#28
――楽しかった……な。
電車に揺られながら、獅音は窓の外を眺めいた。
いつもならイヤホンをつけて、外の音を切り離す。
だが、今日は音が聞こえない。
窓に映る光が、数十分前の出来事を思い出させる。
――「大丈夫」……か。
別れ際の琥珀の言葉を口の中でなぞる。
同時に、あの儚い笑みが頭の中で再生された。
ズボンのポケットからスマホを取り出し、画面を見つめる。やがて、何かを閉じるかのように画面は暗くなってしまった。
――明日また、話そう。
スマホをポケットへと戻そうとした途端、スマホが小刻みに揺れた。瞬時に画面を確認する。
――碧音から……か。
『りょーかい、ごめん。今帰ってるって伝えといてほしい』
送信し終えたタイミングで停車駅に着く。
強く握りしめた拳を作った左手をポケットに入れながら、獅音は電車を降りる。
空を見上げると、やっと出てきたはずの月が雲によって隠されていた。
「ただいま」
玄関が暗いせいか、奥にあるリビングから漏れる灯りが自分を呼ぶ声がする。
"ここへ来い"
その呼びかけに答えるように重い足を持ち上げる。
徐々に自分の顔が笑顔になっているのが分かる。
今何に対して、笑ってるのか。何が面白いのか……自分でも分からない。だがそんな理由などいらない。
ただ体の思うがまま――身を委ねるだけ。
リビングに入ると、テーブルには開きっぱなしのノートパソコンと書類が置かれていた。
――そっか、明日から母さん出張だった。
「おかえり、遅かったじゃない。」
そう言いながら、リビングへと入ってきたのは母親だった。帰宅したばかりなのだろうか、スーツ姿のままだった。
母親の声、歩く音、何かを動かす物音……その全てがやけに大きく獅音の耳元へと聞こえてくる。
「ごめんね、ちょっと学校の課題やってきたんだ。今回のはグループ課題だか――」
「あら。あ、お母さん明日から出張だから後のことは頼むわね。ごめんね、毎回頼んでばかりになっちゃって……獅音にしか頼めないのよ。」
線に沿って描いていたはずの笑顔が、一瞬乱れたような感覚に陥る。
だが、すぐに綺麗な笑顔へと戻った。
「大丈夫だよ。海外出張だっけ、どのくらいなの?」
「だいたい3週間くらいかな。」
その数字を聞いて、獅音の肩がわずかに下がった。
焦って獅音は視線を落とそうとする――と同時に母親が獅音の左肩に軽く触れ、驚いて目が合ってしまった。
「なぁ~に、お母さん家族のために頑張るわ!しかも今回は代表も務めるのよ~、すごいでしょ!お土産も楽しみにしててね」
獅音の視界に映ったのは、母親の口角が上がった綺麗な笑顔。
――この人も、仮面をかぶっているのだろうか。
ふとそんな考えがよぎる。獅音は自分自身に驚いた。
慌てて、手を洗おうとキッチンへ向かう。
"余計なことなんて考えるな" "大丈夫な自分でいるんだ"
――どうして。どうして、今日は心に隙間があるんだろう。なんで、今日だけ……。
「夕飯作ってくれるの?あ、今日はまだ準備終わってないからお母さんの夕飯はいらないわ」
獅音の耳元に母親の声が入ってくる――が、水に沈んでいくように音がぼやけていく。
――琥珀、今何してるんだろ。ちゃんと家帰れたかな……家、送らせてほしかった。




