6-6 キリエの緋色のリボン
六 キリエの緋色のリボン
月明かりに照らされた夜空に、芸術品のように精悍な肉体がありありと浮かび上がる。
背中には、人間の背丈ほどもある大きな弓を背負っている。だがそんな業物を操っているのであろう人物の腰は、くびれが維持され、脂肪など微塵もない腕は極限まで鍛え上げられながらも、女性らしい細さを失わずにいる。
その代わり、彼女の上半身では脂肪の副産物でもある豊満な胸が盛り上がり、傲然とばかりに異彩を放っている。それはあたかも、その存在を夜空に誇示しているかのようであった。
「よお、クルトおじさん。まだ大事そうに飲んでるのか? そんなまずい安酒」
窓枠に立ち、いつもと変わらぬ口調でそう声をかけたキリエは、窓枠にかけた脚を踏んばり、彫像のような肉体を器用に室内へと滑り込ませると、軽やかに床へと着地した。
秘蔵の密造酒をまずい安酒呼ばわりされたクルトは、すねた顔でキリエを見ながらなおもひと口、大事そうにグラスを傾けた。
「ほっとけよ。これでも、手に入れるのにかなり骨を折った酒なんだぜ?」
思い出話の腰を折られたクルトだったが、重々しい雰囲気に辟易していたところだったので、これ幸いとばかりにホッとしたような笑みを浮かべ、ため息をつくテレサの方には意味深な視線を向けた。
「そんなことより、クルトおじさん、テレサおばさん! 大変なんだ!」
そう叫び、思い出したように焦りを示したキリエは、クルトとテレサの事情などお構いなしにつかつかと大股で進むなり、二人に詰めよってきた。
キリエが立った窓の位置からだと、安楽椅子に座ってグラスを傾けるクルトと、腰に手を当てて立っていたテレサの姿しか目に入らない。この部屋にいた二人に、偵察結果を知らせようと思ったのだ。
「みんな、早く逃げなきゃ……! 街が、街が焼き討ちされちまうんだ!」
深刻な内容を見聞きしてきた直後で焦燥の色を隠そうともしないキリエは、クルトの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫ぶと、引き続き、偵察で見聞きしてきた結果を一気にまくし立てた。
「帝国軍のやつら、すぐそこの大通りまで……! 正規兵じゃなくて傭兵……『ヒューリアック解放戦線』っていう連中なんだ! あいつら、ま、魔術で、街を焼き討ちするつもり……!」
伝えたいことがありすぎて頭の中がごちゃごちゃになったキリエは、クルトの顔に飛沫を浴びせかけながら、つながりのない単語ばかりをもどかしげに並べ立てるだけになっている。
苦笑いしながらもそれを辛抱強く聞いていたクルトだったが、さっぱり伝わらないばかりか、まったく要領が掴めない。
「まあまあ、落ち着けって、キリエちゃん。そういう話は俺じゃなくて、あっちの聞き上手なお兄さんにしてやってくれないか?」
「聞き上手な……お兄さん?」
クルトの苦しまぎれを聞いて一瞬、きょとんとした顔になったキリエだったが、書店の経営者夫妻のほかに誰かの気配があることに気づくと、すかさず部屋の奥に視線を向けた。
すると、ランプの明かりが届きにくい奥の方から、ゴトリという鎧の音とともに椅子から立ち上がった人影が、こちらに歩み寄ってくるのが見える。
その人物はチャリチャリと、剣帯や装甲の金属音を立てながらゆっくりと歩を進めると、胸に手を当てて膝を折り、頭を下げて、女性に対する典型的な騎士の礼をとった。
「これはこれは、キリエさん。守備隊の任務から、無事お戻りになったのですね」
首のあたりで切りそろえられた青い短髪を揺らし、一度下げた頭を再び上げたイズキールは、クルトに詰めよった姿勢のままで見つめてくるキリエの顔を見ると、ふっと優しげな笑みを浮かべた。
その笑顔を凝視したまま固まったキリエの目には、並びのよいイズキールの歯が、ランプの光を反射してキラリと輝いたように見えた。
「し、し、し……司祭様ッ?」
次の瞬間、お化けでも見たように顔をひくつかせたキリエは、奇声を上げながら客室の端まで一気に後退し、壁に背をつけて硬直してしまった。その顔は、酒に酔ったかのように真っ赤になっている。
横で見ているクルトとテレサは、顔がニヤけていくのを必死に隠そうとしている。キリエが赤面した理由はもう、街中の噂になっていたからである。
(うう……。やっぱりアタシ、この人の顔が苦手だああああ!)
壁にへばりつき、顔をこわばらせ、心の中でそう叫んだキリエの脳裏に、一週間前の光景がよみがえっていく――。
当時、城壁の外に広がる新市街を包囲した帝国軍が数を増しており、総攻撃がますます現実味を帯びてきていた。リーヴェンス旧市街は上を下への大騒ぎとなり、住民が続々と街を脱出しはじめていた。
『どけどけ! 早くこの街から脱出するんだ!』
『帝国軍が……。三年前の雪辱を果たしに、また来たんだああ!』
馬車や荷車などにどっさり家財道具を積み込んだ住民たちが、押すな押すなの勢いで城門へと押し寄せたせいで大通りが渋滞となり、随所でパニックが発生している。
市の当局も侵攻でパニックとなり、機能不全に陥っていたため、街は無政府状態も同然であった。
そんな中、第十七区の大通り沿いに店を構えるマックスのパン屋では、旅先での食料としてパンを買い求める客でごった返し、朝から店先が大混乱になっていた。
この非常事態にあって、今でもパンを売る店はそう多くない。別の街区からもたくさんの客が来ていた。
『あー! そこのおっさん、順番だ! 金持ちだろうが貧乏人だろうが関係ない、順番は守れ!』
店番をしていたキリエは腕まくりをし、ホコリと脂でボサボサになった黒髪を振り乱しながら、われ先にと押し寄せる客に怒鳴り続けていた。
しかし、割り込む者はどうしても出てくる。贅沢そうな身なりをした豪商らしき男性が、焦った状態で行列の中に飛び込んできた。
『た、頼む! 倍の値段で買ってやるから、こいつらより先に、わしにパンを――』
『うるさい、黙れ! 順番を守らねえ奴には、いっさいパンを売らねえぞ!』
『ひいいっ……』
キリエはこれを見つけるやいなや、すかさずこの男性に大喝を浴びせ、引き続いて周囲を見回すと、同様の行為に出る者がないかどうか監視するかのように、じろりと睨みをきかせた。
一瞬にして萎縮する行列の面々。キリエはパン屋の看板娘なのだが、地獄の門番でもあった。
そんなとき――。行列の先頭になった若い男性が、爽やかな声でキリエを賞賛してきた。
『ははは、貴女は素晴らしい力をお持ちですね。わが神であってもその剣幕には、従うかもしれません』
怒号と喧噪が渦巻く大通りにあって、野を渡る涼風のように響いてきた、柔らかく優しげな声。
パン挟みを振り上げていたキリエはその人物の顔を視界に入れた途端、身体が硬直した。
額と首のあたりで切りそろえられた、空の色にも似た青い髪。くっきりとした目鼻立ち、そして丸いメガネの奥に潜む、切れ長の細い目。
赤い聖印が染め抜かれた白い外套の下は、これまた白い鎧の完全武装。その上に純白のマントを着込んだ姿は、リーナス公国のみならず周辺国の間で際だつ勇猛さと規律正しさを誇る「神聖騎士団」の制式軍装であった。
『………………』
青年騎士の顔を凝視したまま硬直し、頬を赤らめるキリエ。
早鐘のように、心臓が高鳴る。狩りの前でも、こんな状態になったことはなかった。
――いわゆる、ひと目惚れ、であった。
騎士様がいらっしゃる、神聖騎士様が来てくださったぞ、などと騒ぎ立てる周囲の声。だがそんなものは、青年騎士の顔を見つめ続けるキリエの耳にはまったく届かなかった。
『……どうかしましたか? 後ろがつかえていますよ?』
『はっ……。あ……いや……』
しばらくそのまま固まっていたキリエだったが、青年騎士の方から声をかけられたのを契機に、ようやくわれに返った。キリエの目と耳に、さっきまでの喧噪や慌ただしい風景が、急速に戻ってくる。
ようやく正気に戻ったものの、もはや青年騎士の顔を正視することができなくなったキリエは、顔を赤くしながらもつい、ぶっきらぼうな態度をとってしまった。
『ほ、ほらよっ。あんた、旅人みたいだから少しオマケしといてやるよ! さあ、さっさと行きな!』
『……はは、ありがとうございます。ではまた』
パンを受け取り、そう言い残して爽やかに去っていく青年騎士。まるで戦場帰りのような完全武装でありながら、帰還兵特有のとげとげしさがまったく感じられないという、風変わりな青年であった。
――だが、その次の日からも、キリエの災難は続くことになる。
帝国軍が街を包囲した昨日に比べ、大通りの混乱ぶりは大きく緩和された。しかし今度は目に見えて人通りが減り、遺棄された荷車やゴミなどが散乱する街は、空虚で寂しいものであった。
『ははは。おはようございます、キリエさん。寂しくなりましたね』
客足がまばらになったマックスのパン屋だったが、そう言ってほがらかに笑いながら朝一番に顔を出したのは、昨日の青年騎士であった。
これにはさすがの強気なキリエも、怪訝そうな顔で応対せざるをえなかった。
『おはよ……って、どうして、アタシの名前……?』
『ああ、まだお話ししていませんでしたね。実は宿酒場近くの「書肆ボヴァリー」に居候することになりまして、そこの娘さんから、あなたのことを伺ったのです』
『げっ……。アンナのやつ、余計なことを』
それを聞いたキリエは困惑したような顔をしたが、その一方で相手にはわからないほどわずかに微笑し、頬をほんのりと赤く染めた。名前を覚えてもらい、呼んでもらったことが、純粋に嬉しかったのだ。
そのやり取りがいつの間にか街区の住民に見られており、やがて街中に「キリエに春来たる」の噂が駆けめぐることになろうとは、この日のキリエには想像もできなかった。
一方、完全武装でありながら笑顔を絶やさない青年騎士は、注文した量のパンを麻袋に詰めてもらう間、丸いメガネの奥からじっとキリエの顔を眺めていたのだが、やがて唐突に口を開いた。
『狩人をされているそうですが……。野山を駆けまわっていたとは思えないほど女性らしい、美しい髪ですね』
『はっ……! はあ?』
いきなり自分の髪を「美しい」と言われたキリエはびっくりし、さらに動揺のあまり、パンとパン挟みを取り落としそうになってしまった。
普段手入れすることもなく、伸び放題でボサボサ状態だった彼女の髪。それを美しいと形容されたことは驚きであった。そしてキリエにとって、身体の部位を褒められることも初めての経験だった。
『あ、ありがと、よ……』
動揺しながらもどうにか平静を装い、代金分のパンを麻袋に詰め終わったものの、麻袋を渡した後で、今まで気に止めることすらなかった自分の髪に、そっと手を触れてみるキリエであった。
『ありがとうございます、キリエさん。では、また来ます』
キリエの純真な心に大打撃を与えておきながら、青年騎士は笑顔のまま、平然と去ろうとする。
その行動を察知したキリエは無意識に、そして衝動的に、青年騎士を呼び止めていた。
『ちょ、ちょっと待った! あんた、名前はなんて……』
『わたしですか、申し遅れました。公都にて教区司祭をやっておりました、イズキール・フェランといいます。連れとともに書肆ボヴァリーに止宿しておりますので、よろしければ足をお運びください』
『あ、こりゃどうも……。司祭様……』
意外にもスラスラと自己紹介されたので、キリエは呆気にとられながらも、ぺこりと頭を下げた。敬称をつけたのは、一神教の司祭が知識階級で、敬うべきものとされていたからである。
あのキリエが他人に頭を下げたと、青天の霹靂のようにどよめく買い物客たち。だがキリエはそんな周囲の雰囲気などまるで目に入らず、ただただ、去っていく司祭イズキールの背中を見つめたのだった。
(アタシの髪って、そんなに女らしいのか……?)
半信半疑ながらも、その夜、店舗裏の工房にある水がめの前で自分の姿を水面に映し見たキリエは、そっと呟いた。
ご機嫌を取りたいがためにそうしたお世辞を口にする客は、ひとりやふたりではない。だがイズキールと名乗ったあの司祭の言葉には、不思議と嘘がないように思える。どうしてそう思うのかはわからない。
だからキリエは、鏡の前に立った。貴重な水で汚れた髪を洗い清め、緋色のリボンで束ねた。
この緋色のリボンは、公都リーナスで帝国の凶刃を受けて倒れた、最愛の母の形見でもあった。
(死ぬ前に、女らしいアタシを見てもらいたい……)
リボンを巻いた後ろ姿を、何度も鏡に映すキリエ。そんな彼女は迫りくる帝国軍に対抗しようと、数少ない女闘士として守備隊の徴募に応じていた。召集日は明後日であった。
工房の薄暗い天井を見つめるキリエの脳裏に、公都で殺害された母と、あのとき帝国兵から自分を助けてくれた、大柄な青年の顔が並んで浮かぶ。
(おふくろ、兄さん……。アタシ、闘うよ!)
遠からず、帝国と死力を尽くして戦う。あるいは、もう生きて帰ってこられないかもしれない。だから戦場におもむく前に、緋色のリボンを彼に見てもらいたかったのだ。
そのとき物陰でじっと見守る父マックスの姿には、最後まで気がつかないキリエであった。
そして、次の日の朝。リボンを巻いて店頭に立ったキリエの頬は、目の前の光景にひくついていた。
『ふわ~あ。う~ん、眠いですわ……。ゆうべも研究活動で、遅くなりましたし……』
その日の朝もパンを買いにきたイズキールの横に、彼よりもひとまわり背が低く、同じように丸いメガネをかけた薄赤色の髪をした少女がひとり、青白い顔でふらふらと立っていたのである。
研究活動だなどと本人は言っているが、ふらふらしているのはワインの飲み過ぎによる、二日酔いのせいであった。
『いけませんよ、メル。このところずっと、朝食抜きではありませんか』
いつものように朝からにこやかなイズキールは、ふらつきながら自分の腕にまとわりついてくるメルを適当にあやしながら、やんわりとたしなめる。
『ああ、おはようございます。キリエさん』
そしてイズキールが笑顔で、キリエにあいさつをした次の刹那――。
メルが顔を上げてパン屋のカウンターに目を向けたとき、その場が凍りついた。
洗い清めた長い黒髪を緋色のリボンでまとめ、朝から大人の色香を匂わせるキリエ。
騎士の正装で店頭に立つイズキールとは対照的な薄着で、異質な雰囲気を漂わせたメルという少女。
『司祭様……なんだ? その女は?』
『イズキール様……。その女は、誰ですの?』
火花が散るような視線を交錯させ、異口同音に攻撃的な言葉を発する、キリエとメル。それを見て本能的に危機を感じ取った周囲の買い物客がひとり、またひとり、そそくさと店頭から去っていく。
イズキールはその様子を不思議そうに眺めながらも、ふたりの間の火花にはてんで気がつかないらしい。
『ああ、お二人は初対面ですか。ではご紹介しましょう。こちらはわたしの旅仲間で、魔術研究家のメル。そしてこちらはパン屋の看板娘でいらっしゃる、キリエさん……』
それでも状況が飲み込めないイズキールはなおもにこやかに、双方をそのように紹介したものの、頬をひくつかせ、火花を散らして睨み合うキリエとメルの耳にはまるで届かない。
『へえェ……。所作も教養も立派な司祭様の連れが、こんなちんちくりんな小娘だなんてなァ……。全ッ然、似合わねえよなァ……?』
『あらお言葉ですがァ? わたくし、育ちも家柄も由緒正しいお嬢様なんですの。栄養が胸にだけ行ったようなガサツな庶民の女とは、雲泥の差なんですのよおォ……?』
地の底から響くような声で、呪いの言葉を交わすキリエとメル。気魄のせいか風の音がごうごうと鳴り、瘴気が満ちるかのような凄まじい殺気が、あたりを支配する。
いつの間にか買い物客はおろか、大通りを歩く人までもがすっかり消えていた。
『ははは、ふたりともすっかり、打ち解けたようですねぇ。よかったよかった』
それでもただひとり呑気なイズキールは、にこにこ顔で両者のやり取りを見比べている。それはまるで、吹き荒れる嵐の中でも平気な、透明の箱に入っているかのようであった。
『…………』
そんなイズキールを間に挟んでいるうちに、今にも口論の応酬を始めようとしていたキリエとメルはどんどん毒を抜かれ、すっかり気勢を削がれてしまっていた。
そして互いの顔を見ているうちに、不思議と緊張が解けてくる。それとともに双方ともいつの間にか微笑し、相手に親しみを感じていることに気がついた。互いに何か、通じ合うものがあったのかもしれない。
いつしか風雲急を告げるような雰囲気はなくなり、にこにこ顔のイズキールを挟んだキリエとメルは、両者とも不敵な笑みを浮かべて見つめ合うのだった。
『……おい、お前。メルといったな。知り合いになれたのは嬉しいけどよ、ちょっと遅かったな。アタシが店番に立つのは、今日までなんだ』
『今日まで……ということは、まさかあなた、守備隊の召集に応じましたのっ?』
驚きを隠せないメルに対し、袖をまくり上げ、細腕を出して筋肉を見せつけるキリエ。その顔には誇らしげな笑みが浮かぶ。
『――まあ、な。アタシはこの街で育った狩人で、弓使いだ。この街を守る、義務がある』
キリエは毅然としてそこまで言ったが、すっかり顔から笑みを消し、心配そうに見つめてくるイズキールと目が合った瞬間、途端に頬を赤くし、恥ずかしそうに目をそらした。
(やばい……。この人に見つめられると、アタシは……)
イズキールの優しい瞳に捕らえられたが最後、自分が自分でいられなってしまう。キリエがイズキールに対する苦手意識を持ったのは、このときが最初だった。
『……ともかく、この街はもうすぐ、戦場になっちまう。一日も早く脱出するんだ。アタシもどうなるか、わからねえ……』
それでも平静を装い、そう忠告したキリエは、注文された分量のパンを急いで麻袋に詰めながら、きゅっと唇を噛んだ。
洗い清めた髪に巻いてきた形見のリボン。それをイズキールに見せる機会が失われたことを、心の中でひそかに後悔したからだった。
決意を告げたとき、心に衝撃を受けたかのように黙りこくった、メルのメガネ顔。
深刻そうな顔でキリエの目を見つめ、やがて口を開いたイズキールの言葉が思い出されてくる。
「……あなたが無事で本当によかったです、キリエさん。約束を守ってくださったんですね」
イズキールから優しく投げかけられたその言葉で、思い出に浸っていたキリエは、ハッとわれに返った。風にはためくカーテンと、半分以上が闇に支配された、薄暗い客室が視界に入る。
そして先ほどまでひざまずき、女性に対する騎士礼をとっていたイズキールがいつの間にか立ち上がり、にこやかな顔を向けているのを発見したのだった。
あの日、思慮深げに口を開いたイズキールから受けた言葉が、キリエの脳裏にまざまざとよみがえる。
『――かならず、生きて帰ってきてください。わたしと、わが主の名において、約束ですよ?』
あのときの言葉の響きと、笑顔で立っているイズキールとを心の中で見比べているうち、苦手意識と恥ずかしさで混乱していたキリエの心が不思議なことに、少しずつほぐれていった。
(そうだ。今度こそリボンのこと、司祭様に褒めてもらおう――)
黒髪に巻いた緋色のリボンにふと気づいたキリエは、あの日ついに口に出せず、見てもらう機会を失ったそれを、改めてイズキールに見てもらおうと思った。
ただし、それは今すぐではない。傭兵たちの襲撃と焼き討ちから生き残った暁に――である。
「……あの、さ。し、司祭様」
「うん? なんでしょう、キリエさん?」
壁際に立ったまま身体の緊張を解き、後頭部に手をやって急にしおらしくなったキリエは、なおも恥ずかしそうに身をよじりながら背中の弓を外すと、首をかしげるイズキールの方を見つめた。
かたわらで身を乗り出し「マジかよ、告白するのか? 今するのかッ?」と燃えたぎるクルトと、それをあきれ顔で見るテレサの姿など、もとよりキリエの目には入らない。
「もし、だよ。この戦いを、生き残ることができたらさ……」
背中に固定していた大きな弓を外し、右手でそれを床に立てる姿勢で壁際に立ち、そう言いだしたキリエは、顔を赤くしながらもじっとイズキールの目を見つめると、もじもじと次の言葉を発した。
「ア、アタシ、し、司祭様に、見せたいものが……」
言いにくそうにしながらも、どうにか、そこまで言葉を紡ぎだしたキリエ。
だがその直後、廊下が騒がしくなったかと思うと、突如として客室の扉が勢いよく開け放たれた。
「キ、キリエさん! その先は、だ、ダメえええええ!」
次の瞬間、いきなり客室に突入してきたのは、半泣きになって絶叫するメルであった。
空中を飛ぶような姿勢で身体ごと投げ出してきたメルは、その勢いのままキリエの位置に飛び込んできた。
「――おっ、おわあッ? メ、メルっ?」
キリエは思わず叫んだものの、その勢いを受け止めきれずに交錯し、絡み合いながらもんどり打って盛大にホコリを巻き上げ、二人ともに部屋の奥へと転がっていった。
「お姉さまぁ! いきなり飛び込んだりしたら……! あ、司祭様!」
「……あ、ああ、アンナさん。メルが迷惑をかけて、いつも申し訳ありません」
引き続き、そう叫んで客室に入ってきたアンナは、時すでに遅しの状態に少しがっかりしたが、苦笑するイズキールに気づくやいなや動きを止め、ぎこちなくぺこりと頭を下げた。
一緒に生活するようになって一週間も経つのだが、アンナはまだイズキールに心を開けない。相手が男性となると、どうにも臆病になってしまうのである。
「い、いえ……。メルさんは私の、お、お姉さま代わり、ですから……」
ぎこちなくそう言うと、心配そうに二人を見つめるアンナ。そんなアンナの感情をよそに、メルとキリエはつかみ合いのケンカを演じはじめた。
といっても殴り合いの争いではない。互いの顔を手で、力いっぱい押しのけ合う程度である。
「生きて帰ってきたら、だなんて……ふ、不謹慎ですわ! そんなこと言った人は、必ず死ぬと決まってるんですのよ!」
「な、何をワケのわからんことを……ってまさかお前! お前も司祭様のことが……! だから、アタシの邪魔をするんだな!」
「はっ……はいいっ?」
キリエに指をさされ、強い口調で指摘されたメルだったが、少しの間を置いてから、いきなりボッと顔が赤くなった。まるで、一瞬で酔いが回ったかのように。
その反応があまりにも明瞭だったので、キリエは一瞬ですべてを理解した。それは思わず、失笑を洩らしてしまうほどであった。
「そっか。まあ……当然だよな。ハハッ」
「なっ、何をひとりで納得してますのっ? イズキール様はただの、旅仲間でっ……!」
「あーハイハイ。まあ、そういうことにしておいてやるよ。でも、負けねえからな!」
すっかり争う気分をなくし、笑顔で首を振りながらそう答えたキリエは、とっさに近づいたアンナに「お姉さま、落ち着いてくださいぃ」と引き止められているメルに背を向けると、クルトとテレサ、そしてイズキールの方へと向きなおった。
その表情にはどこか吹っ切れたような、すがすがしさすら感じられた。
「司祭様、そしてクルトおじさんたち……。聞いてくれ! 帝国がもうすぐ、ここに攻めてくる!」
しっかりと両脚を踏みしめて床に立ち、身振り手振りもまじえて訴えるキリエの姿が、月明かりでほの明るく照らされた窓越しの夜空に、影絵のように浮かび上がる。
身長が高い彼女の体格とも相まって、その姿は彫刻のように優美で、かつ堂々として見えた。
そんなキリエの立派な姿を仰ぎ見たクルトは、心身両面の成長ぶりに思わず心の中で口笛を吹きつつも、先ほど慌てて伝えられた情報を拾い、話を続けてやることにした。
「さっきの話じゃあ、攻めてくるのは正規軍じゃなくて、ヒューリアックなんとかっていう傭兵集団なんだよな? そいつらが、この街を焼き討ちしにくるのか?」
「そうなんだけど……。焼き討ちしにくるのは魔術師だ。帝国で『魔導兵器』なんて呼ばれてる、ヤバい連中らしい。隊長自身は、焼き討ちに反対しているみたいなんだけどな」
クルトの問いにそう答えたキリエは引き続き、大通りに集結した「ヒューリアック解放戦線」について、見聞きしてきたことを全員に伝えた。先ほどまでキリエと一緒に暴れていたメルも、アンナに後ろから羽交い締めにされながら、神妙に聞いている。
イズキールは終始沈黙し、顎に手を当てて、時折うなずきを挟みながらじっくり耳をかたむけていたが、キリエが話し終わると、最初に口を開いた。
「つまり……。『隻眼の槍使い』ニケフォルス・アイゼナーが率いる傭兵団『ヒューリアック解放戦線』はこの街の掃討にあたると。そしておもな攻撃手段となるのは、ソテリオスという者が率いた数名の魔術師による、炎系魔術……ということになるわけですね」
イズキールはキリエの述懐を簡潔に整理してみせたが、その言葉は全員に要旨を伝えるだけでなく、魔術研究家であるメルに、魔術への対策の立案を促すものでもあった。
「その炎系魔術……。もしかしなくても、呪術魔法……ですわね」
イズキールの言葉を受け、そう呟いたきりうつむき加減になり、深刻な表情で考え込みはじめたメルに代わり、その後ろで床に座り込んだままのアンナが、おずおずとキリエに質問を返した。
「あの、キリエお姉ちゃん……。さっき、傭兵隊長のニケなんとかっていう人が、この街にもう一度戦いたい相手がいるって言ってたよね……。その名前、どこかで聞いたような気がするから、もう一回、言ってほしいの」
「……ん? ああ」
キリエは焼き討ち計画の存在と敵の兵力にばかり話を集中させるあまり、ニケフォルスが再戦を望む相手がこの街にいるという事実を、些末なこととしてさらっと流してしまっていた。
アンナの言葉でそれに気づかされたキリエは腕を組み、頭の中をもう一度整理した上で、再度その名前をひねり出した。
「アフィ……。そう、アフィロンだかアフィリオンだか、そんな感じの名前だって言ってた!」
その名称が再び出た途端、クルトとテレサの夫婦が複雑そうな顔つきで目を見合わせた。だがその娘のアンナはというと、再度その名前を耳にしても首をかしげるのだった。
「えっと……。ごめんなさい。やっぱり、思い出せないわ。お母さんは知って……」
どうしても思い出せず、諦めたアンナが母のテレサに助けを求めようとした、そのとき。
メルが突入し、開けっぱなしになっていた客室のドアの方から、野太い男の声が響いてきた。
「――そのアフィリオンというのは、俺のことだ」
その声がした途端、客室にいた全員の目が、入り口の方に注がれる。そこにあったのは、酒場の主人であり第十七区の座長でもある、ベンの姿だった。
ベンはその手に、自分の背丈ほどもある大きな両手剣を握っていた。護身用のために普段使っているものではなく、聖印と少しばかりの彫刻が施された、赤い鞘の両手剣である。
両手剣を右手に持ったままのベンが、ゆっくりと客室の中に入ってくる。その後ろには老鍛冶師のピウスと、それぞれのギルドを率いる街の主だった面々が、ずらりと顔を揃えているのが見えた。
「司祭様。先ほどは通称などで自己紹介をしてしまい、申し訳ない……。俺の本名はベルナルドゥス・アフィリオン。元、帝国軍の少佐です」
呆気にとられるイズキールやメルをはじめ、室内にいる全員に対し、ベンはそう言って頭を下げた。




