7-4 精霊の介在なき、清浄なる空間
四 精霊の介在なき、清浄なる空間
魔法陣から発せられた強烈な光で、アンナの姿が足元から白く照らし出されている。
涙目になって勇気を振りしぼり、その場に踏んばっているアンナの瞳は、赤い月ヴァルトールを思わせる深紅に彩られていた。
その姿を遠くから凝視したファシラダスは、ある確信とともに重々しく口走った。
「そうか……。ソテリオスが言っていた『認められた者』というのは、この娘だったようだな」
メルが繰り出した精霊魔法を増強させたことから、この少女もまた精霊魔法の使い手であることは確かである。
しかし精霊魔法は、精霊への命令として呪文の詠唱を必要とする。その過程を経ることなく精霊を使役したことは、彼女が「認められた者」であることの証拠であった。
以上の状況が揃ったことで、ファシラダスはアンナを「認められた者」だと断定したのだが、横で地面に這いつくばったサイクスが、すぐさま悲鳴を上げて肯定した。
「そうだよ、確実にそうだよ! あいつの魔力、すごいよ! 押しつぶされそうだ!」
悲鳴を上げるサイクスは、まるで地面に押しつけられたカエルのような姿になっている。
彼を地面に這いつくばらせているのは、アンナの全身から発せられる膨大な魔力であった。
魔力を感じることができるのは、みずからも魔力を持つ魔術能力者のみ。
メルは特殊な魔導具の効果で、アンナの魔力による影響を抑えている。サイクスだけが押しつぶされそうになっているのは、何らの保護もなく間近にいたためであった。
「そうなのか、『認められた者』というのは、魔力も優れているのか」
「ああ、そうだよ……。こいつはすげえ。ビンビンくるぜ……」
サイクスは白く照らされるアンナを見つめつつ、彼女が身に宿した魔力の大きさと、その弱々しい見た目との差に舌を巻いたが、身体の方はもはや限界を迎えていた。
普通の魔力量である魔術師どうしが出会うのであれば、すれ違ったときに「おっ、こいつも魔術師か」とわかる程度なのだが、アンナの魔力量はあまりにも膨大であった。
「くっ、息がつまりそうだ! 早くあいつを何とかしてくれよ!」
「あと少し待ってくれ。この儀式が終わったら、準備完了だ。精霊魔術師どもが慌てる姿が、目に浮かぶぞ」
苦しさを訴えるサイクスを尻目に、もうひとりの魔術師が向こうで黙々と儀式を行っている。それを親指で指しながら、ファシラダスが勝ち誇った表情で言った。
サイクスは厳しい顔つきのまま、汗まみれでゆっくりとうなずいた。
「そうしたら……今度こそ俺が、あいつに勝つ!」
復讐心に満ちた声とともに、サイクスは「炎の曠野」を維持していた魔力の放出を打ち切ったその途端に、炎の勢いが弱くなっていく。
「——ふぅっ!」
サイクスが無念そうなうめき声をもらしてひと息つくと、あれほど勢いよく燃えさかっていたはずの灼熱の炎が一瞬、つむじ風のように渦巻き、跡形もなく消え失せた。
メルとアンナが造り上げた巨大な氷壁はそれでもしばらくそびえ立っていたが、炎が消えたことを契機にわずかに震えたかと思うと、霧のように細かい塵となって風の中に散っていった。
「ふう……。一時はどうなることかと……。助かりました」
魔力を使い果たしたメルは、全身の力が抜けた状態でその場にへたり込んだ。
それでもメルはクリストフに支えられながら身を起こし、肩で息をしつつもねぎらいの言葉をかけようとアンナの方を見た。
「アンナさん、ようやく、勇気を出して、くれましたね……」
メルは苦しげな呼吸をどうにか整えながら、優しげな眼でアンナに声をかけた。
魔力の放出が終わり、光が消えかける魔法陣の上にたたずんでいたアンナは、メルの声に反応して少し笑みを見せた。だが、こちらへ駆け寄ってくることはなかった。
それどころかアンナは、右手首を左手でかばうような姿勢になると、怯えたような目で、もじもじと立ちつくしたのである。
(アンナさん、あなた……!)
右手首を隠すようなアンナの仕草を見たメルは思わず表情を曇らせ、背後で自分を支えてくれているクリストフの方に意識を向けた。
今のアンナが怯えているのは帝国兵ではない。このクリストフに対してなのである。メルは即座にそれを理解した。
(そう、ですか……。アンナさん、あなたはまだ……)
避難民であふれる宿酒場の大広間で、恐怖に駆られたクリストフがアンナの手首をつるし上げた。あれからまだ、半日も経過していない。
手首にできた傷はメルが治癒させたのだが、事件そのものはアンナの心に、より深い傷を負わせたのだろう。クリストフは謝罪したのだが、それで済む話ではあるまい。
(やっぱり、クリストフさんを連れ出したのは、間違いだったのかしら……)
メルは疲れきった目でアンナの仕草を見ながら、クリストフの純粋な贖罪の心を利用しようとした、自分の思いつきを後悔した。
一方のクリストフはそんなメルの肩を支えつつも、その心など知らぬかのように、ピウスとともに帝国兵たちの動向を注視している。
——そうだ。帝国の魔術師たちとの戦いは、まだ終わったわけではない。
ようやく現在の状況を理解したメルは、魔力が抜けた身体を無理に起こそうと全身に力をこめたものの、いまだに足腰が立たない。右手に持った剣がずっしり重く、つい手放しそうになる。
それに気づいたクリストフが、倒れそうになったメルのわきの下にすかさず腕を差し込むと、改めて石畳に座らせようとした。
だがその瞬間。クリストフは自分の右腕に激痛を覚え、いきなり叫んだ。
「うっ——? い、痛ッ!」
顔をしかめてナイフを取り落とし、とっさに左手で右腕を押さえるクリストフ。
そのとき彼は強く押さえた左手の指先に、ぬるりとした温かい血潮の手触りを感じた。
格闘戦に不慣れなクリストフはケードゥスとの戦闘でいつの間にか負傷し、気づかぬうちに右腕から出血していたのだ。
「どうした兄ちゃんッ! ケガでもしたのかッ?」
クリストフの異変に気づいたピウスは敵に気取られないよう小声で叫ぶと、戦斧を構えながら後ずさりしてきた。メルも疲れきった身体を必死に起こし、ピウスを迎える。
帝国軍の魔術師たち四人と同じように、メルたちも車座に集まる形になった。
激しい戦闘を終え、おのずから一時休戦という形になる。
「ちくしょう、血が、血が止まらねえ……」
「しゃべるでない、傷にさわる。どれ、わしが何とか、血を止めてやるわい」
「すまん、親方……。だけどこのくれぇ、何とも……」
あり合わせの布を引き裂き、止血を試みようとするピウスを前に、クリストフはそう強がってみせた。
だが強く押さえた左手の指の間からはとめどなく血が流れ落ち、石畳を赤く染めていく。
燃える炎と月明かりに照らされるだけの薄暗い路地だが、クリストフの顔色がみるみるうちに蒼白になり、息が荒くなっていくのがメルにもわかった。
「少し、傷口を見せてくださいませ——。ピウスさん、いいですわね?」
すぐに治療しなければ、命が危ない。厳しい表情になったメルは強い口調でピウスを制止すると、右腕を押さえるクリストフの左手をつかみ、優しく取り除いた。
見ると案の定、傷は非常に重い。骨までは達していないようだが、かなり深く斬られている。
(これは……。すぐに傷口を縫い合わせないと、手遅れになりかねませんわね……)
単なる応急処置では、どうにもならないほどの重傷である。医学についても造詣が深いメルには、そのことがすぐにわかった。
しかし、ここは貧民街。本格的な外科手術ができる設備はおろか、執刀できる医師すらいない。
ゆえにこのときばかりは、魔術の行使に慎重なメルの脳裏でも、精霊魔法のひとつである「治癒の秘儀」の優先度が高まっていた。実際、残された手段はこれしかないだろうと思う。
だが、そこまで考えが及んだにもかかわらず、メルの瞳には、魔力が抜けて小刻みに震える自分の左手が映るだけだった。
(わたくしとしたことが……。座長さんに軍師だと持ち上げられて、慢心したのかしら)
敵の魔術師がかなりの使い手だったことも、自分の魔力が枯渇することも、そしてクリストフの負傷もアンナの恐怖心も、予測できなかった。
すべては、みずからの甘さが招いたこと。メルはおのれの未熟さを恥じ、瞑目した。
——だが、そのとき。
メルにとってまたも、予想外の出来事が起こった。
目を閉じたメルの隣に、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくるアンナの気配を感じたのである。
ゆっくりとしてはいるものの、その歩調には確固とした意志があり、逡巡も怯えもない。
そしてすぐに、水塊のように膨大な密度をもった魔力が、メルの身体を包み込んだ。
両者が身につけているアクセサリーのおかげか、圧力はさほど感じない。むしろ、失った魔力が戻ってくるような心地よさが、優しく肌を撫でてくる。
「ついて行くと言いだしたのは私なのに、ご心配をおかけしました……。メルお姉さま」
大地の妖精が歌う曲のような、聞き慣れたアンナの声が耳をくすぐる。
閉じていた目を開いたメルの前に展開されたのは、心の中で待ち望んでいた光景だった。
「あ、あの……。私に、傷を見せて、くださいませんか」
メルが目にしたのは、真剣な表情のアンナがクリストフの前で膝をつき、おそるおそる両手を伸ばして、クリストフの右腕を取ろうとしている姿。
メルの視線は同時に、意外な展開に戸惑っている、クリストフの表情もとらえていた。
「あ、ああ、それは構わんが……。お前、俺が恐くないのか? あんなことをしたのに……」
「……っ!」
アンナはクリストフの声を聞いた瞬間、ハッとして、伸ばそうとしていた両腕を引っ込めた。
問いかけたクリストフの声音は、穏やかである。だが彼は、わずか三時間前、自分に対して暴力を振るってきた暴漢なのだ。
とっさに腕を引っ込めたアンナは、悲しげな表情になって胸の前で両手を交差させ、そのまま身を固くした。暴漢に対する反応としては、それがむしろ当然であろう。
しかし、それでもアンナは勇気を振りしぼった。臆病で弱気な自分を変えるために。
緊張のあまり顔色を蒼白にし、下唇を噛みしめながらも、震える右腕を再び、ゆっくりとクリストフの傷口に伸ばしたのである。
そのとき、うつむいたままのアンナの口から、くぐもったような声が漏れた。
「助けて…………たから」
「……うん?」
アンナの言葉を聞き逃したクリストフが、いぶかしげな顔で問い返す。
それから少しの間を置き、アンナは顔を上げ、クリストフに不器用な笑顔を向けた。
「あなたは、私たちを守って、戦ってくれた仲間、ですから……」
アンナはそう言って、再びうつむき加減になった。
そしてそっと目を閉じた、次の瞬間。
「だから、私も——」
クリストフの傷口にかざしたアンナの手のひらから、淡い緑色の光が生み出された。
「精霊さん、お願い。私のところに、来て」
微かな緑色の光から、同じ色をしたホタルのような燐光が舞いあがる。アンナは小さく息を吐いて精神を統一し、か弱いがよく通る声で、精霊に呼びかけた。
「水と風の、精霊さんたちだね……。私は、友だちだよ」
アンナがそうささやいた途端、周囲の気温がわずかに低下した。
この冷気は、魔力を持たない普通の人間にも感じられるようだ。クリストフとピウスが突然の冷気に驚いて、周囲を見回すほどに。
「ねえ、精霊さんたち。私の前にいる、この人の傷を、治して……」
そこでアンナが発した言葉は、とても呪文とは呼べない、お願いともいえるもの。
だがその呟きが、終わったかと思った瞬間——。
膝をついたアンナの足もとに、薄緑色に光り輝く巨大な魔法陣が、一瞬で出現した。
「……うおッ?」
「うぬっ、なんじゃコレは……ッ?」
突如として足もとからの強烈な光を浴びたクリストフとピウスは、おのれの目をかばいつつ、異口同音に驚いて身がまえた。
本物の魔術を目の当たりにするのが事実上初めてなのだから、無理もない。
「動かないで、ください……。せっかく来てくれた精霊さんたちが、逃げちゃいますぅ……」
そう言いながら、クリストフの傷口に両手をかざすアンナ。その仕草のぎこちなさは、治癒魔法に慣れていない証拠である。
そしてその隣では、半身を横たえた状態のメルが首から下げたペンダントを強く握り、怒濤のように押し寄せる巨大な魔力から、必死に身を守っていた。
伝説の魔導具である「『いと高き龍王の紋章』と呼ばれるこのペンダントには、精霊魔術師から発散される魔力から装着者を守ってくれる効果がある。これを身につけている限り、メルはアンナが発する魔力の影響を大幅に軽減させられる。
ところがアンナが放つ魔力の波動は、メルが想像した以上の大きさであった。
(あいかわらず巨大で、粗削りな魔力……。そう、あのときもそうでした)
つい昨日のこと。宿酒場の炊事場で、かまどの前で火をおこそうとしたアンナが、いつものように魔力を解放した。
そのとき、近くのカウンターで昼間からワインを楽しんでいたメルが、魔力の波動をまともに受けてしまい、その衝撃であやうく椅子から振り落とされそうになったのである。
(まあ、アンナさんにはバレなかったようで、そこはひと安心ですが……)
メルは椅子からの落下こそ何とかこらえたのだが、右手首をしたたかに打ちつけてしまった。 アンナによる初めての魔術で癒されたあの手首の傷は、その時に負ったものだったのである。
(アンナさんには嘘を言ってしまいましたが……。イズキール様には、お酒は控えるようにと言われてしまいました。アンナさんが「認められた者」だと確信したのも、ちょうどそのときでした)
その時を思い出したメルは目を細めた。だが今は、アンナの魔力が想定以上であることと、伝説級の魔導具ですらその圧力を押さえきれないことの方が問題だ。
魔導具の片割れであるブローチをアンナに渡すことで、双方で防御できるようにはなった。しかし、アンナが本気で魔力を解放する場面にはまだ遭ったことがない。本当に押さえられるかどうかもわからない。
「それでも……。アンナさんに真の「認められた者」として目覚めてもらうことが、わたくしが精霊王に課せられた宿命だと理解していますから」
うずくまったメルが密かに決意を新たにした、そのとき。
少し離れた場所では、サイクスがうつ伏せになって地面にへばりついていた。
彼は人一倍、魔力に対する感受性が高いのである。
「くっそ、さっきよりすげえ魔力だ……! あのガキ、底なしなのか……ッ?」
サイクスが震えながら見つめる瞳には、クリストフの傷口に手を差し伸べるアンナの姿が、ありありと映っていた。
その姿はまるで儀式の炎に囲まれた神像のように、足もとの魔法陣から発せられる薄緑色の光に照らされ、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
引き続きサイクスは自分の陣営の方に目を向けたが、依然として儀式は続いている。
柄のない短い槍のような金属製の杭を四隅に突き立て、結界を設定した簡易的な儀式空間が、そこにあった。
魔導具らしき杭は極彩色で塗られ、これまた色とりどりの紙切れのような旗でぎっしりと飾り立てられている。呪術魔法の「神降ろし」でよく使われるものだ。
杭で仕切られた結界の内側には、おぼろげに光る魔法陣が展開されている。その中心では、老人のように痩せ細った白髪の人物がガッシリと手を組み、ブツブツと何かを呟きながら儀式を続けている。魔術師らしい。
その横では補助にあたるファシラダスが、陶器かなにかで作られた鳥の形の魔導具を捧げ持ち、魔法陣に変化がないかどうか見守っていた。
「なあ、ケードゥスのおじさん……。今日の儀式はいつも以上に気合が入っているみたいだけど、前のやつと同じように、この一帯の魔術を使えなくする系?」
ただひとり押しつぶされている自分を、上からいぶかしげに見つめているケードゥスに対し、サイクスは少し苛立ちを含んだ口調で尋ねてみた。
「うーん……」
質問を受けたケードゥスは、そう言いながらどっかりと腰を下ろしたが、サイクスと同じように儀式を見ながら両腕を後頭部に回すと、妙にはっきりとした口調で答えた。
「さすがの俺にも、さっぱりわからん!」
「自信満々に言うことかよ……。同じ魔術研究家だろ」
拍子抜けしたような顔で苦笑いするサイクスだったが、儀式をじっと見てなおも口を開こうとするケードゥスに気づき、黙って見つめることで先をうながした。
「そうは言うけどよ、実は俺も、ファシラダスが管理する魔術師についてはよく知らねえんだ。知っていることといえば、あの兄ちゃんが『認められた者』対策の、切り札と呼ばれていた……ということだけだ」
いつになく意味深長なことを言うケードゥスに内心驚きつつも、その言葉の意味にわずかな心当たりがあったサイクスは、思わず固唾を呑んだ。
「『認められた者』対策の、切り札……? じゃあ、あの儀式はやっぱり……?」
脳裏に浮かんだそれが果たして正しいのかどうか、なおもケードゥスに問いただそうとサイクスが再び口を開こうとした、まさにそのとき——。
『……そうだ。汝が、想像したとおりだ』
儀式空間の結界から届いてきた重々しいファシラダスの声が、すんでのところでサイクスの疑問をさえぎった。
その声でサイクスとケードゥスが同時に振り向いたとき、結界の中心にあぐら姿で座り、両膝に手をついて肩で息をしている白髪の魔術師と、結界の外でだらりと不自然に立っているファシラダスの姿が目に入った。
『発動の準備が整った。さあ……今回こそは汝らにも、手伝ってもらうぞ』
ファシラダスの声は普段から重々しいのだが、その声にさらなる低音がかかっている。
だが、驚くべきなのはそこではない。
目をこらしてみると確かにファシラダスなのだが、両腕をだらりと前に垂らし、老人のように猫背で立っている。
異様なその姿は、古老のような昔めいた口調と合わせて、精悍そうないつものファシラダスとはまるで違って見えた。
「ケードゥスのおじさん……。俺たち、勝てるんだよね……?」
「前と同じなら、厳しいかもな……しかし、あの気むずかし屋が来ちまったことの方が、もっと悪い」
疑い深いサイクスが投げかけた質問を、ケードゥスは辟易したような表情で受け取った。
彼ら帝国軍のチームにとって、この戦法は初めてではないようだ。それどころか、過去に行われたものには嫌な思い出しかないらしい。
『フン、聞こえておるぞ。天地開闢以来、世の理を司ってきた神たる儂に対し、毎度、礼儀をわきまえぬ物言い……』
地の底から響いてくるようなその声は、もはやファシラダスのものではなかった。呪術魔法を司る「神」たる存在に、憑依されているようだ。
『だが、儂と汝らとの仲ゆえ、もはやその無礼は問うまい』
「……そりゃあ、どうも」
憮然とした表情になったケードゥスが肩をすくめて鉄かぶとをかぶり直し、半笑いで返答すると、横にいたサイクスが半身を起こしながら言葉を引き継いだ。
明らかに警戒しているサイクスは、おのれを守るかのように身がまえている。
「手伝えって……。俺たちにいったい、何をやらせようってのさ?」
とげとげしく尋ねるサイクスに対し、ファシラダスに憑依した神は一瞥を与えつつもしばらく黙っていたが、なおも見つめ続けるサイクスに根負けしたのか、右手を挙げると、結界の中に座る白髪の人物に親指を向けた。
『無尽蔵たる汝の魔力を、こやつに分け与えよ。これより、禁呪が始まるゆえ……』
「なッ……? 分け与えるって、そんなの可能なのかよ! だいいちあの道具は、無尽蔵の魔力なんかじゃ——!」
『ただ手を触れ、念ずればよいだけのこと……。その役目は、汝にしか務まらぬのだ。得心がゆかぬのなら、指をくわえて見ておれ』
ファシラダスに憑依した神は気むずかしげにそれだけ言うと、これ以上は質問するなとでも言わんばかりに背を向け、結界の中へと向かっていく。
ケードゥスはそれを見送りながら、アンナが発する巨大な魔力のせいで這いつくばったままのサイクスに、すっと手を差し出した。
「禁呪、か……。『認められた者』てえのは、そんなに恐ろしい存在なのか?」
仰々しいのは苦手だと言わんばかりに、憮然としたケードゥスが呟く。その一方で足もとのサイクスは「指をくわえて見ておれ」という言葉を、ずっと噛みしめていた。
「恐ろしい、なんてものじゃねえ……。二百五十年ごとに出る、化け物だよ」
精霊とともに治療に専念するアンナの方に、ちらりと視線を向けたサイクスは、期するものがあったのか、決意に満ちた目で言った。
「よし、決めた! 俺があの兄さんに、魔力を分けてやる」
しばらく無言でアンナを見つめていたサイクスだったが、ケードゥスが差し出した手を握って大儀そうに立ち上がると、ふらふらとした足どりのまま、結界の内側に入る。
『ようやく、決心がついたか。さあ、ツォストリアノスの後ろに立ち、肩に手を乗せるのだ』
ファシラダスに憑依した神が、顎で指し示しながら命じてくる。サイクスは言われるがまま、ツォストリアノスと呼ばれた白髪の人物の背後に回り、膝をついている彼の左肩に手を置いた。
(えっ……? ま、マジかよ。この兄さん……っ)
肩に手を触れ、魔力を読み取ってみて初めてわかった。白髪で痩せたツォストリアノスは老人のように見えるが、がっしりとした体格をもつ、若者ともいえる年齢であった。
ただし、彼の皮膚や髪には若者らしい色つやがない。痩せ細った身体には生気もなかった。
(こりゃあ、魔力の使いすぎによくある症状だな……)
身体に魔力を宿す魔術能力者であれば、同じ能力を持つ者の体調がどうなのかはすぐにわかる。
同時にサイクスは、この寡黙な同僚の近くに立ったという経験が、記憶にある限り一度もないことに今さらながら気がつくのだった。
「——もらうぞ、サイクス」
しかし、膝をついたままの寡黙なツォストリアノスが、呟くように言った、その瞬間——。
ツォストリアノスの肩に手を置くサイクスの身体に、異変が起こった。
「うっ……ぐ? 俺の、ま、魔力が……吸われるッ?」
激しいめまいと脱力感が、突如として襲いかかる。精力を吸い取られるかのような感覚とともに、サイクスは思わず膝を屈した。
それでもメルのようにならずにすんだのは、大急ぎでポケットから取り出し、かろうじて握りしめることのできた、いびつな菱形の魔石のおかげだった。
「すまん、サイクス。そのまま、見ていてくれ……」
サイクスの方に振り向き、蚊の鳴くような声でそう詫びたツォストリアノスだったが、すぐに視線を地面に落とすと、おもむろに手を合わせた。
それにつられて地面を見たサイクスだったが、次の瞬間、驚きのあまり目をみはった。
「これって、魔法陣……。赤い、魔法陣?」
四隅に突き立てられた杭の内側いっぱいに、同心円の魔法陣が描かれている。呪術魔法には珍しい、暗い赤色である。
その魔法陣はおぼろげに光っているが、よく見ると魔力によって超自然的に描かれたものではなく、ツォストリアノスの自身が、みずからの血液で石畳に描いたものであった。
「血でできた魔法陣……。マジかよ」
『——いかにも、こやつが捧げし供犠よ。そして天より降った儂が、この供犠をもって至高神との仲立ちを為す。汝はそこで、見ておるがよい』
古老のようなファシラダスの声に、ふと視線を向けたサイクスは、またも驚かされた。
ファシラダスに憑依した神が、旗に彩られた杭の上に、右足だけでつま先立ちをしていたのである。
それは普通の人間では考えられないような驚異的な身軽さで、体重をまったく無視したかのような姿であった。
——そしてその異様な姿は、少し離れた場所で苦しげに身を起こしているメルの目にも、はっきりと映っていた。
(いったい……。何が起こっているの……?)
その異様な姿は、目に見えるだけではない。魔術能力者であるメルは、魔力の新たな発生源としても、ファシラダスを認識していた。
(おかしいですわ……。彼は、魔術研究家だったはず。魔力を持っていない普通の人間のはずなのに、この荒々しいまでの魔力は、いったいどこから……?)
粗暴といえるほど無遠慮にまき散らされる魔力の暴風は、色にたとえるなら「赤」である。およそ人間のものとは思えない。身震いするほど嫌な予感に包まれたメルは、唇を噛みしめた。
だがファシラダスに憑依した神は、そんなメルの不安までお見通しだったらしい。
『——呪われし魔女よ、儂は自然界の澱が如き精霊どもを制するため、至高なる存在より遣わされし者である。下がるがよい』
「ま、魔女ですって……? わたくしを、魔女と……?」
低い声ながらも高圧的な物言いを耳にしたメルは、持っていた片手剣を杖代わりにすると、ふらつきながら全身に力をこめ、ゆっくりと立ち上がった。
その顔は赤黒い炎の色に染められていたが、どういうわけか、笑顔であった。
「ふ、ふふふ……。この可憐で清楚な美少女を、魔女と呼びましたねェ……?」
だがその声は、地を這うように低い。顔は笑っているのに、聞く者に怖気を感じさせるほどの怒りに満ちている。どうやらメルにとって、「魔女」という言葉は禁句だったようだ。
近くでその気魄を目の当たりにしたサイクスとケードゥスは、本能的に後ずさりした。
「あなたのその気配……。とっくの昔に海の底で錆びついた、古い神とお見受けします……。その方の身体を乗っ取ってまで、いったい何をするおつもりですの……?」
メルは恐ろしい笑顔でその意図を問いただしたものの、天上界から呼ばれた神は、メルの魔力が失われていることをすでに把握ずみであった。
ファシラダスに憑依したまま、神は杭の上でつま先立ちを続け微動だにすることもなく、フフンと鼻で笑うだけだった。
『フッ……笑止なり。動かぬ身体で何ができよう。儂はあずかり知らぬところなれど、汝ら賊軍はいかに抵抗しようとも、いずれ正義の軍に平らげられる。儂はただのお膳立てだ』
神は尊大な口調でそう言うと、つま先立ちのまま身を縮め、両手で不思議な「印」を作った。
途端に、魔力が爆発的に増大した。その広がりはアンナ以上に速く、みるみるうちに周囲が粗暴な魔力に覆われていく。
呪術魔法の魔力を中和できないメルは、剣を杖に、膝をついて必死に荒波に抗った。
『わが名はメルキセデク……。平和と正義を司りし、天界の大祭司なり。いと高き神よ、いま一度大いなる御心をもって、この地に聖なる奇跡を成さしめられんことを』
ファシラダスの身体を借りた神メルキセデクが、低く荘厳な声で祈りを捧げた瞬間——。
魔法陣が帯びていたおぼろげな赤い光が、急激に鮮やかさを増大させた。
赤い光はますます強くなっていく。いつしか魔法陣の中心に座るツォストリアノスと、その後ろに立つサイクスまでもが、鮮やかな赤色に彩られた。
「……むん!」
そのとき、魔法陣の中央部で赤い光に染まったツォストリアノスがかけ声とともに全身に力を入れ、顔の前で両手の手のひらを、パァンと力強く合わせた。
それからひと呼吸おいたツォストリアノスの口からは、まったく淀みを感じさせない呪文が、流れるようにあふれ出てきた。
「われは、いと高き神々の声を聞きし者なり……」
ツォストリアノスが唱えだしたのは、呪文の前置きとも呼ばれる前駆詠唱である。
だがその前駆詠唱は、現在用いられている言語とは明らかに異なるものだった。
現在、世界西方の言語は北の大陸ラッフルズートの言葉がルーツであり、各国語は今でも方言程度の差でしかない。だがツォストリアノスが発する詠唱は、北の大陸語でもリーナス島の言語でもなく、南の大陸ヒューリアックの言葉とも違う。
(お母さま以外に、禁呪を扱える人間が……。それに、この術式は……!)
この詠唱を耳にしたメルには、思い当たる術式があった。だが剣を杖にしたまま信じられないといった顔で、ツォストリアノスの姿を見つめる。それしかできなかった。
詠唱の中に出てくる単語が、呪術魔法の魔法名にどことなく似ている。サイクスもそこには気がついていたが、その思考はすぐに打ち切られた。
座ったままで前駆詠唱を終えたツォストリアノスが、爆発的に魔力を解き放ったのである。
「うぐッ……? 俺の魔力が、また吸われるッ……!」
魔力を奪われるサイクスは苦悶の表情で身をよじらせたが、ツォストリアノスはそちらに一顧だにすることなく、淡々と呪文の続きを詠唱していく。
「精霊どもが介在することなき、清浄なる空間を……」
ツォストリアノスはうつむき加減に目を閉じたまま、淀みなく流暢な詠唱を続ける。
流れる調子はあたかも唄っているようであり、その節回しも独特だったが、何を思ったかツォストリアノスは最後の部分で、いったん詠唱を止めた。
(…………?)
この微妙な間をいぶかしんだメルが、剣を杖にしたままツォストリアノスの顔をのぞき込もうとした——まさにそのとき。
突如として顔を上げ、目を開けたツォストリアノスの黒い瞳と、紫水晶のような色をしたメルの瞳とが、火花を散らせて交錯した。
そしてその次の瞬間、ツォストリアノスの詠唱が完結した。
「——ここに成したまえッ!」
ツォストリアノスの叫びとともに、血の色をした魔法陣がひときわ輝きを増し、宵の口の斜陽が建物群を抜けて差し込んできたかのように、やや広くなった路地はその全体像を、ありありと浮かび上がらせた。
だが、魔法陣が発していた血の色の閃光は、事実上それが最後の輝きであった。
「——くっ。これまで……か」
赤い閃光は数秒程度しか持続せず、背筋を伸ばして座っていたツォストリアノスは魔力が尽きたのか、悔しげにうめくと両手をつき、サイクスの目の前で倒れ伏してしまった。
「おっ、おい、兄さん……!」
本来であれば、最後に「魔法名解放」を行うことで詠唱が完結し、魔術は本来の力を発揮することができる。
だがそれは、かなわなかった。サイクスは急いでツォストリアノスを抱きかかえる。
しかし、魔法名解放は後付けに過ぎず、必要な儀式ではない。これを忘れたからといって、魔術が発動しないわけではない。
その証拠に、剣を杖にして立つメルは、この一帯の空気が微妙に変わっていることに、すぐに気がついた。
(やはりこの禁呪は、精霊魔術を封じるための……)
周囲を見回しながらも、メルはなんとも名状しがたいような嫌な予感に包まれたが、ファシラダスに憑依した神メルキセデクはその場を動くことなく、むしろあざ笑うかのように肩を揺らしながら、こちらを観察するだけである。
むしろメルの嫌な予感は、彼女の背中から聞こえてきた声が、正しく言い当てていた。
「あれっ、せ、精霊さん? 精霊さんたち、どこなのっ……?」
それは、精霊魔術によってクリストフの傷を治療していたはずのアンナが発した、悲鳴にも似た声であった。
異変を察したメルはすぐに振り向くと、動かない身体を叱咤してアンナに近寄った。
「ど……どうしましたの、アンナさんっ?」
「メルお姉さま! 精霊さんたち、精霊さんたちが……急にいなくなったんですぅ!」
アンナの焦りに満ちた訴えは、メルの悪い予感が的中したことを意味していた。




