1-5 「天使」がどんな存在であろうとも
五 「天使」がどんな存在であろうとも
「――ふう、行ってしまいましたわね。まるで嵐のような人です」
「は、はは……そ、そうですね」
メルは、キリエが去っていくのを涼しげな表情で見届けながら、そっと呟いた。
嵐のような人なのが自分自身であることには、まったく気づいていないらしい。アンナが思わず苦笑した。
燃え上がる家屋群と、そそり立つ何本もの黒煙。あちらこちらから聞こえてくる喚声と悲鳴。それらを見渡しながら、複雑そうな顔色を浮かべるアンナの肩に、メルは革袋から取り出した褐色のケープを後ろからふわりと羽織らせた。
そして、アンナが持つ暗い金色の髪を優しげに撫でながら、姉のような口調で言う。
「でも……アンナさん。キリエさんの言うとおりです。屋根の上は危険ですわ。落ちたら危ないどころではありませんし……。ほら、精霊たちも、アンナさんのことを心配していますわよ?」
思い悩むあまり空を見上げる妹と、その思いを背後から受け止めようとする姉であるかのように、メルはアンナの肩を、後ろからやんわりと抱いてやった。
「――はい。ごめんなさい、お姉さま」
青い服を着た人形のように、可憐でいとおしげな姿をしたアンナは、背後から抱かれるとそのままふわっと、メルの両腕に身を預けてきた。それはまるで、姉に対する親愛の表現そのものだった。
そしてしばらくそうしてから、アンナはにわかに振り返ると、不思議な透明度をたたえた青緑色の瞳で、丸メガネに覆われたメルの瞳を、じっと見上げてきた。
「でも――。お姉さま」
アンナは潤んだ瞳でメルを見上げ、不安げな表情で尋ねてくる。
メルは、アンナから「お姉さま」と呼ばれている。
姉妹のように見えるのはそのためだが、実際、二人は血の繋がった姉妹でも何でもない。
それでも出会って以来、ひとりっ子であるアンナは、まるで姉ができたかのようにメルを慕っていたが、昨夜の「あの事件」以来、さらに懐いてくるようになっていた。
そのアンナが持つ、神秘的な青緑色の瞳の奥に灯るのは、何らかの異能を宿した者が持つとされる、燐光のような黄色い輝き――。
はかなげに揺れるロウソクの炎のように、その燐光は瞳の中で瞬き、なおも消えずに燃えつづける。
アンナはその燐光を瞳の奥に揺らめかせながら、お姉さまと慕うメルの顔を見上げ、胸元で手を合わせた。そこでは金色のメダルをあしらったブローチが、大事そうに両手で包まれている。
「天使様は、私たちを本当にこの絶望からお救いくださるのでしょうか。この、信じたくない、悪い夢のような現実から……」
そう問いかけると、アンナはまっすぐにメルの瞳を見つめてきた。
火山湖のように神秘的な、青緑色の瞳から感じられるのは、戦場に身を置くことへの不安感。
さらにその奥に見えるのは、この街がどうなってしまうのかわからないことへの、戦慄と焦燥感。
それらがない交ぜになり、可憐な瞳の奥から、恐れの感情がにじみ出てくるかのようだ。
それらを敏感に感じ取ったメルは、吹きすさぶ強い潮風から守ってやるかのように、アンナを正面からぎゅっと抱きしめると、真下に広がる酒場前広場を、屋根の上からぐるっと見渡した。
「天使様は……」
そっと口を開き、何かを語ろうとするが、メルはそのまま口を閉じ、しばらく間を置いた。
脳裏に、彼女が「天使」だと信じる男の笑顔がちらつく。その笑顔こそが、天使の微笑なのだろうと思う。
街区の中心にある大きな宿酒場の前には、大通りが広くなったような、ささやかな広場が設けられている。メルはアンナを抱きしめたまま、無言でその広場に視線を落とした。
都市の中心部にある中央街区から、放射状に伸びた大通りの終点。普段は賑やかな市場が立つ、住民たちの交流の場だ。
敵の軍勢がその広場に押し寄せて以来、ここを中心として敵味方の男たちが入り乱れ、何度も必死の攻防が繰り広げられてきた。
広場では今も睨み合いが続いているが、主戦場は背後の路地裏に移り、老鍛冶師ピウスや弓使いキリエらによる闘いが、怒号や悲鳴とともに続いている。
この街はもはや、帝国の侵略に屈してしまったのだろうか。
ともに戦う勢力はいないのか。助けに来てくれる者はいないのか。
これは、抵抗することを決めた街区による、孤独な闘いだ。誰もが、絶望感に襲われそうになる心を必死に鼓舞して戦っている。
昨夜から、濛々たる黒煙を噴き上げている中央街区の建物。メルは煙に囲まれ霞んで見える市庁舎に視線を移したが、その市庁舎は今や、帝国軍に占領され司令部が置かれているという。
強大なる帝国軍。その軍事力と残虐さは、まさに神をも恐れぬ所業である。メルは思わず、手に持った分厚い写本に目を落とした。
今の自分が頼ることのできる、数少ない味方である本。そこには金色で、悪魔の紋様が描かれている。
それを見て、改めて決意を新たにしたのか、メルは力をこめて言葉を再開した。
彼女にとっての「天使」がどのような存在であろうとも、絶対に離れまいと心に誓いながら。
「きっと……わたくしたちを見捨てません。そしてあなたは、『三つの叡智を持つ賢者』の名にかけて、このわたくしが命に替えても守ってみせます。あなたは何も、心配することはありませんわ……」
そう言いつつ、屋根の上でいかに風にあおられようとも、左手から離すことがなかった黒い表紙の分厚い写本を、メルはぎゅっと握りしめた。
(……そんなわたくしを、どこかで見守ってくださいますか。お母様)
漆黒に塗られた本の表紙には、金箔で綴られた解読不明な古代文字と、悪魔の造形が並んで描かれている。それは魔術を行使する者だけが持つことを許される、古き記憶が秘められた「魔導書」と呼ばれる書物……。
それはメルが実家から持ち出してきた蔵書のひとつで、母親の形見。彼女にとって特別なものだった。
この書物に記されたものは何物であろうとも、決して悪用してはならない。一線を越えたら最後、その時点で歴史は大きく変わるであろう。悪魔に魂を売り渡す覚悟を持つ者以外、断じて使うべからず。
「魔導書」の序文には、そう書かれている。
――だがいずれ、絶体絶命の危機に陥るときが来るだろう。そのときは、躊躇してはならない。
この「魔導書」をひもとくことは、軍事力に押しつぶされようとする多くの人の命を助けることになるかもしれないが、同時に、人類は何か大事なものを失うことになるかもしれない――。メルはそう予感していた。
だが、メルはそんな予感に耐えるかのように、唇を強く噛みしめながら腕に力を入れ、アンナを後ろからしっかりと支えた。それに応えるかのように、なおも身を寄せてくるアンナ。
「お姉さま、私たちは……これからどうすればいいのでしょう?」
「何としても、生き延びましょう……。この街のひとりひとりが守ろうと心に決めた、それぞれの大切なもののために……」
「はい……。お姉さま」
抱き合う少女たちが見上げる海辺の空。その真っ青な空に、強烈な日射しが容赦なく照りつける。
真夏のような日射しを背景に、都市はとめどもなく、あちこちで炎々と燃え続ける。
古代からの歴史を誇る城壁都市にして、世界で唯一の「自由都市」リーヴェンス。
神と公国の名において、商業と人身の自由が約束された都市。この世の楽園であるべき都市。
だが、今、城壁都市はその長い歴史に幕を下ろそうとしている。
そしてこの海辺の都市を舞台に、人類の新たな物語が、つづられようとしていた――。




