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城壁都市リーヴェンス攻防記 ~新編・破壊の天使~  作者: 南風禽種
第6話 禁忌の秘法「魔術」の深淵
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6-2 長老からの懇願

二 長老からの懇願


 食糧の配給が始まってから、しばらく経過した頃。

 酒場の玄関の大扉がきしんだかと思うと、外側から押し開けられた。


 夕方の暮れ残りはすっかり過ぎ去り、外は月明かりだけの世界になっている。玄関をくぐって入ってきたふたりの小柄な人物が、シルエットのごとくかすかに浮かび上がった。

 玄関に現れたふたりのうちひとりは、工具箱と小さな金属製のはしごを担ぎ、もうひとりは植物のつるを編んだカゴを持っている。


「ふう、ようやく終わったのう。弁当うまかったぞ、エレナ(ばば)よ」


 相手に感謝を述べながら、肩に担いだはしごを床に降ろしたのは、ピオ爺という小柄な老人。みごとに禿げあがった頭に真っ白の髭。まさに、「街の長老」そのものという風体である。

 それに対し、カゴを置いて腰を叩いた老婆は、即座に口をとがらせた。


「うまかったではない。まったく、いつ帝国が攻めてくるかわからんときに、鎧戸の修理をするから弁当を持ってこいなどと……。おぬしもいい歳なんじゃぞ、ピオ爺。少しは老体をいたわったらどうじゃ」


 エレナと呼ばれた老婆はそう言って唇をゆがめたが、腰が曲がっているものの勢いは今なお衰えず、矍鑠(かくしゃく)としている。

 避難民たちが身を寄せ合って怯えているとき、ふたりは壊れかかった鎧戸の修理をするため、外に出ていたのである。


「ははは、まあそう言うな。ほれこうして、自分でこさえた短剣を持っておる。この老体でも、(ばば)を守るくらいはできるわい」


 小柄ながらもでっぷりと肥えた老人は、ところどころ焦げ跡が残る木綿の作業着から、鞘に収まったままの短剣を取り出した。革製の鞘は粗末なものだが、短剣の握りは焼いた木材と目釘を用い、しっかりと補強された逸品である。

 それはまさしく、彼が鍛えたものに違いない。この老人は街に数多くいる鍛冶屋の、元締めなのであった。


「そして悪いがのう、わしの名前はピウスじゃ。若い者にもそう呼ばせておる。はっはっは」


 そう豪快に笑う鍛冶屋のピウスには、多くの弟子がいる。もうすっかり隠居の身分だが、名前を略して呼ばれることは何より嫌う。エレナという老婆はそれを聞いて、深いため息をついた。


 見た目は老鍛冶師ピウスの方が長老っぽいが、実際のところ街の長老は、年上であるエレナ婆の方である。彼女はすっかり腰が曲がっていて、歩くためには杖が手放せない。

 エレナ婆が老鍛冶師ピウスよりもどのくらい年長なのか。時たま噂にのぼるものの、本人が語りたがらないので、詳しい年齢は不明である。


「――おや、あれは。本屋のところのアンナじゃないのかね?」


 杖をつき、歩き出そうとしたエレナ婆は、少し先の壁際で、パンとワインが入ったカゴを持ったまま、所在なげに立っているアンナの姿を見つけた。

 引っ込み思案で人の輪に入っていけない性格のアンナは、多くの女性や子どもたちに囲まれているメルを見つけたものの、近くまで行く勇気がなく、おろおろと立ち往生しているのだった。


「どうした、アンナ。何をしておるのじゃ」


 杖をついたエレナ婆はゆっくり近づくと、うろつくアンナの後ろから、おもむろに話しかけた。

 それに気づいたアンナはすぐさま振り向き、反射的にぺこりとお辞儀をした。誰に話しかけられても礼を失しないようにとの、両親の教えであった。


「エレナのお(ばば)さんと、鍛冶屋のピオ爺さん……。こ、こんばんは」


 幼い頃から面倒を見てくれたエレナ婆とピオ爺が揃っている。それを見て少し気持ちが和らいだのか、固かったアンナの表情が少しゆるんだ。

 その微笑を目にしたピウスが、白い髭をしごきながら、アンナの顔をのぞき込んでくる。


「ピオ爺さんではない、ピウスじゃ。うろうろしとるが、アンナよ、誰かを探しておるのか?」


「あ、あはは、ピウスさん……。あの、メルお姉さまに、パンとワインをお届けに来たんですけど……周りに人が多くて……ちょっと」


 そう言い、ちらちらとメルの方を盗み見ながら、もごもごと口ごもりつつ自分の目的を告白するアンナ。彼女は引っ込み思案のせいで、人の輪に入っていけないのである。

 幼い頃から性格がちっとも変わっていないアンナを前に、ピウスとエレナ婆は顔を見合わせた。


「なんじゃ、おぬしは小さい頃と少しも変わっとらんのう。まあ、仕方がないか」


 引っ込み思案なアンナの性格を昔から熟知しているエレナ婆は、フンと鼻息を吐き出すと、「ごめんよ」のひと言もなく、人の輪をかき分けてずかずかと入り込んでいく。

 突如として現れたのがエレナ婆だとわかると、女たちは黙って身をかわす。街を代表する長老でもあるエレナ婆は、畏敬すべき存在なのだった。


「メルとは……おお、いつぞやのヒラヒラな娘っ子じゃな。よし、待っておれ」


 エレナ婆も昔は肝っ玉母さんで通っており、ちょうどアンナの母テレサのような存在だったという。だがその傍若無人さは年齢を重ねても変わることがなく、見ているアンナの方がはらはらするほどである。

 アンナとピオ爺が遠くから見ているうちに、杖をついたエレナ婆は、メルを取り囲んでいる人垣まであっという間に到達してしまった。


「――おい。そこに、メルという娘っ子はおるか?」


 多くの子どもたちに囲まれたまま、依然としてあれこれと質問攻めに遭っていたメルだったが、エレナ婆に呼ばれたことに気づくと、話していた少女に「ごめんね」と言い、すぐにエレナ婆の方に身体を向けた。


「はい、わたくしですが……。あっ、薬局のおばあさん。こんばんは」


 メルとエレナ婆はすでに、顔見知りである。にっこりと応対するメルに対し、エレナ婆は右手を挙げて挨拶の返礼をすると、振り向きざまにアンナを手招きをする。

 呼ばれたまま慌てて人垣を越えようとするアンナを尻目に、エレナ婆は「よいしょ」と言いながら、メルの前で慎重に腰を下ろした。


「もう五日くらいも前になるかのう。おぬしがわしの店を訪れて『ワインは売られているか』と来たときは驚いたぞ。薬局にワインがあるわけがなかろうと、追い返したものじゃわい」


「おばあさんたら、その話はもう……。公都では、薬局で売られていましたので……」


「リーナスではそうじゃったかもしれんが、あれはあくまで酒じゃ。酒は、酒場で飲むもんじゃ」


 まるで相手の言葉を聞き入れないエレナ婆の問答にやられ、さすがのメルも押されぎみになる。二人のもとにアンナとピウスが到着したのは、メルがそんな状況に陥った直後のことだった。

 アンナがワインの瓶をたずさえていることを目ざとく見つけていたのだろう。ピウスは、いつの間にか木製のコップを二つぶら下げている。ご相伴にあずかる気なのだろう。


 アンナはメルの前でスカートをつまみ、その姿勢のままぺたんと腰を下ろすと、すぐさま頭を下げた。


「あ、あの、メル、お姉さま……。さっきは、あ、ありがとう、ございまし、た……」


 引っ込み思案なアンナが、鼻筋の通った美しい顔を真っ赤にして、必死に礼を言っている。それを目の当たりにしたメルは、にこやかな顔でそれを受けた。


「…………」


 しかし笑顔のメルは心の中で、アンナを熱烈に抱きしめてしまいたい衝動と、必死に戦っていた。

 それもそのはず。メルはイズキールとともにアンナの実家である書店「書肆ボヴァリー」に居候をし、アンナと同じ部屋で起居している。メルは居候の身分でありながら、アンナにとっては姉貴分なのであった。


「え、ええ……。どういたしまして。お怪我はなかったかしら?」


 微笑しつつそう言うメルの頭は、会話をするたびに、アンナのこと可愛くてたまらない。本当の妹にできるものなら、してしまいたいという衝動にかられる。

 だがそうとは知らないピウスは、アンナが恥ずかしがりながらもきちんと礼を言ったのをニコニコ顔で見届けると、それを契機にワインの瓶とパンが入ったカゴとコップを、ぐいっとメルの前に突き出した。


「さあ、アンナの胸のつかえも、これで降りたろう。おぬしらもそろそろ、食事にしたらええ」


 そう言いながらもピウスは勝手にワインの栓を開け、手に持った木のコップになみなみと注ぎはじめている。それを唖然としながら見るメルとアンナを前にして、構わずぐいぐい飲み始めてしまった。

 だがエレナ婆の方はそんなピウスにすっかり慣れているらしく、出来の悪い弟を見るような目で深くため息をついた。


「まったくおぬしは、若いモンの前で何をしとるんじゃ……。わしはいい。配給された自分のパンをもらいに行くぞい」


 そう言ってエレナ婆は立ち上がろうとしたが、さすがに杖だけでは無理であった。

 そこでエレナ婆は、隣に座っていたメルの肩を借りようと、無断で彼女の肩に手をかけた。


 その瞬間――予想もしないことが起こった。


「――ぬぅッ?」


 いきなりうめき声を上げ、雷に打たれたように全身を硬直させるエレナ婆。

 メルの身体に触れた瞬間、得体の知れない大きな何かが、奔流のようになって流れ込み、エレナ婆の老体を一瞬で満たしたのである。

 それはまさに、見えない何らかの「力」が急激に流れ込んだ、とでも形容すべきものだった。


 ふっと気が遠くなったエレナ婆は、メルの肩から手を離すと、その場で倒れ込んでしまった。彼女の老体は、とてもこの力の奔流に耐えきれなかったのである。


「お、おばあさんっ? どうかしま――」


 背後でいきなり倒れ込んだエレナ婆を目撃し、仰天したメルは、すかさず床にひざまずいて彼女を抱き起こそうとしたが、その身体に触れる寸前で何かに気がつき、ぴたりと停止したまま表情を凍らせた。


「そ、その腕輪は、まさか……」


 エレナ婆の右手首には、かなり古くなって色あせているものの、緑色の「魔石」がはめ込まれた金属製の腕輪が、今もしっかりと巻かれていたのである。

 メルが動きを止め、思わず絶句したのは、その腕輪を目にしたからだった。


「お(ばば)さん! しっかり!」


 そうとは知らないアンナは、凍りついたメルに代わって後ろから飛び出し、うずくまったエレナ婆の身体を抱き起こそうとした。

 だが、アンナのその行動に気づいたメルは、とっさにその身を乗り出して、アンナがエレナ婆を抱き起こす寸前でさえぎった。


「だめ! アンナさんはまだ……このおばあさんに触れてはいけません!」


「えっ……?」


 見たこともない形相のメルが慌ててその行動をさえぎり、叱りつけるような強い口調で叫んだので、驚いたアンナは伸ばそうとしていた手を反射的に引っ込めた。


 その動作を確認したメルは、叱られた子どものような目でこちらを見つめてくるアンナの瞳を、一転して優しく微笑みながら見返した。

 その刹那、「ごめんね」と優しげに目を細めたメルの紫水晶のような瞳と、火山湖のように深い青緑色をしたアンナの瞳とが、一瞬で交錯する。


「――ピウスおじいさん、エレナおばあさんを静かに、楽な姿勢にしてもらえませんか?」


「うん? ああ……。こんな感じでいいかのう?」


 いきなり倒れ込んだエレナ婆と、彼女を慎重に抱き起こすピウスとを取り囲み、近くの女たちがどうなることかと寄り集まり、ふっとひと息をついたメルの一挙手一投足を見つめてくる。

 メルは周囲からの刺すような視線と、かたわらでおろおろとするアンナの焦燥感とを身に感じながら、首から鎖で下げたペンダントをワンピースの中から引っぱり出すと同時に、ポケットから手のひら大の、円形のブローチを取り出した。


 そして、そのペンダントとブローチを、胸の前でしっかりと両手に握ったメルは目を閉じると、何者かに対する命令文を口にしはじめた。


『いと高き(エンブレム・)龍王の(ドラコニス・)紋章』(レーゲム)よ。目覚めなさい」


 清らかな、唄うような声でメルがそう命令した瞬間、両手で包むように握っていたペンダントとブローチがふたつ同時に、緑色の光を発しはじめた。

 その緑色の光は、命令の詠唱が終わってもますます強さを増していき、握ったメルの手をも透き通らせるほどの、激しい輝きへと成長していく。


「これって……やっぱり魔術……?」

「だって、さっき、魔術師じゃないって、この子が……」


 横たわるエレナ婆の正面に座り、緑色の光を彼女に浴びせ続けるメルに対し、遠巻きから取り囲んだ婦人たちがひそひそ話を始める。アンナはそれを耳にすると、先ほど自分がさらされた状況を思い出したのか、思わず顔を曇らせた。

 一方、メルは外野から何を言われても目を閉じたまま、淡々と術の実行を続けていたが、やがて目を開けると、そうしたひそひそ話に対し、顔を向けることなくひと言だけ回答した。


「これは……。魔術ではありません。『魔導具』(アーティファクト)と呼ばれる、古来より伝わる神秘の道具によるものです。あなた方にでも、扱えるものですわ」


 その声を受け、疑った気まずさで言葉に詰まる婦人たちを眺めてから、メルは握っていた両手を開き、まだ依然として緑色の光を発し続けている円形のブローチの方を、祈るような表情で見つめてくるアンナの方に差し出した。


「アンナさん、これはあなたに差し上げましょう。それを身につけて、改めておばあさんの手を取ってあげてください」


 微笑みを浮かべ、上品な口ぶりで勧めてくるメル。神秘的な緑色の光が、メルの優美な顔と丸いメガネ、そして薄赤色の髪を無機質な色に染めていく。

 だがメルにそう言われても、先ほどその行動を強く制止されたばかりのアンナは、手をこまねいてもじもじしながら、困惑した目でブローチを見つめるばかり。


「で、でも……。さっき、だめだって……」


「ごめんなさい。でももう大丈夫。『いと高き(エンブレム・)龍王の(ドラコニス・)紋章』(レーゲム)が、あなたとおばあさんを、守ってくれていますから」


「……は、はい」


 にっこり笑顔でそう諭されては、拒否するわけにはいかない。アンナはおっかなびっくり、おそるおそる手を伸ばすと、メルが差し出した緑色のブローチを受け取った。


「……きゃっ!」


 そして、ブローチが発していた淡い光が急速に強くなったのは、アンナがそれを受け取ったのとほぼ同時だった。


 ブローチから出ていた緑色の光が、アンナが両手に取った途端、一気に膨れあがったかと思うと、壁や天井を緑色に染め上げるほどの強烈な光へと急に変化したのである。

 その光は周囲を明るく照らし出すだけでなく、白い帯のような光の束を舞わせている。それはおそらく、何らかの霊的な力が固形化したものなのだろう。


「こ、この光は……ッ?」


 目の前で強烈な光を浴びたアンナは眩惑され、思わずぎゅっと目を閉じた。それでも緑色の光は収まらず、どんどん増幅していく。突然現れた閃光に、周囲の大人たちもざわつき始める。

 だがそこへ、暴走するブローチをたしなめるようなメルの詠唱が、再び、唄うような調べで聞こえてきた。


「静まれ、『いと高き(エンブレム・)龍王の(ドラコニス・)紋章』(レーゲム)よ。内に秘めたる魔力を捉えよ。そして汝のうちに抑え、記憶にとどめよ」


 その詠唱が終わるのと同時に、ブローチから発せられていた緑色の光が、まるで燃えさかる火が吹き消されるかのように一瞬で消失した。ひらひらと舞っていた光の帯もろとも、である。

 そしてアンナの手に残ったのは、緑色ではなく暗い金色の装飾が施された、古びた丸いブローチだった。


「……さあ、アンナさん。目を開けて。そして、おばあさんの手を握ってあげて?」


 詠唱を終えたメルは、額に少し汗をにじませながらそう言い、アンナの両肩を後ろから優しく掴む。お姉さまから優しく励まされたアンナは、目を開けてこくりとうなずくと、ピウスに抱き起こされたエレナ婆の右手を、両手でそっと握った。

 それとほぼ同時に、昏睡していたはずのエレナ婆がゆっくりと目を開け、アンナの顔を見つめてきた。


「……アンナ、かい?」


「はいっ、エレナのお(ばば)さん! アンナです!」


 憔悴しきってはいるが、はっきりと名を呼ぶエレナ婆の声を耳にしたアンナは、涙声で返事をすると同時に、エレナ婆の老いた身体を抱きしめていた。

 孫ほども歳が離れたアンナに抱きしめられ、満足げにその背中を優しく叩いていたエレナ婆だったが、ふとメルの方に視線を向けると、何を思ったのか笑みを浮かべる。


「……メル、と言ったかの。一瞬じゃったが、おぬしの深淵を少し、覗かせてもらったわい」


 やがてエレナ婆の口から発せられたのは、意味ありげな謎めいた言葉。それを受けたメルはその意味するところを理解したのか、真顔に戻り、無言でうなずく。

 それを見たエレナ婆は、意味ありげにニヤリと頬を緩めると、「よっこいしょ」と掛け声を上げながらゆっくりと立ち上がった。


「おい、婆よ。いきなり立って大丈夫なのか?」


 ついさっきまで昏睡していたエレナ婆がいきなり立ち上がったので、付き添っていたピウスが驚きつつ、心配そうな声を上げた。

 だが、当のエレナ婆はまったく意に介さないどころか、鼻息を噴き出しながら言う。


「ほれ。この通りピンピンしとるわ。おまけにこの娘から、少し分けてもろうたくらいじゃ」


「少し、分けてもろうたじゃと?」


「……フン。こちらのことじゃ。気にせんでええ」


 失言を鼻息とともに吹き飛ばしたエレナ婆は、ひざまずいてアンナの肩を抱いているメルの方を見下ろすと、何を思ったか、しばらく彼女の瞳をじっと見つめてきた。

 その目は何かを問いかけようとしているのか、何かを疑っているのか、判然としない。メルとともにその目を見つめ返したアンナは、思わず固唾を呑む。


「メルよ、おぬしが抱える事情は、わしにはわからんが……」


 やがて口を開いたエレナ婆は、威厳に満ちた表情を崩すことなく、メルに対してそんな言葉を投げかけてきた。思わず居ずまいを正したメルは、次の言葉を待ってエレナ婆の顔を見つめる。


「ただの旅人でしかないおぬしに、こんな願いをするのは筋違いかもしれんが――わしはおぬしと、魔術の力を信じよう。長老として頼む。この街のことを、任せてもいいじゃろうか?」


 謎めいた問答と時ならぬ懇願に、事情を知らないアンナやピウスらは首をかしげるばかり。

 しかし、メルにはエレナ婆の言わんとしていることが理解できたのか、しがらく考えていたが、ひざまずいた姿勢のまま、無言でこくりとうなずいた。


「もとより、そのつもりです。でも、わたくしでいいのでしょうか……? おばあさん」


「フン、この街を救うためには、おぬしの力が必要だと思うたまでじゃ。では、わしは行くぞ」


 言うことは言ったとでもいうのか、メルにそう依頼したエレナ婆は、杖をつきながら「ごめんよ」のひと言もなく、座った人垣をずかずかと押し渡っていく。その背を見送りながら、メル、アンナ、ピウスは、苦笑いをするしかなかった。


 その後、緑色の強烈な光が消え、静けさを取り戻した大広間は、元のように床に座り込む者、寝そべる者、雑談をする者など、避難民が思い思いに時を過ごす空間へと返っていく。

 だが、あいかわらず活気はない。いつ帝国軍が攻め込んでくるのか、魔術は本当に使われるのか、情報がまったくないからである。恐怖のあまり言葉が少なくなるのも無理はない。


 それをしばらく眺めていた三人だったが、その中でメルがまず、おもむろに口を開いた。


「――わたくし、決めました。この街に来たのも、アンナさんと知り合ったのも、何かの縁……かもしれません」


 街の長老であるエレナ婆の懇願を受けたメルは、その言葉に深く期するところがあったのだろう。真顔に戻った彼女の瞳は、床に座り込んだ姿勢で自分に身を任せるアンナの顔に向けられた。

 その瞳に宿った光は、奥に燐光のようなゆらめきを明滅させながらも、強い意志の色を放っている。


「アンナさん。二階の部屋に行きましょう。そこにはもうあなたのお父さんと、イズキール様が行っているはずです」


「に、二階……? 私も……?」


 不安そうな顔つきで聞き返すアンナを見て、安心させようとするかのように笑顔になったメルは、近くに控えたピウスの方を見た。

 いよいよ来るべき時がきたのかという緊張した面持ちで見返してくるピウスに、メルは微笑を含んだ表情で、ひと言だけ依頼した。


「……ピウスおじいさん。座長さんたちや若い衆と一緒に、二階の客室においでいただけませんか」


「む。承知した。集めるから、先に行って待っておれ」


 その理由を聞き返すことなく、依頼を受けたピウスはそれだけ言うと腰を上げ、勇んだ足取りでカウンターの方へと向かっていった。

 それを見て自分も立ち上がったメルは、座り込んだままのアンナを立たせようと、右手を差し出す。


「さあ。行きましょう、アンナさん。いえ、二百五十年ぶりの『認められた者』(スペクターレ)……」

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