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赤い花

 その日ジェラルドは夜遅くまで執務室に引き止められていた。


「ああ……もう。まだ終わらないのか。早く寝たいのに」

「殿下が昼間さぼって遊びに行っていたツケですよ。今日中に終わらせなければ行けない案件がたくさんあるのですから」


 秘書官に言いこめられて、ジェラルドは不満を言いつつ、書類に目を通しサインして行く。ジェラルドは皇太子であるラルゴの弟だ。ジェラルドが皇帝になるわけではないが、将来的には皇帝となる兄の補佐をする為に、ある程度政務を取り仕切る能力も求められている。

 それがわかっているから最低限の仕事はこなした。最低限の事だけは。


「またアンネという官吏の様子を覗きに行ったのですか?」


 秘書官の言葉にぎくりとしつつ、弁明を口にした。


「心配だったんだ。なんだか最近アンネの様子がおかしくて。今日も凄い辛そうな表情をしていたから、慰めてあげようとしたのに……お前が止めて無理矢理ここに連れてきたから……」

「当たりまえです。やるべき事をやらずに、女にかまけていたら、アンネというその少女にも迷惑がかかるのですよ。一人の女にかまけて、政務をさぼる皇子。皇子を誑かす女とね。本気で応援する気なら、自分のやるべき事をやってください」


 秘書官の言葉にジェラルドは口をつぐんで、また仕事に戻る。確かにアンネの事ばかりにかまけていれば、自分だけでなくアンネの評判も悪くなる。ジェラルドはアンネにふさわしい男でありたかった。だが……そこにはもう一つの葛藤があった。

 ジェラルドは仕事をしつつ、秘書官にさりげなく話しかけた。


「兄上は……しっかりと政務を執り行っているのだろう……? 弟の僕が出しゃばって、仕事をする必要はないと思うのだが……」


 その言葉に秘書官は少しだけためらいつつ答えた。


「ジェラルド殿下を皇帝に、そういう輩の事が気になりますか?」

「当たり前だ。皇太子は兄上なのだ。僕は皇帝になる気もないし、頑張ってる兄上の邪魔はしたくない」


 それはジェラルドの、弟としての精一杯の優しさだった。子供の頃から、皇太子になるべく、必死に努力を積み重ねてきた兄の事を、ジェラルドは尊敬していた。自分がその兄の障害となるのが心苦しくて、暗愚のマネ事でもすれば、周囲も諦めるかとも思ったが、そう簡単には行かないらしい。


「ラルゴ殿下が皇帝になられた後、それをお支えするのがジェラルド殿下のお仕事でしょう。周りのうるさい連中に惑わされなければいいのです。さあ、仕事をしてください」

「仕事なら終わったぞ」


 そう言って最後の書類にサインをした。秘書官が驚いて確認すると、書類は全て細かい指示書がつけられており、決して適当にサインしただけでない事がよくわかった。

 雑談をしつつ、これだけの仕事量を短時間で終わらせる。その能力に思わずため息をつく。この皇子が本気を出せば、確かに良い皇帝になるかもしれない。惜しいと思う気持ちもある。だが本人が皇帝になる気がないのだからそれを蒸し返す事はしたくはない。


「寝る前に茶を一杯飲みたい。入れてきてくれ。僕は気分転換に外の空気でも吸ってるよ」


 そう言ってジェラルドは執務室からベランダに出た。夜風が涼しくて心地が良い。雲一つなく美しく輝く星達を眺めて、ジェラルドは物思いに耽った。

 今日見かけたアンネの様子を思い出し、胸騒ぎを覚える。彼女に何かあったのでは……そう思うと胸が苦しい。アンネの事が好きだ。一人の女性として愛している。だが、今の彼女は自分に与えられた仕事をこなすのに精一杯で、ジェラルドの気持ちにこたえる余裕はないだろう。


「だから僕はアンネを見守って応援するんだ。頑張るアンネが好きだから……愛しているから……」


 そんな独り言の呟きが、夜の闇に吸い込まれて消えて行く。誰も聞く事のない愛の言葉。ふと愛しいアンネの事を思い浮かべて、ここから見える位置に彼女の部屋があった事を思い出す。

 なにげなくそちらを向いたその時だった。彼女の部屋のベランダから、落ちて行くその姿が見えた。

 ジェラルドは恐怖で一杯になりながらも、とっさに魔法を使って、風に乗りとんだ。腕をふるって彼女の体に風を纏わせようとしたが、それは後一歩という所で間に合わなかった。


 地面に赤い花が咲き、その上で白い夜衣を着た彼女が横たわっていた。


「アンネ!」


 ジェラルドは泣きそうになりながら、彼女にそっと手を伸ばした。まだアンネは息をしていて、うつろな目でジェラルドを見た。


「ジェラルド……ごめんなさい。せっかく……応援してくれたのに……。私……ダメだった。もう……ダメなの……」

「アンネ、話さなくていいから。すぐに医師を呼ぶから」


 そう言いつつジェラルドにもわかっていた。彼女の命が尽きる間近だという事に。


「ジェラルド……好きだったよ。本当は……ジェラルドのお嫁さんになりたかった。……でもダメだから……。ジェラルドは幸せになってね……」


 か細い声で儚げに微笑むアンネの姿は、痛々しく、ジェラルドの心をなお一層苦しめた。


「僕もアンネが好きだ。だから死なないで……僕を置いて行かないで……」


 ジェラルドは無意識に泣いていた。ぽつりぽつりとこぼれ落ちる涙は、アンネの顔に振りそそぎ、アンネはその涙を見て悲しそうな表情をしていた。


「最後に……ジェラルドと口づけしたい。私……そんな女の子らしい事、何もしないで……いなくなってしまうから……。お別れに……ね。お願い」


 アンネのその言葉にジェラルドは涙をこらえつつ、最初で最後の口づけをした。ただふれあうだけの、優しい、優しい口づけを。


「ありがとう……ジェラルド……好きだよ」


 そう言ってアンネは微笑むと、静かに目を閉じた。それが彼女の最後の言葉だった。

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