7-6 「剣豪」対「歴戦の傭兵隊長」
六 「剣豪」対「歴戦の傭兵隊長」
「——クルト、俺の声が聞こえるか?」
宿酒場の主人でもある第十七区の座長ベンが、野太い声でささやいた。
だが夜風の中、そこに立っているのは、完全武装に身を包んだベンただ一人。
そんな彼の右耳には、メルが着けていたものと同じ、紫色の耳飾りが下げられていた。
メルの手持ちである、遠隔地と魔術的に通信できるという魔導具のひとつである。
それから少し間を置いた後、耳飾りがおぼろげに光ると同時に、空気を震わせるように小さな声が、どこからともなく聞こえてきた。
『……あれ? あー、あー。聞こえますかぁ、少佐。クルトです』
声の主は、元帝国軍人である書店主クルトだった。ここから少し離れた場所に陣取っている。
そこは特に、周囲の見通しがいい。全般の指揮を行いやすくするためであった。
『こっちはよく聞こえます……。屋根の上から指揮しろというあのお嬢ちゃんの進言には、さすがに驚かされましたが』
遠隔地との通信に慣れている者など、誰ひとりいないのが普通である。クルトも少なからず、通信というものに戸惑っているようだった。
屋根の上でひとり戸惑う姿に滑稽さを感じたのか、口元に笑みを浮かべたベンだったが、深く息を吸い込んでから、静かに返答した。
「ああ、よく聞こえる……。お互い、いい歳だ。間違って屋根から落ちるなよ」
『まだそんな老体じゃないですよ……。しかし奴ら、思ったより早く放火を始めましたね』
先ほど、第十七区の貧民街の数か所で爆発音が起こった。そこから火の手が上がっているらしい。中央街区の大火災とは明らかに違う、ごく近い場所である。
「そちらは、司祭様たちに任せるしかあるまい。俺たちは俺たちの任務を、遂行するだけだ」
ベンはそう言って決意を伝えてから、おもむろに自分の鼻髭に手をやった。昔のことを思い出そうとするとき、どうしてもこの癖が出てしまう。
「……だがクルト、少佐というのはやめろ。何度も言っているだろう」
二人きりで飲みながら話すとき、たいていクルトはこの呼び名を使ってくる。
ベンはそのたびに苦言を呈するのだが、クルトは謝りながらも一向に改めようとしない。
『今は二人きりなんですから、いいじゃないですか……。それに今夜だけは、昔のような上官と部下に戻れるんじゃないかって、そんな気がするんです』
魔導具がもたらす特殊な通信は空間を超えるため、顔を合わせていないのに隣にいるかのような、絶妙な親近感と息づかいとを醸しだしている。
そんな雰囲気をベンも感じたのか、手に持った両手剣を鞘に入れたまま地面に立てて左腕を預けると、肩の力を抜き、少しの間を置いてから、耳飾りに話しかけた。
「……そうだな。あれから二十三年くらいになるか。お前は、あの夜のことを覚えているか?」
『少佐と俺であの夜といえば、サビヌス渓谷しかないでしょう? 忘れるわけがないです』
寄り添う二つの月を屋根の上で眺めるクルトの脳裏に、薄暗い室内の情景が浮かぶ。
老朽化が進んで放棄されたと思われる、天井が抜け落ちた礼拝堂の中であった。
二十三年前の秋、ベルナルドゥス・アフィリオン少佐が率いる帝国軍の一個大隊は、大陸の中央に聳える山岳地帯のふもとに展開していた。
だが、絶望的な敗戦だった。誤った情報に踊らされて数倍の兵力を擁する敵にぶつかってしまい、力戦むなしく戦場からの離脱を余儀なくされたのである。
大隊は撤退中に捕捉され、敵の大部隊から包囲されかけたが、大きな犠牲を強いられつつもいくつかの小部隊に分かれ、どうにか血路を開き、脱出することには成功した。
だが小部隊それぞれの連絡手段は絶たれており、大隊は散り散りになってしまった。
「——思い出したくもないが、あれは俺にとって、人生最悪の負けいくさだった」
『……そう、なりますかね』
「夜がふけた時点で……。礼拝堂にたどり着いたのは本部中隊だけだった。その指揮官がクルト、お前だったな」
剣豪として有名だった大隊長のベンみずから大剣を振るい、先頭に立って包囲を突破してきたせいか、彼は全身に敵の返り血を浴びていた。それが泥や砂ぼこりと混じり合い、黒い塑像が座っているように見えただろう。
礼拝堂には百名以上が逃げ込んでいたが、そこにいる誰ひとり、五体満足な者はない。誰もが身体のどこかを負傷していた。状況は深刻である。
「さすがの俺も、戦場の露と消える日がついに来たかと、観念した」
今でこそ精神的に熟達した剣豪となったベンだが、当時は一介の帝国軍人でしかなく、千人規模の部隊を任されるのすら、このときが初めてだった。
初めての任務でいい結果を出そうと意気込んで出発しただけに、敗戦という思わぬ結果に直面したベンは、精神的にもかなり追い込まれていた。
『まあ、あのときは……。少佐にひどいことをしてしまい、失礼しました』
「いや、なに……。あの夜は俺もどうかしていた。もしお前がいなければ、部隊はどうなっていたかもわからん」
『そう言ってくれるのは嬉しいですけどね。でもいくら非常時とはいえ、田舎出の中隊長ごときが、上官の胸ぐらをつかんで往復ビンタなんて前代未聞ですよ。本来であれば上官侮辱罪で軍法会議ッス……』
「フッ……。俺も最初は驚いたが、あの状況では最良の判断だった。俺の目を覚まさせるためには、ああするより他はなかっただろう」
夜も深まり、敵の追っ手が迫る気配がする。
そのとき敗戦で弱気になったベンは、ついに兵士たちの前で、悲観的な結末を口走った。
礼拝堂に集まった兵士たちが、いっせいに顔色を変えたのは言うまでもない。
その瞬間——。
ベンの弱音を耳にしたクルトはすかさず立ち上がり、上官であるベンにつかつかと詰め寄ると、荒々しく胸ぐらをつかむやいなや、数発殴りつけたのである。
誰もが呆気にとられる中、上官に往復ビンタを食らわせたクルトは素早く飛びのくと、その場に平伏して、土下座の姿勢のまま大声を発した。
どうか、目を覚ましてください、風前の灯火となった部隊を、救ってください——と。
『ははは……。さすがに、直後の土下座はオーバーアクションでした……』
「いやなに、あれも素晴らしい判断だった。あの時期は抗命事件が相次いでいて、多くの指揮官が殺されていたからな。お前が筋を通してくれたおかげで、部隊は軍律を保つことができた」
帝国の軍法は絶対である。クルトの行為は上官侮辱罪に相当するが、当時の帝国軍法の量刑は死刑しか設定されていなかった。これは文字どおり、クルトの命を賭けた懇願であった。
だが、これで気持ちが入れ替わったのか、ベンの統率は劇的によみがえった。部隊が危機を脱したのは、歴史が証明するところである。
「ともかく。お前のあれがなければ、部隊も全滅していただろう。いまこうして生きているのも、お前のおかげだ。感謝する」
『買いかぶりすぎですよ。でもあのときは本当に、敵に殺されるより前に死ぬと思いました。これでも俺、図太い方なんですがね——』
クルトが後頭部を掻きながら謙遜したそのとき、二人の通信は不意に途切れた。
そしてしばらくの間を置いてから、屋根の上のクルトが沈黙を破り、しぼり出すような声を通信に乗せた。
『来ましたね……。放火した連中とは違って時間ぴったりだ。律儀なオッサンだというのだけは、確からしいッスね』
クルトのうめき声を耳元で聞きつつベンが見すえたのは、宿酒場の前。そこだけ、石畳の大通りの道幅がやや広くなっている。
中央街区のように公共の広場としては整備されていないものの、定期的に市が立つせいか、自然と道幅が広めになったものらしい。
炎上する放火現場から流れてきた煤煙が月明かりに照らされ、暗闇を幕のように隠す。
そんな煤煙の幕に隠れた粗末な家並みを縫うようにして、武装した男たちが横一列を保ちながら広場に姿を現した。その数、二十名以上。
「帝国の正規軍ではない、か……。彼らが、例の『ヒューリアック解放戦線』という連中のようだ」
『そのようで……。でも何度も言いますが、少佐ひとりで、本当に大丈夫なんですか?』
屋根の上から傭兵たちを見ていたクルトが、心配そうに声をかけてくる。
そう——。宿酒場の玄関前を守るのは、完全武装に身を包んだベン、ただ一人なのである。
「大丈夫だ。敵の団長が本当にあの『隻眼の槍使い』ニケフォルス・アイゼナーであるならば、正々堂々、一騎討ちで来るはずだ」
『……わかりました。では魔導具を通じて、ほかの連中に指令を伝えます』
「うむ。ここは、俺に任せてくれ……。お前は手はず通り、アリストメネス伯のごとく全般指揮を果たせ。それとキリエに、すべてお前の腕前次第だ……と伝えてほしい」
ベンは耳飾りのクルトに対してそう命令しながら、固く締めつけていた革鎧の留め具を、少しだけゆるめた。動きやすくするためである。
五十代もなかばを過ぎたベンの肉体だが、鍛えぬかれた筋肉は浅黒い。革鎧が小さく見えるくらい、はち切れんばかりに盛り上がっている。聞きわけのない老人を立っているだけで威圧したその巨体は、不断の努力によって培われたものだ。
そして彼の背には、手に持っている両手剣のほかにもうひと振り、巨大な両手剣が斜めに固定されている。
手にした一本は、普段から鍛錬に使用している革の鞘の剣。そして背中の一本は、鮮やかに装飾された赤の鞘をもつ、ひとまわり大きな両手剣。彼が厨房の奥に秘蔵していたものだ。
「馬に騎乗する者は一名……。騎士階級は、それほど多くないようだ」
重々しい口調でそう呟いたベンの瞳は、異臭とともに流れてきた白い煤煙の向こうからゆっくり歩を進めてくる、馬上の人物の姿をとらえていた。
その他の傭兵たちが鎧なし、もしくは略式の革鎧ばかりであるのに対し、馬上の人物だけは毛織りのマントの下に鎖かたびらを着込み、革製の胸当てや真鍮製の脛当てを重ねて装着している。
「……クルト。その位置から、敵の人数や動きが見えるか?」
ベンは落ち着いた口調を崩すことなく、日頃から愛用している汗止め兼用の「アーメット・バンド」を締めながら、屋根の上にいるクルトに対し状況の報告を求めた。
クルトは街に展開した親方たちを指図しはじめていたが、ベンの求めに対しても的確な報告を返してきた。
『正面にいるのは……十数名。二十名もいません。残りは……左に十数名、右に二十名くらい。奴らはおよそ百名と聞いていますので、残りは別働隊として散っていると思われます』
「わかった。では……手はず通りにやってくれ。成功を祈る、クルティウス中尉」
今や遠い過去となった自分の軍人時代を思い出しながら、最後にクルトの本名をつけ加えたベンの脳裏に、驚きかつ畏まるクルトの姿が一瞬浮かんだ。
そして両脚を踏んばり直し、宿酒場の玄関扉を背にすると、ついで馬上の人物に視線を移す。
兜を着けていないせいか、みごとに禿げ上がった頭が、夜目にもよくわかる。
そして左目に巻いた黒い眼帯が、より顔貌の異様さを増している。額から頬にかけて縦断する、大きな古傷を隠すためのようだ。
(あれが「隻眼の槍使い」、傭兵隊長ニケフォルス、か……)
両脚を踏みしめて立つベンが睨みつける視線の先で、ニケフォルスは悠々と馬を降りる。
そしてどこか優雅かつ奥ゆかしい所作で傍らの馬丁に手綱を渡し、ついで鞍に装着した細長い帯革から棒状のものを取り出すのが、ベンの目に入った。
(金属製の槍……。いや、矛槍か)
あまりにも好戦的な武器を目の当たりにしたベンは、思わず眉をひそめた。
ニケフォルスの矛槍は、鋭利な両刃の穂先をもつ槍の横に、小型の斧と鉤爪が附属した長柄武器である。だが槍と同じく刃がつけられた斧は扁平で、斧というより山刀に似ている。
そして槍といえば木製の柄が主流だったこの時代に、穂先を含めすべてが金属で作られている。非常に珍しく、戦場での耐久性を重視した特注品であることは明らかだ。
そうしているうちにニケフォルスは、装具の金属音を鳴らしつつ、居並ぶ傭兵たちの列からひとり、ゆっくりと前に出てくる。
やがてベンの顔が望める位置までくると、唐突に歩みを止め、持っていた矛槍を振り上げてガチャッと肩に担いだ。
「オレの名前は、ニケフォルス・アイゼナーだ」
気取った顔つきで顎をしゃくったニケフォルスは、ベンより背が低いにもかかわらず見下すような仕草で、自分に親指を向けた。
「南のヒューリアック連合王国で戦功を挙げ、ときの国王より『勇敢なる者』との称号を賜った、アンドレイオス男爵の血筋に連なる者であるッ!」
戦場での名乗りには慣れているらしいニケフォルスは、実家の家名を、その戦歴も含めてすらすらとそらんじた。かつて戦場で、騎士どうしが名乗り合いをした風習をまねたものだ。
「……ただし、今は天涯孤独の身。傭兵隊長などというケチな商売をなりわいにしている。以後、お見知りおき願おうか」
ニケフォルスはそう得意げに述べたが、もちろんこの当時、名乗りなどという風習は形骸化して久しい。居並ぶ傭兵たちはヘラヘラ笑いながら、ベンの反応を見ている。
これまで、ニケフォルスのおどけた態度を目にした相手はほぼ例外なく、侮辱されたと感じて怒りだした。その姿が毎回滑稽で、傭兵たちは楽しみにしていた。
だが、傭兵どもをじろりと見渡したベンは、顔色ひとつ変えることがない。ニケフォルスの顔をじっと見つめつづけている。
(——確か、これをひと叩きすれば、声はクルトに届かなくなると言っていたな)
ベンはそう呟きながら、メルに教わった魔導具の使い方を思い出し、指先で耳飾りを一回だけ叩いた。
すると、薄紫色に光っていた六角柱の石から、徐々に輝きが消えていく。
それを確認したベンは、両脚を肩幅に開き、鞘入りの両手剣を石畳に突き立てると、顎の下あたりになった柄頭に両手を乗せ、帝王の銅像のような姿勢になって、そのまま一礼した。
「みごとな名乗り、心から感嘆した。では、俺からも名乗らせてもらうとしよう」
広場に展開した傭兵たちは思わぬ展開に顔を見合わせたが、ベンは一切かまうことなく、声を張り上げて名乗りを返した。
傭兵たちの出身地である、ヒューリアック大陸の言語をわざわざ使って。
「——北のラッフルズート大陸で革命に参加し、ルー帝国の建国後、功労によりマイウス辺境侯に封じられしクィリアヌスが一子、ベルナルドゥス・アフィリオンという」
落ち着いた口調の、野太いながらもよく通る声。広場のどこにいても聞こえる。
しかもその名乗りは、ベンが「辺境侯」という高位貴族の跡取りだという、衝撃的な内容だった。
「わけあって、爵位は返上した。ゆえに今はただの、宿酒場のオヤジだ。通り名はベンという……。よろしく頼む」
ヒューリアック語でこの名乗りを耳にした傭兵たちは、予想していなかっただけに互いの顔を見合わせると、すぐに騒ぎだした。
「マイウス辺境侯っ……? マジかよ、それ……?」
「そんなガチ貴族の息子がどうして、こんな薄汚い街に……?」
「あの『戦神侯』クィリアヌスの息子……? うーん、どことなく似ている……?」
苦々しい顔つきのニケフォルスをよそに、驚いた傭兵たちが口々にささやき合う。
地政学の知識が乏しい傭兵たちは、ベンの名乗りを疑うことができない。なかにはニケフォルスよりさらに高位の貴族を見て、素直に敬服する者までいる。
目の前にいるベンが、貧民街で宿酒場などやっているのが不思議なほどの高位貴族である「侯爵」の跡取りだったということも驚きだが、マイウス辺境侯クィリアヌス・アフィリオンという人物が皇帝ルーの兄であり、人格者で国内外から慕われていたこともその理由であった。
(マイウス辺境侯……? 皇帝以上の傑物といわれた、あいつの息子だと……?)
名乗りを終えたベンの顔を睨みつけるニケフォルスの目が、ますます険しくなった。
あのベンが「ルー」と呼ばれるあの皇帝の甥だなどと、にわかには信じがたい。
かつてニケフォルスは、マイウス辺境侯が率いる帝国軍と戦ったことがある。ベンを見ると、憎らしいほど強くて恐ろしかった辺境侯の軍勢が、嫌でも脳裏に浮かんだ。
クィリアヌスが活躍していたのは、二十年以上前のこと。中央政界を追い出され、功労とは名ばかりの辺境の領地を守るため、十五年にわたり敵との苦闘をつづけた。
戦場では神算鬼謀を誇り、敵からは「戦神侯」と異名されたが、優しく人のよい性格だった。結局、病気で没したそうだが、その能力を危険視した宰相らによって、ひそかに殺されたのだと今でも信じられている。そんな人物であった。
「フフッ、フハハッ……。まさか、そう来るか。こりゃオレ様も、度肝を抜かれたぜ」
貴族の末裔であることを優位性のネタにしようとしたら、地位も血筋も相手の方がより上だったという落ちである。これには、ニケフォルスも額を叩いて笑うしかない。
「騎士と騎士との一騎打ち……。それなら、オレとしても好都合」
広場の中央に立って苦笑しながら呟くニケフォルスと、宿酒場を背に無言で立ち、顔を上げたベンとが、互いの視線を交錯させた。
ざわつく傭兵たちなど、もはや目に入っていない。ニケフォルスとベンは、すでに自分たちだけの世界に入りこんでしまっている。
「この勝負は、騎士と騎士とが命をやり取りする決闘ってわけだ……。願ってもねえ。たとえ死んでも、恨みっこなしだ」
満足げな笑顔を顔に張りつけたニケフォルスは、持っていた矛槍を水平に頭上へさし上げると、それを勢いよく回転させた。
柄も刃物もすべて金属で作られた矛槍が、異様な音を立てて空気を切り裂く。
「……その槍筋、思い出したぞ。二十年ほど前に挑んできた、命知らずの若者のものだ」
「そうかい。大昔だってのに、オレのことを思い出してくれて光栄だ……。もっともオレの話はすっかり、てめえらの耳に入っているんだろうがな」
頭上での回転を中断させたニケフォルスが、矛槍を逆さにし、穂先を地面に向けるという独特な構えを作りながら尋ねてくる。
しかも、すでにベンの側に自分たちの情報が流れているという前提である。昨晩遅く、急を知らせに訪れたキリエの焦りに満ちた顔が、ベンの脳裏に浮かんだ。
(もしやこの男、わざとキリエに情報を……? その上で泳がせたのか……)
あまりにも物事のすべてが、この男の想定したとおりに進んでいるような気がする。ベンは背筋に、寒いものを感じずにはいられなかった。
(傭兵隊長ニケフォルス……。この男の意図するところは、果たして何なのか……)
眉間にしわを寄せたベンは、挑戦的なニケフォルスの瞳を鋭い視線で見すえたが、やがてその瞳の奥にある思いに気づくと、ふっと頬の筋肉をゆるめた。
剣を振るう武人としての自分と、幕舎で事務をこなす自分……。部隊を率いて戦場を駆ける日々を思い出したベンは、ニケフォルスの背景も何となく理解できたのだ。
(フッ。指揮官は、戦うばかりの稼業ではない。確かにそうだ)
平均的な男性の身長ほどもある、巨大な両手剣——。
ベンはそれを、鞘におさめたまま杖のように地面に突き立てていたが、左手一本でひょいと持ち上げると、目線の高さで水平に据えた。
ついで右手で柄を握ると、ゆっくりとした動作で、剣身を鞘から引き抜いていく。
普段は刃をつけず、ただの鉄板だともいえる幅広の剣身だが、そこに研がれた鋭利な刃が月の光を照り返し、鮮やかに輝いた。
「貴公の背負うものが何か、俺は知らん。俺がするべきことは、たったひとつだ」
数秒をかけて引き抜いた剣身は異様で、むしろ剣とはいえない、別の武器に見えた。
それはまさに、人間の握りこぶしほどの幅をもつ「鋼鉄製の板」といえる。装飾ひとつ施されていない粗削りな風貌は、鍛錬用の模擬剣ならではだ。
だからといって、使い物にならないわけではない。重さが人間の幼児ほどもある剣は、ひとたび振るえば威力は絶大。人間はおろか、立ち木すら一刀両断できそうである。
「フフッ……。噂どおり、凶悪な得物だ。久しぶりにゾクゾクしてきたぜ」
ベンの両手剣を目にしたニケフォルスは、矛槍の構えこそ崩さなかったものの、心底楽しそうな顔に変貌したばかりか、両唇に舌なめずりを這わせた。
「こいつは取っておきだったんだが……。使わせてもらうぜ」
楽しそうな表情のままそう呟いたニケフォルスは、右手をズボンのポケットに突っ込むと、無造作に折りたたまれた、古い革製の帯を取り出した。
帯には見たことのない文字が黒く焼きつけてあり、複数回使われた形跡がある。
「こいつぁ、二百五十年前のヒューリアック統一戦争で使われた『魔術の帯』つう代物でなァ」
ドヤ顔のニケフォルスが、その帯を矛槍の柄に近づけた途端——。
帯は生き物のようにみずから柄に巻きつくなり、その身に刻まれた黒い紋様を、ほのかな薄緑色に光らせはじめた。帯に魔力が宿った証拠である。
「スゲェだろ……。オレの故郷じゃあこんなヤバい道具が、今でも地面からゴロゴロ出てきやがるのさ」
ヒューリアック大陸は、ニケフォルスが言う二百五十年前の統一戦争だけでなく、それよりも前にあった、「魔導戦争」と呼ばれる終末戦争の舞台ともなった場所である。
魔導戦争の結末は、「魔導兵器」に成り下がった魔術が、いずれもたらすであろうと危惧されていた結果、そのものであった。
交戦国どちらもこの世から消滅したばかりでなく、大量破壊魔術は大陸の半分以上を砂漠に変えてしまった。そのせいで、大陸は今でも弱小国の分立から抜け出せない。
しかも悪いことに、どの国も旧王家の流れをくむためプライドが高い。やむなく、持ち回りで盟主を決め、盟主国が元首を兼任する「連合王国」という政体に甘んじている。
(……なるほど。アリストメネス伯の遺訓は、こうして現代にも生きているわけか)
魔術を禁忌とした帝国出身のベンと、魔術的遺物が身近にあったヒューリアック出身のニケフォルスとでは、魔術に対する考え方が根本から違う。
だからといって、南の大陸を焦土に変えた魔術が再び兵器となり、この世に蘇ることなど許されていいわけはない。それだけに、この一戦は負けられない。
「ならば……。それが今や『負の遺産』に過ぎないということを、俺が教えてやろう」
「へっ、上等だコラぁッ!」
口汚い絶叫とともに両脚に力をこめたニケフォルスは、助走もなしに爆発的な跳躍力を発揮し、間合いを詰めてきた。
もうすぐ五十歳になろうとする人間のものとは思えない、驚異的な脚力である。
それを見たベンは相手の動きに応じ、水の流れのように柔軟な足運びで後退する。
間合いを外したたけで、疾風のようなニケフォルスの薙ぎ払いを空振りに終わらせた。
「——動きが大きいな。騎兵と騎兵のぶつかり合いではないのだぞ」
達観した師匠が、突きかかる弟子の一撃をやすやすとあしらうかのような、みごとな足さばきを披露しつつ、落ち着いた口調でベンが言った。
そして当然、ベンの目には、隙だらけになったニケフォルスの背中が大写しになる。
君主の御前で行う試合であれば、ここでがら空きの背中に大剣を振り下ろし、寸止めすれば、そこで終了である。
だがその瞬間、不敵にそれを否定するかのようなニケフォルスの声が、ベンの耳に届いた。
「残念だけどさァ——。これで試合終了だなんて、言わせねぇよ?」
その声にハッとわれに返ったベンの目には、いつの間にか体勢を立て直し、矛槍の柄で両手剣の一撃を受け止めようとするニケフォルスの不敵な顔が、大写しになっていた。
そして膝をついた体勢のニケフォルスが、そこに振り下ろされる巨大な刃を、細い柄で受け止める。
金属が折れる「バキッ」という音が広場に響いた、その瞬間——。
ニケフォルスが手にした矛槍全体が、目を覆いたくなるほどの閃光に包まれた。
「——ぬうッ?」
そのとき驚愕のうめき声を上げたのは、攻撃を仕掛けたベンの方だった。
すかさずベンは左腕で顔を覆った。強烈な光から視力を保護するためである。
そして同時に、驚くべき脚力でその場から後方へ飛びのいた。建物ひとつ分ほども後方に、ひらりと着地するベン。
閃光が消えた後、悠々と構えを取りなおすニケフォルスが持つ矛槍には、傷ひとつない。
一方、ベンが右手一本に持ち替えた両手剣には、中央付近に大きな刃こぼれが生じている。
「ふむ、これが、いにしえの『魔導』の力……というわけか」
「悪く思うなよ。こうでもしねぇと、てめえの凶悪な得物には勝てっこないからな」
悪人そのものの笑みでそう言うニケフォルスは、なぜか唐突に構えを崩した。
そして矛槍の石突きを石畳に突き立て、柄を杖のように握って重心を保つと、周囲の傭兵たちに対し、振り向きもせず大声で命令した。
「ようし、てめえら——。ここはオレが引き受けた!」
傭兵たちはすでに剣を抜いて構えていたが、ニケフォルスの大声を聞いた途端、ひとりの例外もなく意識が切り替わったかのように、顔をこわばらせた。
「帝国の魔術師どもが、オレの命令を聞かずに先走って、放火を始めやがったようだが……」
計画通りに進まないことが嫌いなのか、ニケフォルスは不快感を素直に顔に表したが、目の前のベンを見すえると、再び大声を張り上げた。
「こっちは当初の計画どおりに行くぞ。小隊ごとに周囲を捜索。潜んでいる敵を制圧したらその場で放火し、この建物の裏から屋内に突入だ!」
宿酒場には女性や子どもたちをはじめとする、非力な避難民たちが身を寄せ合っている。そんな場所に血に飢えた荒くれ者たちが侵入したら、どんな恐ろしいことになるだろうか。
「酒場には必ず、裏口があるはずだからな……。よし、行け!」
指示された傭兵たちは無言で命令受領の動作をすると、四個ほどの班に分かれ、四方八方に散っていった。
傭兵たちの迅速な動きは、彼らが決して烏合の衆ではなく、訓練が行き届いた兵士たちであることの証拠である。
(街のみんな……。そしてクルト、いや『灌木林の黒豹』よ。あとは、頼んだぞ)
この状況に至っても、ベンは顔色ひとつ変えない。焦燥も狼狽もせず、落ち着いた動作でニケフォルスを睨みつけ、刃が欠けたままの両手剣を構えなおした。
その巨体から発せられる激しい気魄は、鋭い眼光で相手を威圧する武闘家そのものである。
「さあ、本番といこう。貴公が望んだ二十年ぶりの再戦だ。あと腐れのないように頼む」
重々しい口調を耳にしたニケフォルスは、ベンの胆力に内心では驚嘆し顔をひくつかせたものの、すぐに不敵な笑みに戻り、悠々と矛槍を構えた。




