震える指先
ジェラルドの顔もろくに見ずに、逃げ出すようにあの場から立ち去った。今でもドキドキが止まらない。
確かリーリア様の話では、リドニー宰相は「影の皇帝」とまで言われるほどの実力者だと聞いた。そんな人が現皇太子を批判して、その弟を皇帝の座に押し進めようとしている。
それは私なんかが聞いていい話ではないはずだ。なんでそんな暗躍に自分が巻き込まれなきゃいけないんだ。
もう一度振り返ると違和感があった。ジェラルドはリドニー宰相に向かって睨んでいた。もしリドニー宰相がジェラルド派で、それにジェラルドが同意しているならば、あんな表情はしないと思う。
だとしたら……ジェラルドは皇帝になる事を拒否しているのだろうか? それならそれでいい。本人がやる気のない事を押し進める事は出来ないのだから。
もしかして、ジェラルドがいつも本気出してないのは、そのせいなのだろうか?
振るえる手を押さえて、呼吸を整える。ゆっくり自室に戻ると、すぐにラルゴに呼ばれた。
「どこに行ってたんだ?」
「ちょっと散歩に……。殿下? お帰りは夕方のはずでは?」
「気が進まないから帰ってきた」
そう言いつつソファに深く腰掛け、体を大きく背もたれに沈めたラルゴの顔は、疲労の影が濃く彩っていた。お酒を飲んで酔っぱらってきたのかもしれない。気分が悪そうだった。
「茶を入れて欲しい」
茶という物は不思議な物だと自分でも思う。カフェインが含まれているから、覚醒効果は高いはずなのに、なぜかお茶を飲むとリラックスして、眠くなる気がするのだ。
そういう穏やかなお茶も良いだろう。でも酔い覚ましのお茶には……。
私はかなり渋めでさっぱりとした冷たいお茶を淹れて持ってきた。
「酔い覚ましにはこれがいいですよ」
ラルゴが一口飲むと、かっと目を見開いてこちらを見た。
「目が覚めるような一杯だな」
「酔い覚ましにはちょうどいいかと」
ラルゴはすぐに立ち上がって言った。
「そうだな……。後で執務室にこのお茶を持ってきてくれ。目の覚めるお茶をな」
「お仕事をされるのですか? お休みになられた方がいいのでは?」
「それは余計な心配だな。社交も実務も、すべてこなせなければ、皇太子の名に恥じぬようにな。ジェラルドにはこの地位は渡さない」
先ほどの事を思い出し、どきりとして私は、アイスティーをいれた器を、取り落とした。金属製の器は音を立てて転がっていく。その様子を見てラルゴは私を睨んだ。
「何か言いたい事でもあるのか?」
「い、いえ……」
「お前まで俺よりジェラルドの方が良いというのか」
「違います! 私じゃない!」
ラルゴは立ち上がってゆっくりと近づき、冷たい目で私を見下ろした。
「じゃあ誰だ?」
「……」
簡単に口にしていい事じゃない。でも言わずに許してももらえそうにない。指先がまた震える。余計な事は考えずにお茶を作ったり、売ったり、淹れたりするだけで満足。
皇室のお家騒動に巻き込まれるなんて願い下げだ。
「ジェラルドか?」
私は頭を横に振った。
「リドニーか?」
言われた瞬間首を横に振れなかった。かたかたと体が震える。重い重い沈黙の後、ラルゴは大きくため息をついて、ソファに腰をかけた。両手で顔を覆って俯く。その表情はわからない。絞り出すように声を出した。
「やはりな……。昔からアイツはジェラルドの事ばかり目をかけてたからな。どれだけ俺が努力しようとも見向きもしない。ジェラルドの事件だってもみ消して……」
そこでラルゴは言葉を切って言った。
「マリア……お前ももう知っているのかもしれないが、ジェラルドの起こした事件について聞きたいか?」
そう言ったラルゴの瞳は、嫉妬でギラギラしていて、暗く濁っていた。ジェラルドと比較され続け、どれほど努力しても追いつけずに、目も欠けてもらえない。
それはどれほど悲しい事だろう。胸が苦しくなった。私はこの人の目で話を聞きたいと思った。
「聞きたいです。殿下の口から」
「わかった話そう。聞けばお前もジェラルドに失望するかもしれないな」
そう言って笑った時の表情が、とても恐ろしく見えた。
「少し疲れた。お茶を飲みたい。もう酔いは冷めたから、温かいお茶がいいな。心が休まるような」
「この前淹れた花茶をお持ちしましょう」
「ああ……それでいい。淹れてきてくれ」
また俯いて顔を覆う。私はそっと部屋を出て、お茶を用意しにいった。この前は昼のお茶だったから、すっきりとしたハーブも効かせてみたが、今回は安眠効果のあるハーブを多めに入れよう。
できるだけたっぷり時間をかけてお茶を入れて戻った。ラルゴはもうあのギラギラとした瞳ではなく、いつもの穏やかな表情をしていた。
私はラルゴにお茶を入れて、自分もラルゴの向かいのソファに座ってお茶を入れた。ラルゴがゆっくりとお茶に口をつけながら話し始める。
「俺たち四人の子供の頃からの関係の話はしたな……その続きだな……」
微笑ましい四人の関係が終わりを告げる時が近づいていた。




