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城壁都市リーヴェンス攻防記 ~新編・破壊の天使~  作者: 南風禽種
第6話 禁忌の秘法「魔術」の深淵
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6-4 もぐりの魔術師

四 もぐりの魔術師


 時間は少し、さかのぼる――。


 多くの避難民が身を寄せ合っている大広間とは違い、宿酒場二階に備えられた客室前の廊下に、人影はまったくなかった。

 天井には、ぶら下げられたランプが等間隔に並んでいる。普段はほの暗いランプの明かりが灯り、燃料の獣脂がほんのり匂う廊下なのだが、今夜ばかりは敵に灯火を見られるわけにはいかない。どのランプにも火はともっていなかった。


「よっこいせ……と!」


 一階から二階へと続くはしご段をよじ登ってきたメルは、最後に奇妙な掛け声を発しながら二階まで登り終えると、背負ってきた重い荷物を床に放り投げるやいなや、その場にぺたんと尻もちをついた。


「ふうー。あいかわらず急ですわね、この階段は……」


 そう悪態をつくメルは、このはしご段の急峻さを、身をもって知っている。クルトとテレサが営む書店に居候しているにもかかわらず、酒場のカウンターで酔いつぶれた彼女は、二回ほどこの客室に担ぎこまれているからだった。

 そんなメルが人けのない廊下の不気味さに眉をひそめつつ、きょろきょろと周囲を見回していると、今しがた登ってきたはしご段の方から、可愛らしい少女の声が響いてきた。


「よいしょ……っと」


 最後に発した控えめな掛け声とともに、ひょこっと顔を出したのはアンナだった。

 アンナは左手に食料が入ったカゴを持っているのだが、普段からその体勢ではしご段を上り下りしているからか、手慣れた様子で右手のカゴを先に挙げると、左手だけで一気に、体全体を二階へと持ち上げた。


「あっ、メルお姉さま。急な階段で、お怪我など……」


 無事に登り終えたメルの姿を認めたアンナは、ホッとしながら声をかけたが、床に座り込んだままのメルはスカートを押さえ、身を縮こまらせつつ、ジト目でアンナの顔を見つめてくる。

 どこか様子がおかしいメル。それを見たアンナはたちまち不安になり、二階に何か異変があったのかと、思わず顔を曇らせた。


「お、お姉さま……?」


 黙ったままのメルに向け、アンナが重ねておずおずと声をかけてみたところ、ワンピースの裾を押さえたままのメルはいかにも言いづらそうな声で、逆に質問してきた。


「ア、アンナさん……。その……。み、見えました?」


「え……ええ?」


 予想もしていなかったメルの反応に目を白黒させたアンナだったが、メルの様子と姿勢から問いかけの内容について即座に合点がいくと、すかさず暗い金色の髪を振り乱しながら、何度も首を横に振った。


 その反応に安心したのか、もじもじしていたメルの恥じらいが、スッとほぐれるのがアンナの目に入った。


「よ、よかった……!」


 疑念が氷解し、心からホッとしたらしいメルは一転して明るい表情を取り戻すと、「よっと」の掛け声ひとつで勢いよく立ち上がり、さっそく興味深げに廊下を眺めまわしはじめる。

 いつものお姉さまが戻ってきた……。それを見たアンナは素直にホッとするのだった。


 だが実のところ、アンナが何も見ていないというのは嘘であった。一度盛大に足を踏み外しそうになったメルを下から支えようとしたとき、つい見えてしまったのである。


(あれは、ふ、不可抗力、ですよね……。神様)


 とっさに嘘の反応を返してしまい、罪の意識に動揺する純真なアンナだったが、明るさを取り戻して動き回るメルを見ていると、これでいいのだと自分を納得させる。

 だが、ともかく二階に異変があったわけではないことだけは確かなようである。メルの様子に安心したアンナは薄暗い二階へと登りきると、食料が入ったカゴを大事そうに持ち上げた。


 カーテンのない窓から射し込むのは、ふたつの月が競演し発する透明な光――。


 酒場の二階は、旅人が安価に一夜を過ごすことができる宿泊施設になっている。奥まで続く板張りの廊下の左側に、客室のドアが五つほど、等間隔で並んでいた。

 これまで数えきれない人々の足が踏みしめてきた板張りの廊下は、窓から射し込む月の光で黒光りしている。窓と窓との間では、素焼きの花瓶に挿された野の花が、テーブルの上で寂しそうにたたずんでいた。


「ふぅー。さて、なかなか雰囲気たっぷりですこと」


 お嬢様口調でそう独語しながら奥へと続く廊下を一望し、自分の尻を両手でポンポンと叩いてワンピースについたホコリを払うメル。

 普段と違う廊下の光景を目にしたメルは、好奇心でわくわくしているのだろう。先ほど羞恥に身をすくませていた人と同一人物だとは、どうしても思えない。


「さ。イズキール様とおじ様は、どのお部屋かしら……?」


 ひょいと背負い袋を取り上げると、器用な手つきで袋を背負ったメルは、暗がりを見透しながら言う。たとえひとり言であっても、お嬢様口調が外れることはないのだった。


 気分屋で危なっかしく、飄々としてとらえどころがないのに、常に別世界を見ているようなメル。

 常に他人の顔色をうかがいながら生きてきたアンナは、その生き様をうらやましく感じていた。


(お姉さま……。何だか、楽しそう)


 アンナはそんな彼女の背中をじっと見つめながら、青いスカートをエプロンごとぎゅっと握りしめた。

 少し前に大広間で意味ありげに告げられた「スペクターレ」という用語の意味を、どうしても教えてもらいたかったのである。


(お姉さまが言った「スペクターレ」……。いまその意味を聞かなきゃ……! もうこの先、二度と聞けないかもしれないんだから……! いまよ、私!)


 自分の心を叱咤するアンナだが、口をパクパクするばかりで、言葉が出てこない。


 恐ろしい帝国軍が、すぐそこにまで迫っている。信じたくはないが、戦闘になれば万が一ということもある。いま聞かなければ、永遠に聞けないかもしれない。アンナは焦りを感じはじめていた。

 しかし、好奇心にみなぎったメルの心に水を差す勇気が、どうしても湧いてこないのである。


 メルは一刻も早く、連れの司祭イズキールと合流したいのかもしれない。父親のクルトから、何かを聞き出したいのかもしれない。そんなお姉さまの関心事を、自分が奪ってしまっていいのだろうか。

 そんなことで悩む自分に、ふいに気がついたアンナは、ほとほと暗い気持ちになった。つくづく、自分の引っ込み思案が情けなく思えてくる。


(――どうして私はいつも、こんなに臆病なんだろう。お姉さまは私のことを、気にしてくれるのに……)


 一週間前から居候をしているメルとは、自分の部屋で同居している。何度か同じベッドで一緒に寝て、天井を見ながら飽きずに話したこともあった。それでもう十分、気持ちが通じ合えたと思っていた。


(でも違った。私の心はまだ完全に、お姉さまと打ち解けたわけじゃなかったんだ……)


 あの夜以来、メルは何かと話しかけてくれたし、酔っぱらいながらも心配してくれた。でも自分はまだどこかで、心を閉ざしたままだった。

 そんな自分の閉鎖的な心と、病的なほどの引っ込み思案がすっかり嫌になったアンナは、唇を噛みしめながらうつむき、ぐすっと鼻を鳴らして涙ぐんだ。


「……? アンナさん? どうしました?」


「ひゃっ……。め、メルお姉さまっ?」


 そのすすり泣きが耳に入ったのだろう。先に行ったはずのメルがいつの間にか引き返し、アンナの顔をのぞき込みながら、心配そうに声をかけてきたのである。

 アンナはその声がした拍子に、ふと顔を上げたのだが、思わず手で口を押さえ、奇声を上げつつ驚いてしまった。メルの顔が、目の前で大写しになっていたからだった。


「どこか、痛めたのですか? さあ、わたくしに見せてみて」


「あ、いや……な、何でもない……ですぅ」


 心配して戻ってきてくれたメルの顔をまぶしそうに見つめながらも、アンナはもうこれ以上メルに心配をかけたくないと思い、急いで涙をぬぐった。そしてニコッと微笑んでみせた。

 そんなアンナの笑顔を見て安心したのか、目を細め「そう、よかった」と、ホッとした表情になるメル。


 だがそのとき、メルは何かに気づいた。

 微笑みから一転、深刻そうな顔になったメルは、アンナの手首にじっと目を落としてきた。


「アンナさん……! その、手首の傷……」


 息を呑んだ直後に絶句したメルが見つめる先には、アンナの細い右手首があった。

 その白く細い腕には、強い力で握られたせいでできた青あざと、皮膚が破れ、血がにじんだ跡がくっきりと刻まれている。


「え……。あ、これは……」


「だめ! 隠さないで、わたくしによく見せて!」


 シェリルに気づかれてからは粗末な包帯を巻き、誰にも見えないよう傷を隠していたのだが、いつの間にか取れてしまっていたらしい。メルはそれを目ざとく見つけたのだ。

 とっさに傷を隠そうとするアンナを制しながらも、メルは心配そうな顔でそっと両腕を差しのべ、両手で包み込むように、アンナの右手首に触れてくる。


「ひどい……。痛かったでしょう? ずっと痛みに耐えていたんですね、アンナさん……」


 メルはそんなふうにうめきながら、文字どおり腫れものを触るような手つきで、そっと青あざをさすった。

 激痛ではなかったが、包帯を巻いても傷は痛み続け、右手首に力を入れられず困っていたアンナであったが、メルに触られていると不思議なことに、痛みがどんどん治まっていくような感じがする。


 そんな感覚にいつしか恍惚としていたアンナだったが、一方でメルは顎に手を当て、難しい顔で呟く。


「でも、このままでは……。傷が膿んで、もっと悪くなってしまいますね」


「傷が、膿む……? それって、どうなるんですか……?」


「膿むのは最悪の場合、ですわ。傷口から悪い空気が入ると、身体から汚れた液がにじみ出てくる……。それが、膿むという現象です」


 アンナはそのとき、メルが明晰な口調で、はっきりと医学的な答えを示したことに驚いた。その無駄のない回答は、あるとき第十七区への救貧事業でやってきた、中央街区の老医師の言葉そっくりである。

 アンナが舌を巻いたのは、いくら年上だとはいえ自分とそれほど年齢の差がなく、酒場で酔っぱらっているだけのメルに、医学的な知識が備わっているからだった。


 だが、アンナが本当に驚くことになるのは、むしろこれからであった。


「……仕方が、ありませんわね」


 思った以上に深刻なアンナの傷を目にした後、黙りこくって何か思い悩んでいる様子のメルだったが、しばらくしてからぽつりとそう呟くと、アンナの手を軽く引いて、木の床に正座をさせた。

 そしてメルも同じように床に膝をつき、アンナと目線を合わせると、再び右腕の青あざと傷口を覆うように、そっと両手をかざした。


「いずれ、皆さんにもお話しするつもりでしたが……」


 メルは口元に微笑を浮かべつつ、何かが吹っ切れたような表情で、アンナの目をじっと見つめて言う。


「今から起こることは、まだ誰にも、言わないでくださいね?」


「誰にも……? お、お姉さま?」


 思わせぶりなメルの言葉。これから何が起こるというのか、不安に思ったアンナがそう聞き返そうとしたのもつかの間――。

 膝立ちで両手を患部にかざしたメルは、質問には答えずに黙って目を閉じると、まるで書物を音読するかのような慣れた口調で、ある呪文の詠唱を開始した。


「――智と霊気を司る、精霊よ」


 メルがそこまで唱えた瞬間……。

 彼女の両手の内側が、ほの明るい光を放ちはじめた。


 その光は、アンナの目にもはっきりと映った。先ほどのような、道具を使って呼び出した強烈な光ではない。心に落ち着きをもたらすような、優しさを帯びたものだった。

 薄い緑色をたたえたその光の中には、明るい黄色を帯びた燐光が、空気中を飛び交う輝く粒子のように、いくつも舞っているのが見える。


(――あ? ホタルの、光……?)


 アンナが目にしたその燐光はまるで、夜間の水辺に群がった、夏のホタルのようでもあった。

 城壁の近くで湧き出す清らかな水。その周囲を乱舞するホタルの群れに出会うたび、幼いアンナは心を躍らせたものだった。


 だが、アンナの懐古と関係なく、メルが口ずさむ呪文は流暢に進んでいく。その経過に従い、光の明度、粒子の量ともに、加速度的に増大していく。

 何もない空間から次々と現れる光の粒子は、いつしか本当にホタルの群れのように、薄暗い廊下を明るい緑色に照らすようになっていた。


「わが手を(なかだち)となし、癒やしの力を為させよ……」


 周囲を飛び交う粒子が、アンナの傷口に集まってくる。だが、不思議と痛さは感じない。むしろ、痛みがどんどん和らいでいくような気さえした。

 しだいに和らいだ顔つきになっていくアンナを見たのか、口元に満足げな笑みを浮かべたメルは、そのままの姿勢を崩すことなく、一連の呪文が終わる際、その術の名称を森羅万象に告げる動作に入る。


 魔術の完結を告げる「魔法名解放」が、メルの口からいっそう強く響く。


「――治癒の(ヒドゥン・リチュアル)秘儀(・オブ・ヒーリング)


 メルが最後に力強く、そう口ずさんだ瞬間。

 空中に舞っていた燐光が、ぴたりと動きを止めた。


 その次の刹那――。メルとアンナがいる場所に突如として、明緑色に輝く円形の輪が出現した。


 意味不明の文字や図形が、何かの規則に従って正しく並んだ円。その円が同じ場所にいくつも重なり、時間差をもって出現する。その円の背景は、異世界への扉ででもあるかのような漆黒の闇。

 メルとアンナは、輝きながら明滅する紋章の上で、さながら浮かんでいるような状態になっていた。


(き、きれい。これが、魔法、陣……)


 常識では理解しがたい現象を目の当たりにしながらも、恍惚とした顔ですべてを受け入れるアンナ。

 彼女自身、この特殊な現象が「魔法陣」と呼ばれるものであることを、心の奥底で知っていた。理由はよくわからない。だがどういうわけか、それをいぶかしむ気にはならなかった。


 その間、燐光は空中にとどまっていたが、時をおかずに再び動き始めたかと思うと、まるで排水溝に吸い込まれるかのように大挙して、右腕の傷口へと流れ込んできた。

 その粒子は傷口そのものに緑色の光を与えつつ、裂傷はおろか青あざに至るまでみるみるうちに治していく。その不思議な現象は、負傷した箇所の時間を、傷を負う以前まで巻き戻しているかのように見えた。


「……さあ、アンナさん。終わりましたわ。傷口をごらんなさい?」


 ふう、とひと息をついたメルは薄赤色の髪をかき上げながら、今しがた一仕事終えたようなすがすがしい顔つきで、傷口を見るようアンナに声をかけてきた。


「えっ……あっ……?」


 魔法陣と燐光に目を奪われていたアンナは、いきなり問われてわれに返ると、慌てて手首を見た。


 驚くことに、醜く変色していたはずの手首がすっかり治癒しているではないか。最初から傷など負っていなかったかのような、美しい手首がそこにあった。

 そして、文字や図形をちりばめた輝く円形の紋章も、すでに跡形もなく、廊下から消え去っていた。


「す、すごい……。本当に治ってる……」


 アンナ思わず感嘆の声を上げたが、そのとき一緒に目に入ったのは、額にわずかな汗を浮かべ、若干荒くなった息を整えているメルの姿だった。

 光の粒子がなごり惜しげにまとわりつく右手を差し上げたメルは、徐々に輝きを失っていく手のひらをアンナに示しながら、優しげに目を細めた。


「……今のが、街の皆さんが恐れている、脅威そのものの姿です」


 そう前置きをしてから、儚げな笑みをそっと口元に浮かべたメルは、怪訝そうな表情のままでいるアンナに向け、言葉を選びながらゆっくりと語った。

 謎かけのようなメルの言葉に、最初はきょとんとした表情を示したアンナだったが、脅威というくだりに、心当たりがあった。


「え……。じゃ、じゃあ、今のが『魔術』なんですか……?」


 直感的に心の中に浮かんだ「魔術」という単語を、おっかなびっくり口に出したアンナの顔を見ながら、メルは微笑みを浮かべて小さくうなずいた。


 魔術師ではないかと疑われるほど、アンナはこうした超自然的な現象を見慣れていた。だから実際に「本物の魔術」というものに直面して初めて、類似するみずからの能力を実感できたのだった。

 そんなアンナの表情を見て、優しげにくすりと笑みを浮かべたメルだったが、疲労のせいか少し大儀そうにしながら、重ねて口を開いた。


「いいですか、アンナさん――。わたくしが魔術を操ることは、まだ、街の皆さんには秘密ですわよ?」


「は、はいっ……」


 ひしひしと住民の中に広がりつつある「魔術」への恐怖。パニックに陥った住民たちが自分に向けた、恐れに満ちた視線を思い返しながら、アンナは神妙な顔つきでこくりとうなずいた。

 メルはその仕草を見て笑顔になり、その勢いで傷がすっかり癒えたアンナの右腕を取ると、両手でしっかりと握りしめた。


「身体に魔力を宿した者どうしは、本来ならこうしてふれ合うこともできないのですよ……。あなたに差し上げた、そのブローチが守っていてくれるのです」


「ブローチが、守る……? じゃあ、ブローチなしで私たちが接触すると、どうなってしまうのですか?」


 自分の胸につけられた金色のブローチを優しくもてあそびながら、アンナが恐る恐る尋ねると、メルはふいに視線を外し、大広間へと繋がるはしご段の方を見てから目を伏せ、重々しく口を開いた。


「魔力を持つ者が、同じく魔力を持つ者に触れると、魔力と一緒に思念、意識、記憶――そんなものが、奔流のように高い方から低い方へと流れていきます……。そして、両者の魔力に差があればあるほど、弱い者にかかる負担は大きくなるのです」


「魔力が、奔流のように……? それは、どういう……?」


「先ほど大広間でわたくしに触れたおばあさんが、その瞬間に苦しみだして倒れられたところを、アンナさんもご覧になったでしょう?」


「あ……」


 その言葉を聞いた途端、そのときのことを瞬時に思い出したアンナは絶句した。


 あの瞬間、とっさにエレナ(ばば)を抱き起こそうとした自分。それを強い言葉で制止したメル。

 そのときはお姉さまの叫び声に驚愕し、ひるんだアンナだったが、今ならその意味がわかる。もし自分の手がエレナ婆に触れていたら、どうなっていたことか……。


「魔力が大きい場合、ただ触れるだけでなく、物を介する形でも思念は伝わるといいます。アンナさんも、持ち物には気をつけた方がいいですわね」


「持ち物……」


 持ち物と言われたアンナは、とっさにポケットの中をまさぐった。そこには、東の共和国から来たという商人に分けてもらった、植物から作られたという珍しい紙が入っているはずだった。


(あれ……? いつも火付けに使っている紙が、ないわ……?)


 だが、ポケットのどこを探しても紙が手に触れない。反対側のポケットにも見つからない。

 どこかに落としたのかもしれない――。後で厨房まで探しに行こうと、アンナが思ったときだった。


「アンナさんの魔力は、相当強いのです。わたくしも先日、アンナさんが火をおこそうとしたとき、近くにいただけで圧力を感じたくらいですから……」


 そんなメルの言葉に対し、自責の念にかられてうつむいたアンナ。物知りなメルに聞いてみたいことがどんどん出てくるが、今なら不思議と、勇気を出さなくてもメルに対する疑問を口にすることができるような気がした。


「あの、メルお姉さま……。エレナのお(ばば)さんがそういう人だって、どうやって気がついたんですか? 確かあのとき、腕輪がどうとかって」


「あら……。わたくし、また思ったことを口に出していましたの。悪い癖ですわ」


 アンナに尋ねられて当時を思い出し、背を向けて恥ずかしげに天井を見上げたメルだったが、すぐに振り返ると、胸の前で手を組み、おずおずと見上げてくるアンナの顔を見て優しげに微笑んだ。


「そう。魔力をその身に宿す者は誰でも、『魔石』がついた腕輪を生涯身につけることを義務づけられるのです。つまりあの腕輪は、魔術能力者スキエンティア・マギカであることの証しなのです」


「す、すきえん、てぃあ……? な、なんですか? それは……?」


 またしてもメルの口から飛び出した、聞いたことのない用語――。勉強が嫌いなアンナは率直に嫌そうな表情をしたが、メルは微笑みながら、今度はすぐにその意味を教えてくれた。


「わたくしを含めて、生まれつき、魔術を使える素質を持った人——。でも、魔術が禁じられている今、生まれたときの検査でそれがわかると、腕輪を強制され、一生、監視される……。そんな運命にある人たちのことです」


「監視……。ど、どうして、監視なんて」


「かつて、権力者たちに操られた魔術師たちが、この世を何度も滅ぼしかけたから……ですわ」


 魔術師であるみずからの立場を自嘲するかのような顔で、メルが静かな口調で言う。利用されたに過ぎないのに悪者のレッテルを貼られた罪のない魔術師たちを、心の中で悼んでいるのかもしれない。

 それを聞くアンナの脳裏には、夢で何度も見た暗い森と、姿を見せずにひたすら詫びる中年男性の声がはっきりとよみがえっていた。過去、『煉獄の王』ドミヌス・プルガトリイと呼ばれたあの声の主もきっと、そうした不幸な魔術師のひとりだったのだろう。今はそう思える。


 神妙な面持ちで目を伏せるアンナ。涙ぐんだその両目に、メルの細い両手首が映った。

 特に何かのきっかけがあったわけでもない。だがアンナは真摯な目で、メルの目を見返して尋ねた。


「でも、お姉さまも私も……。どうして、腕輪をしていないのですか……?」


 その問いに接し、少し驚いた表情になったメル。でもよく気づいたという褒め言葉の代わりに、アンナの頭をそっと撫でた。

 だがそれに対する回答は、やはり謎めいたものだった。


「わたくしに関しては、いろいろとありまして……。いわゆる『もぐり』なんですの」

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