5-4 邂逅、あるいは戦場の約束
四 邂逅、あるいは戦場の約束
月明かりと戦火に照らされた曲がり角。ここを左に曲がると、大通りまであと一歩である。
ぬかるんだ路面を避け、乾いた場所を選んで跳ぶように走るキリエ。
月明かりがなく、まっくら闇でも、キリエにとっては問題ない。大通り付近の歩き方は、全部頭に入っているのである。
「ちくしょう。あの野郎はいったい、どこまで行きやがった……?」
この場所は、大通りに面した鎖工房の裏になる。街区の出入り口は目と鼻の先だが、ここまで来ても、若い商人の姿はおろか、気配すら感じられなかった。
キリエは業火に染まった夜空に透かし、左右を見回すが、彼女の眼をもってしても、動くものの影すら捉えることはできなかった。
「ここは……。鎖屋の裏か」
キリエは石の壁に手をつき、ひと息入れながら呟いた。壁の冷たさが手に伝わってくる。
貧しいこの街には珍しく、鎖工房の外壁は石造りになっている。キリエが身を隠し、大通りの様子をうかがうには十分であった。古くからあるこの鎖工房には多くの職人がいて、いつでも活気があった。
戦争が近づくと注文が多くなるのか、鎖かたびらの材料を作る工房は大忙しであった。夜遅くなっても、明かりが灯っていることが多い。だが今夜ばかりは、職人たちが酒場に避難してしまったため、真っ暗で人っ子ひとり見えなかった。
若い商人の気配は、いくら神経を研ぎすませてみても、微塵も感じられない。どうやら完全に見失ってしまったらしい。
ところが、キリエの表情には焦りの色がない。そればかりか、ニヤリと唇に笑みを浮かべた。
「……まあ、いいさ。ここで見失ったってことは、あいつを待っている奴がすぐそこにいるっていう、証拠なんだからな」
石の壁に手を当てながら、壁づたいに大通りへと進むキリエ。中央街区の方から響く破壊音や怒号が、潮風に乗ってここまで届いてきた。
裏路地から見える夜空は、ほんの一部。今夜はふたつの月が並んで輝く、特別な夜だ。
いつもの倍ほども明るいはずの夜空。それなのに、燃える街の業火に照らされて、空の西半分が赤黒く染められている。
(…………)
キリエはその空を見つめ、奥歯を噛みしめながら、帝国軍の侵略によって蹂躙され、消えていった多くのものを、走馬灯のように思い浮かべていた。
中央街区で羽振りをきかせていた大商人と、その家族たちの絢爛な姿。
南北を貫く大通りに並ぶ商店の前で、活発に客寄せをしていた見習いの奉公人たち。
日曜日でもないのに市庁舎奥の聖堂へ毎日足を運んでいた、敬虔な一神教徒の高齢者たち。
路傍に立ち並ぶ、精巧な彫刻が施された青銅製の街灯。夏に木陰を作ってくれた街路樹。
高さが制限されながらも白亜の偉容を誇って立ち並んだ、大商人たちの邸宅や役人の住居。
その高さにおいては街で双璧だったという、市庁舎の高い尖塔と、聖堂の巨大な鐘楼。
「――ちくしょう」
胸をかきむしりたいほどの、激しい喪失感が襲ってくる。キリエの目尻に、涙が浮かんだ。
中央街区の人々は、誰もが裕福だったわけではない。住民たちは貧民街出身のキリエにも分け隔てなく接してくれたし、家が金持ちだという若い男たちは、颯爽とした彼女を慕ってくれた。
裏通りで遊び回っていた子どもたち、その姿を長椅子に座って見る老人たち。そこら中で円陣を作り、立ち話を楽しんでいた主婦たちも……。
「なんで……。どうしてなんだよ……。なんで、あんな人たちまで……」
キリエは壁際をとぼとぼと歩きながら、裏路地からの狭い夜空を見つめ、袖で涙をぬぐった。
そして、胸の奥からふつふつと沸きあがってくる帝国への敵意に、歯を食いしばりながら耐えた。
「……絶対に、許さねえ。帝国の奴らは、ひとり残らず殺してやる」
首を振って涙を振り払い、帝国軍そのものへの殺意を胸に宿したキリエは、再びキッと前を向くと、鎖工房の大きな建物から見える、第十七区への入り口に目を向けた。
帝国軍からの中継役は、街区の入り口であるこの付近で待っているだろう。もうすでに、若い商人との合流を果たしているかもしれない。キリエは自分の腰から、鋼鉄製のナイフを取り出した。
鋭利に研ぎすませたナイフの刃が、かすかな月明かりに照らされて青白く光る。
ナイフの尖端にも劣らないほど鋭く細い目つきで、その玲瓏たる金属の輝きを見つめるキリエ。
「まずは……。こいつらから先に、血祭りにあげてやる」
もはや帝国人への殺意しか頭にないキリエは、身を低くしてナイフを逆手に持ち替え、街区の入り口に積み上げてある木箱や木材、石材などの山に身を隠そうと、すり足で慎重に進む。背中にくくりつけた大きな弓は目立つため、外してその場に置いた。
五、六人程度なら、背後から忍び寄ることで一瞬のうちに仕留められる。キリエはおのれの戦闘能力に、絶対の自信を持っていた。
――だが、石材の山まで来たとき。キリエの足がぴたりと止まった。
身体が硬直するほどに大きな、気配の塊がある。資材の山の先に、それが集まっているらしい。
猫のように全身の体毛を逆立てたキリエは、資材の山に身を隠してわずかに進むと、そこから顔を出し、この先にある気配の塊をそっとのぞき込んだ。
(こいつは……。五人や六人どころじゃねえ!)
キリエの目に飛び込んできたのは、彼女が当初考えていたような、少人数の斥候部隊などではない。
武装はまちまちだが整然と並び、上官の指示を黙って待ち受けている、数多くの男たち。総勢およそ五十名ほどの部隊であった。
腕や首などに赤いひもを巻きつけた男を先頭に、七、八人ほどの単位で整然と並ぶ男たち。戦場での機動性を高めようと、班分けがされているのだろう。
その向こうには、馬の手綱を引いた男が三人立っていて、何かを協議している。その傍らに数人のみすぼらしい男が控えているが、馬丁なのかもしれない。
馬の脚には消音のための革袋が装着されていて、これが隠密行動であることを、暗に示していた。
(バカか、アタシは……! 勝手に相手の戦力を決めつけて、おまけにのこのこ近づいて……!)
資材の陰から部隊の全貌を確認したキリエは、なおも彼らから視線を外すことなく、手に汗を握りながら、みずからの浅薄さを呪った。
第十七区のような貧民街へ、帝国が兵を向けるのは早くても明日からだろう……。街の誰もがそう思っていたし、キリエもそう思い込んでいた。そんな自分が恥ずかしくなった。
敵の部隊が、思ったより近くに来ている――。このことを早く、ベンに知らせなければならない。
だが、狩人としての原野での経験を思い出したキリエは、逸る心を抑えながらも、帝国の部隊を違った視点から観察して、さらなる情報収集に徹することにした。
(こいつらは、帝国の正規兵じゃねえな。アタシが城壁で戦った奴らとは服装が違う……。傭兵か?)
これまでは「王の配下である、貴族の私兵」の集まりでしかなかった国軍が、徐々に正規軍として改められていく時代。各国の中でも軍事国家である帝国は、もっとも正規軍への再編率が高かった。
それでも、傭兵の雇用が止まることはない。着の身着のままで「食うために戦う」兵士たちが完全に姿を消すのは、さらに百五十年以上も後になってからである。
この集団が傭兵部隊であることを突き止めたキリエが、その編成の特徴を探るため、さらに目をこらそうとしたとき、三人いた首脳部のうちの一人が、馬の手綱を隣の男に預けるやいなや、こちらに向かって歩いてきた。
「あ、ヤバ……!」
この状況を見たキリエは思わず声が出そうになり、口を押さえながら、すかさず物陰に頭を引っ込めた。
だが幸いにも気づかれなかったらしく、戦場を駆ける傭兵とは思えないほどに肥え太ったその男は、キリエが隠れている場所の前にやってきておもむろに背を向けると、傭兵たちすべてを見渡した。
「聞け、『ヒューリアック解放戦線』よ。これからの方針について、オレから話がある」
腰の後ろに手を回し、抑え気味の声でそう前置きする男。この太った中年男が、居並んだ傭兵部隊の指揮官らしい。
だがキリエはそのすぐ近くで、彼らの組織名を耳にした途端、声を出さないように口を押さえつつも、驚きのあまり目むき、中年男の後ろ姿を見つめた。
(ヒューリアック解放戦線だって……? じゃあこいつらが、あの有名な傭兵部隊……?)
中央街区へパンの行商をしに行くと、ときおり耳にする「ヒューリアック解放戦線」という名前。
傭兵集団といえば悪名ばかりがとどろく世の中にあって、珍しく美談や尊敬の言葉とともにささやかれる組織名であり、キリエも頭のすみで、何となく興味を持ってはいた。
その「ヒューリアック解放戦線」がいま、目の前で整列し、指揮官の命令下達に対し静かに耳をかたむけようとしている。
直立不動のまま、微動だにしない彼らの規律は、さすが話題にのぼるだけのことはある。キリエは思わず驚嘆の面持ちで、物陰からじっと彼らを見つめた。
(そうすると、ここで背を向けているオヤジがあの、「隻眼の槍使い」ニケフォルス・アイゼナー……か)
蛇の道は蛇、とはよく言ったもの。ニケフォルスの後ろ姿には寸分の隙もなく、それを見ただけで、キリエは彼の実力や気魄・練度をある程度まで推知することができた。
そして同時に、キリエは右手に握っていた鋭利なナイフを、そっと自分の腰に収めた。
「この第十七区を、どう攻略するかだが……。さっきソテリオスと話して、方針を決めた」
少しの間を置き、話を再開したニケフォルス。その声を聞いたキリエは貴重な情報が得られると判断し、身を小さく縮めて、耳に全神経を集中させ次の言葉を待つ。
「オレたちの精神には合わねえが……。焼き討ちに決まった。ソテリオスの野郎が操る、『魔導兵器』ってやつによってな」
次に飛び出したニケフォルスの言葉は、大通りに居並んだ傭兵たちではなく、盗み聞きしていたキリエをもっとも驚愕させるものだった。
(焼き討ち……! 『魔導兵器』、だって……ッ?)
このふたつの単語を耳にした途端、キリエの脳裏には、屋根の上から遠望した放火部隊の鮮やかな行動、そして久しぶりに会った弓使いシモンの言葉が同時によみがえった。
(魔導を操る兵器……。つまり、魔術師の群れってことですわ……姐さん)
シモンがあの時、重々しい口調で発したこの言葉が、身近の現実となってキリエの脳内で反響する。
燃える街並み、逃げまどう人々、赤黒く染まる夜空……。それらの光景が瞬間的に、キリエの脳裏を駆けめぐっていった。
それを知ってか知らずか、意外な命令下達を受けて顔を見合わせ、ざわつき始める傭兵たちをじろりと見渡したニケフォルスは、ゴホンとひとつ咳払いをすると、小さく短い言葉で、通達を打ち切った。
「作戦発動は、あの天煌星が中天に差しかかったときだ。それまでせいぜい、武器の準備でもしておくんだな……解散!」
キリエはすかさず、空を見上げた。この季節でもっとも明るい星である天煌星は、赤黒い炎の色にも負けず、夜空の真ん中で白い輝きを放っている。
その宝石のような輝きは、すでに中天に差しかかりつつあった。時刻にして、一時間半もない。とても避難民たちを逃がすいとまはないだろう。
(まさか……。シモンの野郎が言ってたことが、この街にまで……)
どうしようもない絶望感が、キリエの全身を襲う。もう何もかもが手遅れに近い。燃える街並みの光景が再び脳裏によみがえり、焼きついたまま離れてくれない。
思わずその場でへたり込み、傭兵部隊に背を向けて石材に寄りかかろうとしたキリエの耳に、警戒心に満ちた傭兵の声が響いてきた。
「どうしました、隊長……? 何か物音でもしましたか?」
その声に、キリエは心臓が飛び出すのではないかと思うほど、驚愕した。
(…………ッ!)
叫び出しそうになる自分を必死に抑え込んだキリエは、石材の陰に隠れようと即座に身を縮ませると同時に、腰からナイフを抜き出して逆手に構え、振り返った。
そのときキリエの目に入ってきたのは、面倒くさそうな顔つきでポリポリ後頭部を掻きながら、こちらに向かって歩いてくる、ニケフォルスの姿だった。
(ちっ……。このオヤジも相当な使い手だったはず……! アタシとしたことが……ッ!)
石材の陰に隠れ、ナイフを強く握りしめながらも、キリエはおのれの未熟と迂闊さを呪う。だが、時はもう戻ってこない。
ここから飛び出し、一戦演じたとしても、ナイフ一本ではこの男と傭兵数人に勝つことは難しいかもしれない。終わったか――と、そんな諦観が頭をよぎる。
だがそのとき。ニケフォルスは何を思ったか、大丈夫だ、心配するなとでも言いたげに、振り返りもせず後ろの傭兵に右手を振って応答した。
「あー、ションベンだ。飲み過ぎちまってな。それともお前ら、オレのイチモツと比べっこするのか?」
「い……いえ。では、ご、ごゆっくり」
涼しい顔で答えたニケフォルスに対し、傭兵たちは顔を見合わせながら、複雑そうな面持ちで仲間たちのもとへと戻っていく。
それを石材の陰から目撃したキリエは、安堵の息をついて全身の緊張をゆるめた。
だが、一難去ってまた一難。ニケフォルスの盛大な放尿音が始まったかと思うと、意外なことに彼の声が、キリエの耳に入ってきたのである。
「――そこにいるのは、わかってるんだ。オレらの布陣を、偵察にでも来たってか?」
再びドキリと、心臓を跳ね上げたキリエ。思わず驚愕の声を出しそうになったが、とっさに口を押さえ、すんでのところで叫びを止めた。
石材や木材が積み上げられた山は、ひとりの人間を覆い隠すには充分な高さがある。ニケフォルスにキリエの姿が見えているはずはない。それなのに、まるで透けて見えているかのように、ニケフォルスは話を続けてきたのだ。
「焼き討ちなんざ、オレの信条に合わねえんだがよ。司令部の命令とあっちゃあ、やらねえわけにはいかんのよ。それが雇われ軍人ってやつでな」
「…………」
「だからよ。お前は今すぐ仲間のところへ帰って、焼き討ちのことをみんなに伝えるんだ。オレだって一神教徒だ。罪のない女子供や、ジジババが焼け死ぬのを見たくはねえ」
「…………」
無言を押し通すキリエに対し、一方的に話を続けるニケフォルス。思ったことが伝わればいい、という態度なのだろう。石材の山に背を預けながら、キリエは黙々と耳をかたむけた。
そうしているうちに、飲酒のせいかやけに長かったニケフォルスの放尿が、終わりに差しかかった。
「――さあ、行けよ。いつまでもここでウロウロしてると、他の奴に見つかっちまうぜ?」
ごそごそと衣類と鎧を着け直しながら、姿が見えないキリエに対し、退去を促すニケフォルス。
どうやら彼は本当に、いつしか第十七区からの密偵となったキリエを、捕らえるつもりがないらしい。
「…………」
その言葉を受けて右手に握っていたナイフを収めたキリエが、無言のまま腰を浮かしかけたとき。
放尿を終えて背を向けようとしたニケフォルスが、何を思ったか再び、キリエに声をかけてきた。
「あー、そういえば。お前のところにアフィロンだか、アフィリオンだったか、そんな名前の大男がいたら、伝えてくれないか?」
「…………?」
今すぐにでも走り出せそうな姿勢で、キリエはニケフォルスの一方的な伝言に耳をかたむける。そこへ、ニケフォルスの豪快な声が響いてきた。
「二十年ぶりに再戦だ。得意の得物でやり合おう。今度は負けねえぞ……ってな」
そんな伝言など、お構いなしに立ち去ることもできるのだが、このときはキリエの心の中に、敵の傭兵隊長に対する妙な信用が生まれていたのかもしれない。無言のキリエは最後まで聞き終わると、今度こそ腰を上げた。
「よし、行け。きっと伝えてくれよ? オレとの約束だ!」
「…………ああ」
約束だというニケフォルスの言葉に、自然と返事をしてしまったキリエ。
だがそれも一瞬。走行準備姿勢を解いて一気に飛び出したキリエは、原野を駆ける獣さながらの速度で、一挙にこの場を離脱していった。
瞬間的に消失した気配の跡を、しばらくじっと見つめていたニケフォルスだったが、やがて振り返ると、ソテリオスやキュリロスらが待つ街路樹の下へと歩を進めた。
そのとき、ゆっくりと歩くニケフォルスの顔は、なぜか満足げな笑みを浮かべていた。
「あの声、女か……。へへ、どの程度の使い手なのか知らんが、戦場で刃を交えてみたいもんだな」




