6-5 「精霊王」に選ばれた者
五 「精霊王」に選ばれた者
すっかり傷が癒えたアンナの手首を愛おしげにさすってやりながら、メルは淡々と言う。
「アンナさんが腕輪をしていない理由は簡単です。あなたは生まれたとき、まだ、魔力を持っていなかったから……。それだけですわ」
「えっ……。そ、そうなんですか? お父さんの怠慢とか……じゃなく?」
真相はそんなことなのだろうと内心思っていたことを、アンナはつい、口に出してしまった。
それに対してクスクスと失笑するメルの顔を見たアンナは、ようやく自分の過失に気づいたが、時すでに遅し。赤くなって両手で口をふさいだ。
「精霊と、その支配者である『精霊王』は、生まれつき魔力を有し、すでに『器』が決まった者ではない適任者から、強大な魔力の受け皿になりうる人間を選ぶとされていますの。アンナさんはきっと、精霊の王さまから選ばれた存在なのでしょう」
「精霊と、精霊の王さまから……選ばれた……」
アンナはそう呟きながら、自分の両手を薄暗い月明かりに照らしてみた。精霊の王だと聞かされても正直ピンとこないアンナは、絵本などでよく見る王様やお姫様の姿を、何となく想像してみた。
だが、今のアンナがすごく気になるのは、自分が選ばれた者であるということより、メルが言う「もぐり」の真相の方であった。
「あ、あの……。少し、質問、よろしいですか……」
「わたくしに分かることなら。何でもどうぞ?」
にっこり顔でそう言い、首をかしげたメルに対し、アンナは両手の指を高速で絡めつつ勇気を振りしぼると、思い切って口に出してみた。
「お、お姉さまの、『もぐり』……って、一体、どういうこと、なんですか……?」
少し抜けてはいるものの、清楚というより脳天気そのもののメルから「もぐり」などという反社会的な言葉が飛び出したこと自体が、アンナにとっては信じられなかった。
しかしメルは、その質問には答えることなく、くるりと背を向けるやいなや、窓の外で輝くふたつの月を見やりながら、わざとらしくうっとりと呟いた。
「まあ、まあ……。今夜は月がきれいですわねぇー」
「…………」
あまりにもわかりやすいメルのはぐらかし方に、突っこむことも、続きを尋ねることもできないアンナは、絶句するしかなかった。
何でも教えてくれるお姉さまでも、自分のことになると答えたくない秘密があるらしい。納得のいかない表情のまま、アンナは自分にそう言い聞かせた。
「よいしょ……っと」
悶々と唇を噛んだアンナを見たメルは、いたずらっぽく微笑すると、軽い疲労感をおして大儀そうに立ち上がり、正座をしたままのアンナに手を差しのべた。
アンナは安堵の表情になったが、メルは次の言葉で、驚くべきことを要求してきたのであった。
「——さあ、アンナさん。次は、あなたの番ですわ」
「……私、ですか?」
「そう。わたくしがやってみせたことと同じことを、アンナさんもやってみましょう」
にこにこ顔のメルからそんな要求を突きつけられたアンナは、状況がのみ込めず、きょとんとした顔をした。
それでも変わらないメルのにこやかな顔を眺めながら、しばらく、その言葉の意味を繰り返し考えてみると……。
「え、ええええええっ?」
言われたことの意味が理解できた瞬間、アンナは座ったまま一気に後退し廊下の壁に背中をぶつけ、壁を背に真っ赤な顔で両手をばたつかせながら、何度も首を振った。
「い、いやいや! む、無理ですよぉ!」
目の前で実演されたからといって、たとえその能力はあるにせよ魔術の素養など皆無である自分が、同じようにできるわけがないではないか。
「あら、どうしてですの?」
「どうしても何も! 私、魔術どころか呪文のひとつも知りませんし!」
何を言いだすのかと、アンナは両手をばたつかせて必死に抵抗した。しかしそんな彼女を前にしても、メルは一切、笑みを崩さない。
そればかりか、メルは急に四つんばいの姿勢になってアンナと視線を合わせると、じりじりと近寄ってきて、にこやかな表情でさらに迫ってくる。
「呪文なんて、知らなくても大丈夫です。あなたは『認められた者』なんですから。ただ、念じるだけでいいのです」
「えっ……」
ここで再び登場した「認められた者」という呼び名。それを耳にした瞬間、ハッとしたアンナは抵抗をやめて大人しくなり、メルの顔をじっと見つめ返した。
メルの言うとおりにすれば、自分の正体がわかるのではないか——。そんな気がしたのだ。
「念じる……。私は念じるだけで、お姉さまのようにできるんですか?」
「ええ。ものは試しです。さっそくやってみましょうか?」
四つんばいのままにっこりと笑顔を近づけてくるメルに、自己探求への興味をかき立てられたアンナは、素直にうなずくと壁から背を離し、その場に正座しなおした。
それを見てうなずいたメルは、アンナにならって同じように正座した。
そしてメルは何を思ったか、いきなり自分の左腕の袖をまくると、あらわになった白い左腕をにゅっと、アンナの前に突き出した。
「さあ、アンナさん……。このわたくしの青あざを、あなたの力で治してみてください」
そう言われたアンナは、突き出されたメルの腕に顔を近づけ、月明かりに照らしてみた。
手首よりやや上のあたりに、筋状に腫れあがるほどの大きな内出血ができている。何かに驚いたのか、相当ひどく打ちつけたものらしい。
「あの、お姉さま……。こんなにひどい青あざを、いつ……?」
「え? あ、ああ、昨日の朝でしたかしら。ついカウンターで眠ってしまったのですが、目が覚めてみたらこんなにひどい青あざが、いつの間にかできていましたの」
「ひどい傷ですぅ……。痛くなかったですか?」
「痛いに決まっています。きっとわたくしを快く思わない人間が寝込みを襲って、恨みをこめて打ちすえたものに違いありません。ああ、恐ろしいことですわ……」
「…………」
弱々しげに頬に手を当て、なよなよと身をくねらせながら、メルは被害者を演じてみせた。だがアンナはそれを、ジト目で見つめた。
この傷は明らかに、ワインの飲み過ぎで酔っぱらったメル自身が、椅子から転げ落ちそうになったときに、バーのカウンターへみずから打ちつけたものである。普段の行状から考えれば、原因はそれしかない。
そうしたアンナの心を露ほども知らないメルは、視線を戻すや否や一瞬で興味深げな表情になると、先をうながすかのように無遠慮に、ぐいっと顔を近づけてきた。
「では、行きますよ。アンナさん……。わたくしの傷口を覆うように、両手をかざして……」
「は、はいっ……」
アンナは言われるがまま、メルの左腕にできた患部に両手をかざしてみた。
だが、念じるだけでいいとは言われたものの、どのように念じたらいいのかわからない。
思わず顔を曇らせ、アンナは苦慮した。それを見たのか、目の前で正座し腕を差し出しているメルが優しげな口調で、ささやくように助け船を出してくれた。
「そう。まず静かに目を閉じて……。自然の中から『力』を集めてくればいいのです。いつもあなたが、心の中で感じているように……」
「…………!」
メルの何気ない言葉に、アンナはどきりとした。それでも目を開けることなく、かざした両手は動かさなかったが、表情だけは驚きを隠しきれなかった。
能力を発動する際、アンナはいつも周囲の自然に気を配り、漂っている波動のようなものを感じていた。
そのときの行動だけでなく、能力の発動時に考えていたことまでメルは知っていた。彼女に心の中を見透かされたかのような、薄気味悪さを感じたのである。
「お、お姉さま……。どうして、私が感じていたことを……?」
「……わたくしも、精霊魔術師の端くれですから」
目を閉じたアンナには見えなかったが、メルの声は、今まで以上に優しく感じた。
「先ほども、光の粒のようなものをご覧になったでしょう。精霊魔術師というのは誰もが、あのように自然の力——つまり、『精霊』の力を借りて魔術を発動しているのです」
「せ、精霊、なんですか……? あの、光の粒が……?」
精霊という存在は、農村部や山間部を中心に昔から信じられてきた霊的なもので、神霊や亡霊とは異なり森羅万象に遍在するとされている。そのため精霊は雨や風、火の燃焼など、すべての自然現象に仮託されてきた。
アンナも幼い頃から、絵本や古老の話などで精霊に親しんできた。やんちゃな少年である火の精霊や、太った中年男として描かれる風の精霊など、擬人化され、庶民を助けてくれる存在が、庶民にとっての精霊であった。
(私がいつも感じていたもの……。あれが、精霊……?)
アンナは目を閉じながら、あのときホタルのように乱舞し、自分の傷を癒してくれた光の粒子の姿を頭の中に思い浮かべた。
(でも、あれが精霊……? 何だか、違和感がある)
あの光の粒子が精霊の姿なのだとするなら、アンナが普段感じていたものとは違うのだ。
風を起こしたり火を燃え上がらせたりする際は、周囲に「雰囲気」といったものを感じるだけなのである。それは粒子などではない。目に見えるものではないのだ。
「で、でも、メルお姉さま。私がいつも近くで感じていたのは、光の粒ではなく……。こう、なんというか、雰囲気というか……」
うまく説明できず、あれこれと言いよどむアンナだったが、そうしている間にも彼女の周辺には優しく包み込むような、それでいて冷たく爽やかな空気を持った、ある種の「雰囲気」が取り巻きはじめていた。
いつも感じるのは、包まれるようなぬくもりである。だが現在まとわりついている雰囲気は冷たい。こんな清冽な印象を受けたのは初めてだった。
「あ、あの、メルお姉さま……?」
独特の「雰囲気」をうまく言いあらわす言葉がなかなか見つからないアンナだったが、いつの間にか無言になっていたメルに気がついた。
アンナが目を閉じたまま神経を研ぎすますと、目の前にいるはずのメルの方から、慌ててごそごそ何かを探す音とともに、興奮に満ちたひとりごとが聞こえてきた。
「そうですか……。ふむふむ、アンナさんは、常に精霊を身近に感じていたというわけですのね……! それは確かここに……。あ、この本ですわ」
慌てて探していたものは、袋に入れた本だったらしい。本が見つかった途端、羊皮紙でできた分厚い本のページを器用に右手でめくる乾いたパラパラ音が、メルがいると思われる方から聞こえてきた。
メルは興奮しているのか、ひとりごとが大きい。パラパラという音も速くて激しい。
「なるほど……。この伝説は、本当だったのですね。『認められた者』にとっての精霊は使役するものではなく、常にともにある存在、と……。お母さまがお集めになった本は、さすがですわ……!」
「お、お母さま……?」
ふいに聞こえてきた「お母さま」というメルの言葉に、アンナはどきっとした。
一神教の司祭であるイズキールとともに、自分探しの旅をしている。そのこと以外、メルはみずからの身の上を、ほとんど口にしたことがなかったからである。
メルの母親というのは、どんな女性なのだろうか——。ひと目会ってみたい欲求にかられたものの、今はそんな時ではない。アンナはぐっと気合を入れ直そうとした。
ところが、意外なことが起こった。
アンナが望むよりも早くメルの方から、母親に関する述懐が始まったのだった。
「わたくしの母もまた、精霊魔術師だったと聞いています。ただ、わたくしが物心つく前に、任務だとかで行ってしまったまま帰りませんでした。父も亡くしていたわたくしは、一神教の聖職者である祖父に育てられましたの」
「お母さまも、魔術師……」
「そう、人並みの幸せすら得られない、それが魔術師の運命です。しかし幸いなことに、母は家に、たくさんの本を残してくれました。精霊魔法だけでなく、『神聖魔法』『呪術魔法』といった別系統の魔術に関する本も、たくさんありましたわ」
「ほかにも、魔術の種類があるんですね……」
メルの魔術に関する知識の深さは、母親が残した本が理由だったのだ。興味が湧いてきたアンナは、さらに精霊魔法以外についても尋ねてみた。
「それじゃ、精霊、魔法? のほかにある魔法も、使えちゃったりするんですか……?」
「それは……普通の魔術師には無理ですわね。魔術師になるときに一度、どれかの魔術を選ぶことを神に誓いますと、その魔術をすべて修得するまでは、別系統の魔法を修得できなくなるのです」
「ええ……。全部使えるようになるって、難しいんですか……?」
「そうですわね。魔法の数はそれぞれ千以上もあると言われています。一生かかっても、ひとつの系統すら修得しきれないでしょう」
魔術は具体的にどう学ぶのか、師匠となる人物はいるのかなど、アンナにはそのほかにも知りたいことがあったのだが、残念ながら話はここまでだった。
実験に対する興奮が冷めやらず、鼻息を荒くしたメルが勝手に話を打ち切ったからである。
「——少し、話しすぎましたね。時間がなくなってしまいました」
とは言いつつも、メルは残念そうだった。いずれまた詳しく身の上話を聞くときがくるだろうと、アンナは自分を納得させるしかなかった。
そうしているうちに、切り替えの早いメルが、興奮したようすで先をうながしてくる。
「さあ、やってみましょう、アンナさん! ここから先はわたくしが説明しますから、目を閉じたまま集中して、聞いてください」
ついに始まる——。あらためて目を閉じ、両手をかざしたままの姿勢で、アンナは精神を研ぎすませた。
周囲の空気がアンナの精神状態に連動しているのか、蒸し暑い初夏だというのに、まとわりつく雰囲気がますます冷たさを増していく。
「いま、あなたの周りを取り巻いているのは、知恵と霊気をつかさどる精霊です。普通の魔術師であれば、術式を開始する前にまず『智と霊気を司る精霊よ』と、精霊を呼び寄せる必要があります。でも……」
「で、でも……?」
「『認められた者』には、命令文である呪文を唱える必要がありません。精霊と、その長である『レクス・スピリトゥス』に選ばれた者だから……だといわれています」
「れ、れくす……?」
またも登場した、耳慣れない外国の言葉。アンナの頭の中は再び混乱しそうになったが、それを察したメルが、間髪を入れずに説明してくれた。
「レクス・スピリトゥスは、先ほども出てきた『精霊王』のことです。精霊王は精霊たちを統括する龍の王であり、『認められた者』をこの世に遣わす、神様のような存在でもあるのです」
「神様……?」
唯一神のほかに神はないと教える一神教の信者であるアンナは、神様というメルの言葉に、やや違和感を覚えた。
いやむしろ、精霊の王とも呼ばれるすごい存在に選ばれたという事実の方に、重圧を感じる。緊張のせいか、アンナは自分の身体が硬くなるのを自覚した。
そして不思議なことに、そうした心理状態になると、周囲に満ちていた雰囲気が、ふっと薄くなるのを感じる。アンナ自身、そうなることにはずっと前から気がついていたが、今はさすがに焦った。
(ダメ……。今は集中しなくちゃ……)
目を固く閉じたまま、アンナは何度も首を振る。そうしてどうにか雑念を振り払うと、冷たい空気をともなった雰囲気が再び集まってきて、自分の身を取り巻いた。
あたかも意志を持っているかのような空気の動きに、精霊というものの実在性を改めて感じさせられる。
首を振って深呼吸をした途端、穏やかな表情を取り戻したアンナ見て、メルはうなずき、口元に優しげな笑みを浮かべると、最後にそっと声をかけた。
「さあ……アンナさん。今はわたくしの母のことは忘れて、ひたすら念じましょう。精霊たちよ、腕の傷を治してほしい、と」
目を閉じたままのアンナが、メルの言葉にこっくりとうなずいた直後だった。
かざしたアンナの両手が、わずかに明緑色の光を帯びはじめた。
(やはり、わたくしの見立ては本当でした……。この子こそが、二百五十年ぶりに現れた本物の『認められた者』……。これで、わたくしの願いも……)
呪文なしで発動した魔術の光。それを目の当たりにしたメルは、ふっと笑みを浮かべながらメガネをずらし、目尻に溜まった涙をこっそり、人さし指でぬぐった。
そしてこみ上げてくる涙がこぼれないよう、メルはふたつの月を見上げ、万感の思いを胸に心の中で呟いた。
(お母さま、そして亡きお父さま……。ここまでわたくしを導いてくださり、ありがとうございました……)
夫婦のように仲むつまじく並んだふたつの月だが、何も答えてはくれない。だがその優しい輝きは、目を潤ませるメルにとって両親がもたらす慈愛そのものであった。
メルが感泣している間にも、アンナの両手に生まれた光は、急速に輝きへと変化していく。
その輝きの中からは、丸く光る粒子が次々に発生する。どの粒子も火の粉のようにふわりと舞い上がっては、あいついで空中に消えていった。
(私の手に、精霊さんたちが、どんどん集まってきているのがわかる……)
まぶたの向こうに光を感じたアンナは、静かに目を開けた。自分の手が、光を帯びている。
術式が、完成に近づいているのがわかる。初めて発動する術だが、初めてのような気がしない。むしろ、みずからの手に集まってきた光と粒子に、アンナは愛着すら感じていた。
「精霊さんたち——。お願い。お姉さまの傷を、治して……」
手の中の小鳥を慈しむかのような優しい声で、アンナは精霊に呼びかけたとき……。
空中で自由に舞い飛んでいた光の粒子が、ぴたりと動きを止めた。
次の刹那——。何もなかった廊下に、アンナを中心とした同心円の魔法陣が出現した。
メルが魔術を行使したときと、ほとんど同じ意匠の魔法陣である。だがメルのものとは、色が違う。ほぼ純白に近く、輝きの明度も格段に上回っている。
魔法陣から発せられる強烈な光が、廊下はおろか窓の外に広がる街まで煌々と照らしだした。
そして次の瞬間。その場でいっせいに方向を変えた粒子は、意志を持つかのようにメルの腕の傷口へと、一目散に飛び込みはじめた。
それは誰がどう見ても、メルが実演してみせた「治癒の秘儀」と寸分違わぬどころか、より壮観さを増した光景だった。
大挙して傷口へと押し寄せる明緑色の粒子は、その身に帯びた輝きをもって傷口を浄化するかのように、赤く腫れたメルの患部をみるみるうちに癒していく。
「この強烈な光、そしてとてつもない圧力……。すごい。すごい魔力です。さすがは、精霊王に認められた『器』だけのことはありますね……」
メルはあまりの心地よさに意識が飛びそうになりながらも、アンナの魔力の巨大さだけでなく、この短時間で完全に精霊を制御してみせた能力の高さに舌を巻き、思わずそう唸らざるをえなかった。
(ですが……。ここまで、ですわね)
心の中でこの実験の終わりを予期したメルは、少し目を細めてアンナを見つめた。
メルは魔術師として、この先アンナの身に起こるであろうことまで予見していた。
ふっと冷静な表情になったメルは、術式を終了させようとしているアンナにそっと寄り添うと、いつ倒れ込んでもすぐに、その身を支えられるように身構えた。
魔術を行使する者は、体内に宿る魔力を消費する。魔力は精神力にも通じるもので、体力の消耗と激しい疲労をもたらす。
しかも魔力が非常に大きいのが「認められた者」である。一度の術式行使で消耗する魔力もまた、非常に大きいとされている。
「認められた者」ほどの魔力はなくても長年修行し、大魔法使いと呼ばれるようになった人物でさえ、大規模な魔術を行使した後は意識を失うことがあった。
ましてやアンナは、魔術の修行などしたことがない、十四歳の少女でしかない。実験台にした上に申し訳ないがここで確実に意識を失うだろうと、メルは考えていたのである。
(もう間もなく、ここは戦場になるでしょう。アンナさんはもう、血なまぐさい場面を見る必要はないのです……)
アンナが気を失って倒れたら、お姫様抱っこですぐそこの客室に運び込み、設置されたベッドにそっと寝かせてやろう——と、メルはひそかに決意した。
これも姉としての務めなのだろうと、年上っぽく優しげに微笑みながら。
しかしここで心配なのは、自分の腰である。お姫様抱っこなどして大丈夫なのだろうか。重大な心配事が持ち上がり、メルが真顔になったところで、アンナの術式が終わった。
「ふう——」
術式を終えたアンナが、ひときわ強く吐息をもらした。
それと同時に、さっきまで強烈な輝きを放っていた魔法陣がパッと消え失せた。
昼間のように煌々と照らされていた廊下が、一瞬にして薄暗い空間へと戻る。
そして、傷口がどこにあったのか判別がつかないほどすっかり癒されたメルの腕からも、精霊が発する光が力を失い、明滅しながら、なごり惜しげに消えていった。
「精霊さんたち、どうも、ありがとう……」
薄暗い空間へと舞い上がり、ひとつ、またひとつと消えていく粒子に手を差しのべながら、アンナは優しそうに目を細めた。
そして達成感に満ちた顔で、アンナは正座を崩し、再びぺたんと床に尻もちをついた。
ところがアンナの顔色は蒼白になるどころか、少しも変わらず、血色も良好なままである。
魔術を終えたばかりだというのに、疲労どころか吐息の乱れすらない。
奇妙な顔つきで自分の背中に手を回そうとしているメルの姿に、アンナが気づいたのはそのときだった。
「……メルお姉さま? 私の背中に何か、ついていますか?」
メルの悲壮な決意も知らないで、きょとんとした表情で首をかしげるアンナ。
だが、アンナの意外な反応に接したメルは、奇妙な顔つきと変わった姿勢のまま、その場で固まるしかなかった。
「…………あ、アンナさん? あなた、疲れてはいないのですか?」
「疲れて……? いえ、別に疲れたということは、ありませんが……?」
予想もしなかった展開を前に、思わずアンナの顔を凝視したメルの視線。
そして質問の理由がわからず、首をかしげて問い返すアンナの目が、ぴたりと合った。
二人の目が合ったとき——。メルはハッとして、驚愕のあまり両目をまるく見開いた。
「アンナさん……あなた! ひ、瞳の色が、赤く……ッ!」
メルはお化けでも見るようにまなじりを決し、アンナの瞳を見つめた。
その瞳の色が、普段の美しい青緑色から毒々しい濃赤色へと変わっていたからである。
「あっ……。この目の色ですか? バレちゃいましたね」
ところがアンナ本人は、能力の使用後に自分の瞳が赤く変化することを知っていた。顔が引きつるほど驚くメルに違和感を覚えつつも、その理由を説明しようと試みた。
「私は能力を使った後、なぜか目がいつもこうなるんですぅ……。シェリルは何度も、気持ち悪いって言うし……」
アンナは苦笑いを浮かべ、叱られる子どものような顔でそう釈明したが、メルはそれが終わるのも待たず、そばに置いていた大きな書籍を素早く引き寄せ、それを勢いよく開くやいなや、超高速でページをめくり始めた。
「その瞳の色は……ヴァルトール……。『敵対者』の色……!」
断片的で意味不明な呟きをうわごとのように洩らしながら、ガーネットのような紫色の瞳をせわしなく左右に動かし、メルはページの中の文字を追う。
その形相があまりにも鬼気迫っていたので、この瞳の色に何か重大な秘密があるのではないかと感じたアンナは、何かしら不安になってきた。
「あ、あの……? メルお姉さま……?」
果たして、何が起こったというのだろうか。それだけでも、聞き出したい。
恐ろしいほど集中するメルの姿は、ワインを満たしたグラスを片手にヘラヘラしている時とはまったく違う。いささか怯みながらも、アンナはメルの背中へ手を伸ばそうとした。
だが——。アンナの手は寸前でぴたりと止まった。
すべてのページをめくり終えたメルが「バン!」と、勢いよく本を閉じたからである。
「……ダメ、書いてないですわ! 今までこんなことは歴史上になかったということ……。いえ、原理的にありえません!」
「——ひゃっ?」
目の前でメルが突然叫んだので、その声にびっくりしてバランスを崩したアンナが、悲鳴とともにまた尻もちをついてしまった。
その悲鳴に気づいたメルは、目を閉じて胸に手を置き、ふうっと深呼吸をして無理やり心を落ち着かせると、膝立ちになって、アンナの方に手を伸ばした。
「大丈夫ですか? ごめんなさい、つい、驚かせてしまいました。魔術師に関する歴史の本を読み直してみたのですが、どこにも、アンナさんのような例は書いていなかったので……」
メルの手を取り、正座の姿勢に戻してもらったアンナは、思わずメルを二度見した。
「えっ……。今のは、本をお読みになっていたんですか?」
「ええ、そうですわよ? まあ、ここに書いてあることは、だいたい頭に入っていますけど」
それを聞いたアンナは口をあんぐりと開け、メルの顔と、閉じられた分厚い本とを何度も見比べた。
この人はもしかしたら、とんでもなく博識な「知の巨人」なのかもしれない……。いつも酒場のカウンターでヘラヘラ酔いつぶれている人と、同じ人物だとはとても思えなかった。
だがそのとき、アンナを見つめるメルの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「アンナさん……。ああ、まだ、こんなにも若いのに」
メルはこぼれ落ちる涙を拭おうともせずにそう言うと、いきなりアンナの方に覆いかぶさり、廊下の床に座った姿勢のままぎゅっと抱きしめてきたのである。
自分の胸に押し当たる柔らかい感触、そしてふわりと漂ってくる、いい香り。
それは今までアンナが感じたことのない、「年上の女性」の確かな感触だった。
しかし、少ししてわれに返ったアンナは、メルの行動の意味が分からず、顔を真っ赤にして全身をこわばらせるしかなかった。
「今までの歴史上、強大な魔力を持つ『認められた者』が現れると、近しい間柄の『敵対者』も必ず現れる……そんな法則がありました」
「近しい間柄の、敵対者……?」
「はい。敵対者というのは、『認められた者』の魔力が暴走したり、誰かに操られそうになったりしたとき、その身をもって制止する……そんな役割を負ってきたのが『敵対者』です」
初めて聞く話だが、アンナは固唾を呑んで耳をかたむけた。全身から緊張が解けていく。
「『敵対者』と呼ばれる魔術師だけが、神から『無限に湧き出る魔力』という、特殊な力を与えられていました。どんなに魔術を使ってもまったく消耗しなかったので、『認められた者』と互角に渡り合うことができたそうです」
「魔術を使うと、消耗するものなんですね。初めて知りました……」
「普通の魔術師は、そうなのです。でも『敵対者』たちは生まれつき、赤い月ヴァルトールとつながっているといわれる精霊の加護がありました。魔術を使うたびに瞳が赤くなり、精霊たちから魔力を供給されていたのだそうです」
ぎゅっと抱きしめた姿勢のまま、メルはささやくようにアンナの耳元へと語りかけてくる。
そんな彼女が語る「敵対者」の話は、まぎれもなく自分を言い当てている。恐くなってきたアンナは、いつしかメルの背中に手を回し、互いに上半身を抱きしめ合う形になっていた。
「『認められた者』と『敵対者』の両方を、同時に身に宿すなど……。普通は考えられないことですが、それは『精霊王』が課した、アンナさんの務めなのですね」
「お姉さま……。私は、これから、どうすればいいのですか……?」
抱きしめ合ったまま、アンナが不安そうに言う。みずからに備わった能力の過大さと課せられた運命を知って、そら恐ろしさを感じたのである。
細かく震えているアンナを、メルは自分の身に引き寄せるようにして、ひときわ強く抱きしめた。
「——大丈夫、安心して。わたくしが『敵対者』の代わりになります」
「メルお姉さまが、『敵対者』に……?」
「ええ。たとえあなたの魔力が暴走しても、誰かに利用されそうになっても、あなたはわたくしが、この身に代えても守ってみせます。可愛い妹分ですから」
「お姉さま……。はい」
メルとアンナはしばらくその姿勢のまま、淡い月明かりに照らされながら、抱きしめ合った。
互いの鼓動が直接、身体のすみずみに伝わってくるかのような、不思議な時間であった。




