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帰宅

 予め予想は出来ていた事ではあったが、午後も片山は全く仕事が手に付かず、どうしても奥田係長の鼻毛に目が行ってしまう、そんな一日を過ごす羽目になってしまった。


「ふう……」


 また明日も、あの鼻毛に悩まされる事になるのか…… と片山は帰宅途中の電車の中で思った。


 自宅は、会社から三つ離れた駅で降り、そこから歩いて10分程のアパートである。通勤にはおよそ40分から50分ほどかかる、そこのアパートの二階に片山は妻と一緒に住んでいた。


 一軒家を買うために、妻の直美と一緒にお金を貯金しようと安いアパートを探し、直美の職場と片山の職場とのちょうど中間、そんな場所に、二人は当面の住む場所を定めたのである。


 片山がアパートの階段を登り、家のドアを開けて玄関に入ると、直美の「おかえり〜」と言う声が、奥の部屋から聞こえた。


 片山の方が早く帰宅することも時々はあるのだが、今日は直美の方が早く帰宅していた。


「ああ、ただいま」と、いつもと変わらぬ風を装いながら片山は靴を脱ぎ、直美の声が聞こえてきたリビングに入った。直美はそこのキッチンに、夕食の準備をちょうど始めた様子で立っていた。


「ちょうど良かったわ。恭介、そこの砂糖取って」


 直美から、下の名前の恭介と呼ばれた片山は、棚の調味料が入っているところから砂糖の入ったプラスチック製の小さなケースを取り出しつつ、直美に「今日は何作るの?」と尋ねた。


「逆になんだと思う?」と、こちらを向いて少しニヤつきながら聞いてくる直美に、片山はそんなの知らねえよと思いつつも、「きんぴらゴボウ?」と答えてみた。


「当たり! 凄いね恭介! さすが夫だね! 分かってるね!」


 何が分かっていると言いたいのかは定かではないが、直美は片山から今晩のおかずを見事に当てられ、機嫌が更に良くなった様子で、片山に笑いかけた。


 仕事から帰ってきたばかりで、化粧をまだ落としていない直美は、片山に取ってはかなり可愛く見える、目が少し大きめの28才だ。肩まで伸ばした髪が、直美が振り返る際にふわりと片山の顔の前で動いた。


 仕事着からジャージに着替え、キッチンに立っている直美の笑顔に、片山は何だか心が癒やされる思いがした。


「ふっ……そりゃそうだ。俺は直美の事は何でもお見通しだからな」


 直美に砂糖のケースを渡した後、スーツを脱いでパンツ一丁になろうとしながら、片山はキリッとした表情で、そんなセリフを吐いていた。


 二人は結婚して、もうすぐ一年になろうとしていた。


 子供はもう少ししてから作ろう、という事で互いに同意しており、今は二人の時間を家で楽しむ毎日であったが、片山の方は、もうそろそろ子供を設けても良いのではないだろうかと心に思い始めていた。


 服を脱いでパンツ一丁になり、解放的な気分になった片山は、その姿のまま直美の食事の準備を手伝い、そしてそのまま食事を直美と二人で食べた。


 結婚する前は、片山は家ではもっぱら裸で過ごしていたのだが、直美から「せめて家ではパンツくらい穿きなさい」と言われ、現在の生活様式に至っている。直美も、とりあえずパンツを穿いていれば許すというスタンスで、この新婚期間を二人は過ごしてきた。


 食事を食べながらも、片山はあの鼻毛の事が気にかかっていた。


(くそっ……。明日もまたあの鼻毛を気にしながら仕事をしないといけないと言うのかっ……)


 きんぴらゴボウを箸でつまみつつ、片山がそのような事を考え、多少憂鬱になっていると、直美が、「ねえ、見てあれ」と、写っていたテレビの方を指さした。


 二人は、食事の時にはテレビをつける事が多かった。片山自身は、テレビも何もつけずに独身時代は食事をしていたのだが、直美はテレビを見ながら食事する事が多かったらしく、テレビをつけながら食べたいと言い出したので、別にどちらでも良い片山はそれに同意し、そして二人は現在の生活様式に至る。


 片山が振り向いてテレビの方を向くと、ちょうどそこには、金メダルを取ったオリンピック選手のインタビュー映像が映し出されていた。


 それは、以前のオリンピックで水泳のメダルを取った選手の、インタビューの様子であった。その逞しい逆三角形のボディをした男性選手は、片山がテレビに目を向けたとき、ちょうどメダルを噛む仕草をしているところであった。


「何でさあ、オリンピックでメダルを取った人って、こうやって皆メダルを噛むのかなあ?」


 このインビューがどうかしたのだろうか……と思った、片山の向かいに座っていた直美は、そんな事を言い出した。


「別にさあ、この人達、別にメダルを噛みたいわけじゃないよね? 噛まなくて良くない? 恭介どう思う?」


 特にメダリストの行動などに興味は無かったのだが、とりあえず直美の言葉に片山は答えた。


「さあ……? 多分あれだろ、インタビューしてる人から『お願いします』とか頼まれて、やってるんじゃないの?」


 片山のその答えに、直美は納得いかない様子でまくし立てた。


「でもさあ、そんなの頼まれてもしなくて良くない? メダルを噛むなんて別に私達も見たくないよね? 選手が噛みたいんなら良いけどさ」


 直美は、真剣な表情で片山を見つめた。


「もうさ、本当に俺は噛みたいんだ! って、本当にメダルを噛みちぎるぐらいの勢いで噛むんなら分かるけど、そうじゃなくってさあ、なんかあんな感じの甘い噛み方じゃ、私は納得できないわ」


 視線をテレビに戻しながらそんな事を言っている直美を見ながら、片山は思った。


 何をそんなどうでもいい事を言っているんだ、この人は。


 夫である俺が、鼻毛の事でこんなに真剣に悩んでいるというのに、この愛すべき妻はメダルの噛み方が気に入らないなどと、そのようなどうでも良い事を気にしていると言うのか。


 そんな心の叫びを顔には出さず、片山は「まあ、メダルを噛むのを見たい人も居るんだろうよ」と、適当に直美に対して答えた。


 「ふーん……あ、そうそう、今日さ、ごぼう買ったじゃない? いつも行くあのスーバー竹山、あそこでごぼう買ったんだけど、一袋いくらだったと思う? 当ててみて」


 もうメダルを噛む話はどうでも良くなったのか、直美は別の話を片山に振ってきたが、片山はどうでも良かったので適当に、「えー? 5円とか?」と返事をした。


 そんな片山の答えに、直美は、この男はなんとつまらない答えをするんだろうと思った。


 楽しい話題を提供してあげている妻に対して、夫でありながらそのようなつまらない答えを出してくるとは。そこはありがちに一袋百円とか二百円とか言っておけば良いものを、いきなり5円とか、実際より低い額を言われたら全く興が削がれる、直美はそのように思った。


 直美はムスッとした顔をして、「ちょっと、真面目に答えてよ!」と少しばかり文句を言った。


「ああ、ごめんごめん……じゃあ、百五十円くらいかな?」


 しょうがない、付き合ってやろうと言わんばかりの片山のその答えに、直美はニヤつきながら正解を言った。


「ブー! 正解はねぇ、138円だったの! 安くない? ねえ安くない?」


 あっさりと機嫌が治った直美と、そんなどうでもいい会話を続けた片山は、職場で出会ったあの鼻毛の事を、ほんのひと時だけではあるが、忘れる事が出来たのであった。

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