちゃんの音楽室に入った。見たところ。ここは防音設備バッチリだろう。しかも十分な広さがあり、真ん中にはデンっとグランドピアノが置いてある。壁の一面は、楽譜と音楽関連の雑誌と本で埋まってる。サイドテーブルの上ににチョコんと、ヴァイオリンが置いてあった。
「セリナちゃんは、ヴァイオリンもやってるんだ?」
「ああこれ?妹のよ。プロのヴァイオリニスト目指してるんだって。来年、芸大受験の予定。私と違って、優秀だから、私は家では肩身が狭い」そう言って肩をすくめて笑った。
話しを聞くと、二人とも、4歳の時から楽器を習い始めたそうだ。お母さんの意向で、二人とも音楽の英才教育を受けて来たらしい。
「母が厳しくてね。少し具合が悪いくらいでは、練習は休ませてもらえなかった。ピアノ関係の事以外は、何もさせてくれなかったし、時間もなかった。それがとても不満だった、で時々、キレて、中学生の時はよく母と喧嘩してた。」
「へ~~。なんか想像できないな。俺は、高校の時に赤点とって、さんざん絞られたくらいだけどな。楽器の練習については、強制も反対もされなかった」
そう、ウチの親は俺のやりたい事は、たいていやらせてくれた。
俺はセリナちゃんとの、音楽をめぐる環境の違いを、考えてみる。
俺だって、恵まれてた方だ。個人レッスンは受けさせてもらえた。ただ、ウチには防音の音楽室なんてものはない。自分の練習場所を探すのに苦労した。幸い、個人レッスンの先生の好意で、レッスン室が開いている時、使わせてもらった。俺が、レッスンを受け始めたのは中学生の時。
”結局、プロの演奏家になるのは、セリナちゃんのように小さい時から、英才教育を受けた生徒が絶対的に有利なんじゃないか?”
そう思うと最初のドキドキ感はなくなって、何か、俺は妙に冷静になってしまった。
落ち込みかけたけど、とりあえずは、今日は練習だ。俺は悲観的な考えを、頭の中の奥へしまって鍵をかけた。
練習は、課題曲(本選も含めて)全部を通してみた。俺は例のごとく、A・ジョリベでつまづき、セリナちゃんは、まだハイドンとテレマンで頭をかしげてた。何か気になる処があるようだ。
通しての演奏の後は、休憩。二人で各曲の注意点などをもう一度確認。ギリギリ2時までは、ここを使えるそうなのだ(午後、2時からは妹さんの練習時間)。
最初から飛ばしても、後で、バテるから休み休み行くことにする。
セリナちゃんの伴奏は、テレマンやハイドン、フランセやジョリベ。それぞれ、工夫をこらしてる。曲が違うから当たり前なんだけど。ジョリベのコンチェルティーノでは、伴奏は音が多く複雑で、トランペットが旋律の所があった。ピアノは音量をおさえるように、苦心してたよう。
休憩の時に、彼女は、ラヴェルの「クープランの墓」って組曲から、メヌエットを弾いた。
「どう?これって、フランセの2楽章の雰囲気でしょ?終わり方とか和音の運びとか」
確かに、フランセのソナチネは、印象派の影響を受けてる。俺は自分の勉強不足が恥ずかしかった。トランペットの曲の練習ばかりで、他はなおざりに演奏を聴く程度だった。
「すごいな、セリナちゃん。確かに、鈍い俺でも、わかった。それに、ハイドンやテレマンの伴奏、最初の頃と随分、違う雰囲気だ、なんていうか多彩・多色・ってかんじでさ」
セリナちゃんは、嬉しそうに俺を見た。
「あ、わかってくれてうれしい。実はオーケストラのスコアと伴奏用の編曲版を、見比べてみたのよね。”あ、この音って、この楽器が出してるんだ”とか。楽しみながら勉強した。実際にピアノでオケの音のするのは難しくて、今も試行錯誤中。」
俺の伴奏に、すごく熱をいれて練習してくれるのは、正直、嬉しい。俺の財政事情では、プロのピアノ伴奏者に頼むのは、イコール、親に追加の仕送りをお願いしなければいけない。頼んだとしても、こうして何度も合わせ練習をするのは、難しかったろう。セリナちゃんに感謝。
だからこそ気になる。”不参加の本当の理由”
「あの、日コン、コンクールにエントリー・・・・」
俺が話しかけたのを遮るように、セリナちゃんが、種明かしをしてくれた。
「あのね。誤解しないでほしい。今は、カイトの伴奏をするのが、私にとって一番いいと思ってる。3年生の時、1年休学の後、復学して、つくづく思った。コンクールに出るには、自分は、いろんな面で勉強がたりないんじゃなかって。コンクールを踏み台に、ステップアップするっていうのもあるけど、私は、まだまだ、いろんな曲や音楽を勉強する時期なんじゃないか?ってね」
”さあ、再開、再開”と、セリナちゃんは、楽譜を開いている。
”いろんな曲や音楽の勉強”か。俺も足りてないな。この間のピアノの演奏会も、知らない曲が多かった。そういう意味で、俺も勉強が足りない。
ただ、俺は決めた。日コンに出てなんとか本選に残る。恐らく参加者は100名をこえるかもしれない。その中の最後の6人に残る。例えプロになる道に直接つながらなくても、実績にはなる。それは、俺がプロの演奏家になるために、必要だと思ったから。
セリナちゃんは将来は、どうするのだろう?と聞こうとして、やめた。
東京の高級住宅地での一軒家。防音室。ピアノはグランドピアノ。どこのメーカーかはわからないけれど、国産でじゃない。卒業しても、彼女は就職する必要がないのかも。
小さい時から練習部屋の心配がなかった。その点だけ、俺は少しうらやましかった。
セリナちゃんとの夏の練習は終わった。俺とセリナちゃんは、練習に没頭した。セリナちゃんと、距離は確かに近づいた。ただし音楽面限定だ。
俺とセリナちゃんの環境の違いに圧倒され、俺は別な意味の距離感を彼女に感じた。




