俺には言えないと思う片山
「……ふうっ……」
職場の手洗いで片山は顔を軽く洗うと、自分の中に巣食った思いを振り払うかのように、頭を軽く左右に振り、目の前にある小さな壁掛けの鏡を見つめた。
「……はっ……俺がやっても、様にならないか……」
かっこいい役者や俳優がやったならば、それなりに絵になるであろうこの光景も、特に風采のあがるわけでもない片山では、ただの三十男が顔を洗っただけの事であった。
ましてや、片山の気持ちの整理の対象がただの鼻毛だとあっては、なおさら格好のつかないこの様子に、片山は苦笑し、そう独り言を言う他は無かった。
片山は、自分の頬を両手で軽くパン、パンと叩き、気合を入れ直すかのように、目の前の鏡に映る自分自身を見つめた。
そんな、まるで今から何か大きな勝負事でもやるかのような雰囲気を醸し出す片山を、後から手洗いに入って来た職場の同僚が、何やってんだ、こいつ? と言いたそうな顔をしながらチラッと見て、その後ろを通り過ぎて行った。
よし、今度はいける。脇目も振らずに仕事に集中しよう。
心の中で自分にそう言い聞かせた片山は、職場の机に気合を込めて座り仕事を始めたものの、10分もしないうちに、また先程の状態に戻ってしまった。
見てしまう。どうしても見てしまう。
奥田係長の鼻毛の力は、それ程までに強力であった。
つい見てしまう度に、片山はしまったとは思うのだが、やはり少し時間が経つと、また片山は奥田係長の鼻に目がいってしまうのである。
つい、今また右斜め前45度を見てしまった片山が頭をかきむしると、それに気付いた奥田係長が片山に声を掛けた。
「片山くん、どうしたの? 今日は何やら落ち着かないみたいだけど、体調でも悪いの?」
「い、いえ……何でもありません。大丈夫です」
片山のその返事に、奥田係長は安心したようにニッコリと笑った。鼻毛もそれに合わせて、まるで片山に微笑みかけるかのようにふわりと動いた。
片山がこの部署に配属されてから、もうかれこれ一年半くらいになる。その間、片山は奥田係長とそれなりに上手くやってきたつもりであり、それほど仲が悪いわけでも無く、たまにはお互いに笑い合うような事も無い訳ではないのだが、まだ片山は、上司に面と向かって鼻毛が出ていると言える程の仲になっているとは思えなかった。
温厚な奥田係長の事だから、鼻毛の事を言っても大丈夫だろう、そう思うのは容易い。
しかし、そう思って簡単に鼻毛の話をしてしまうのは何となく片山には気が引け、奥田係長に鼻毛が出ていると言う事ができなかった。
言ってしまえば、何となくではあるが、奥田係長の優しさにつけ込んでいるような、なぜ自分でもそう思うかは分からないが……そんな気がしたのである。
俺には言えない。そう片山は思った。
そうなった以上、どうしてもつい見てしまう、あの憎き鼻毛が片山の目の前から消えて無くなるためには、奥田係長が自分で気付いて鼻毛を抜くか、またはあの鼻毛が自然に、または何かの拍子に抜けるか、そうで無ければ、奥田係長に鼻毛の事を指摘出来る何者かによって、奥田係長に鼻毛の事を気付かさせるか、そのどれかになる事が決まってしまった。
できるだけ早く、あの鼻毛には消えてもらわなければならない。でなければ、片山の仕事の効率は今後も回復が見込めない。
奥田係長の鼻毛は、片山にとって、ある意味深刻な問題となりつつあった。




