微妙な二人
本に目を落としぺらぺらとめくっているが、全く頭に入ってこない。上の空という奴だ。今日も私は書庫で本を探しているが、それはただ本に触れていると落ち着くからというだけの事だ。
昨日のリーリア様の話はかなり衝撃的だった。あれを聞くまでは皇太子から聞いた、ジェラルドの人殺し疑惑は何かの勘違いか、嫌がらせとも考えられたが、リーリア様まで信じる噂という事はかなり信憑性のある事なんだろう。
もちろんリーリア様のいうとおり、何か事情があったのだと思う。ジェラルドがそう簡単に人殺しできるひとだとは思わない。むしろそこまでするほどの重大事件でも起こったのだろう。
この世界は身分制度もはっきりしてるし、日本よりずっと権力者に有利な世界だ。だから王子が人殺しなんてしても、数年ふらふら海外に追放される程度で済むのだろう。
でも日本人感覚の抜けない私は、人殺しという言葉に恐怖感を覚える。最後にジェラルドに会った時無意識に彼を拒んだ事……たぶんまた会ったら同じ事をするだろうという事。それが何か悲しかった。
ロンドヴェルムにいた頃、彼は何もしたくない、働きたくないと言っていた。何かこのアルブムで大変な事があって傷心だったのかもしれない。それでもあの時の何もしないジェラルドの方が好きだった。
なにもせずにただ無条件に私を受け入れて、私らしく生きて良いんだと認められてるようで嬉しかった。それが今は遠い世界の人のようだ。
ぼんやりと本を見つめていると視界がにじんで見えた。涙がこぼれそうになり慌てて拭う。本をぬらしてはいけない。
その時書庫の扉がノックされる音がした。
「お嬢様を訪ねてきた者がいます。追い返してもいいでしょうか?」
キースの声がわずかにいらだって聞こえる。昨日に続いて私を訪ねてくる人がいるだなんて誰だろう。それ以上に気になったのがキースの対応だ。いきなり追い返してもいいかと聞くだなんて誰が来たのか……。そこまで考えて私は慌てて本を閉じ扉を開けた。
「会うわ。応接間に案内して」
キースが不満そうな表情を浮かべたが、何も言わずに一礼して去って行った。私は慌てて自分の部屋に戻り鏡を見る。本を読むのに邪魔だからと適当にくくっていた髪を下ろして、櫛で整える。服装がおかしくないか確認したが、着替えていたらだいぶ待たせてしまうだろう。
そんな風に思わず身だしなみを確認してしまう自分が、滑稽に思えた。なぜ彼にそんなに気を使う必要があるだろう。予想通りの相手なら、どんな姿をしていようと構わないだろうに。
ああ……彼の事好きなんだな、無意識に着飾ろうと思うくらいに。
私は覚悟を決めて応接間に向かった。
応接間にいたのは私の予想通りジェラルドだった、人目見た瞬間やっぱり彼が好きだという思いと、人殺しという言葉が思い出されて、私の心の中は嵐のように揺らいでいた。
「マリア急にごめんね。今日はお願いがあってきたんだ」
「お願い?」
私はジェラルドの向かいの席に座って彼の話を聞いていた。その間も心の中は揺れ続ける。
「実は皇帝と皇后、つまり僕の両親が離宮から帰ってきて、晩餐会を開くんだ。それでマリアの噂を聞いたらしくて、是非マリアの淹れたお茶が飲みたいって言うんだ。晩餐会でお茶を淹れてくれないだろうか?」
真剣な表情のジェラルドの様子に大きく動揺する。晩餐会となれば沢山の貴族が来るだろう。もちろん皇帝の息子である皇太子とジェラルドとも会う事になる。
正直の所今は二人と会いたくはなかった。しかも今みたいに気軽に話なんてできない。王子としてのジェラルドと向き合わなければいけない。気が重い……。
思わず目線を下に落としてぎゅっと手を握って無言になる。気が重いけど断りづらい。どうしたらいいだろう。迷っているとジェラルドの手が伸びてきて私の手に触れた。
「駄目……かな?」
見上げると困った子供のようなジェラルドの表情にぶつかりどきりとする。私が何も言えないでいると、キースが近づいてきて、ジェラルドの手を振り払った。
「お嬢様が困っている。無理を言わずに帰れ」
ジェラルドが王子だとわかっていてもなお、ロンドヴェルムにいた頃と変わらないキースの態度に驚いた。ジェラルドもそんな事で気を悪くする所もなく大人しく身を引きしゅんと落ち込んでいる。
その様子を見ているだけでロンドヴェルムに戻った気分がした。それで私は少しだけ口を開く勇気が出てきて、気になっていた事を言ってみた。
「ジェラルドが……人を殺めたって聞いたの……。本当?」
ジェラルドは一瞬表情を消して固まった。その後小さくため息をついて目をふせて、その後何かを振り切ったように真っ直ぐに私を見て言った。
「それは本当だよ。僕は人を殺した事がある。でもその事を後悔してない」
はっきりとした口調で言われて私はショックを受けた。ただの悪い嘘という可能性は完全に消えたのだ。私は小さく震えた。それを見たジェラルドは悲しい表情になる。
「僕が怖い?」
「……」
答えられずに俯くとジェラルドはまたため息をついた。
「わかった。ごめん無理を言って」
そう言ってジェラルドは立ち上がり部屋から出て行こうとする。その背中に向かって私は言った。
「少しだけ考えさせて。返事はまた今度」
私の言葉を聞いたら、ジェラルドは振り返ってほっとしたようにへにゃりと笑った。
「ありがとう。マリア」
その情けない笑顔はロンドヴェルムにいた頃と変わりなくて、泣いてしまいそうになった。ああ……この情けない男を私は好きなんだとはっきり自覚した。




