5-2 帝国への恐怖心と復讐心
二 帝国への恐怖心と復讐心
ちょうどその頃。傭兵たちが眺めていた暗闇の魔界では――。
ここは第十七区の一角、迷路のように入り組んだ狭い路地。宿酒場の裏口付近。
きらびやかなかがり火が煌々と照り、夜ごと宴会が催されている中央街区とは違い、第十七区の裏路地にかがり火などは設置されていない。ここは夜になると、完全な闇に閉ざされる。
それでも今夜は、照り映えるふたつの月が、城壁の上からわずかに顔を覗かせている。
ニケフォルスたちが駐留した街区よりも少し高い場所にある第十七区では城壁が若干低い。そのためまだかろうじて月明かりがあるが、城壁の影になってしまうのは時間の問題だろう。
お世辞にも明るいとはいえない程度の月明かりだが、燃えさかる中央街区の火がその光を補い、建物をかすかに赤黒く染めていた。
「よいしょっ、ほらしょっ……」
そんな裏路地で、ふたりの人物がわずかな明かりを頼りに、特徴的な掛け声を口にしながら荷車から梱包を降ろしている。
ひとりは太った中年の男、もうひとりは若い女。二人はどうやら親子であるらしい。
荷車に積まれた荷物は、二人のリレーによって次々と運ばれ、全開にされた裏木戸の奥へと整然と移されていく。運ばれる梱包からは、焼きたてパンの香ばしい匂いが立ちのぼる。
「くれぐれも、地面に落とすんじゃないぞ。大事な商品だからな」
「…………」
荷車から梱包を降ろしていた中年の男が、それを受け取った若い女に向かって、何度も注意している。
その受け答えにいい加減飽きたのか、女は承諾の言葉すら返さず、黙々とパンの梱包を受け取っては、裏木戸の奥へとそれらを積み上げていく。
なぜ彼らは、何度も口を酸っぱく警告を繰り返してまで、落とさないよう慎重にパンを扱うのか。
それは当時の第十七区において、裏路地の路面がいちじるしく不潔だったからである。
貧民街の裏路地は住民たちの通路として使われるが、同時に、ゴミや汚物を捨てる場所でもあった。公衆衛生という観念すらない時代のことだ。
そのため路面は絶えずぬるぬると湿っていて、不衛生きわまりない。汚物だらけの地面で滑って転びでもしたら、別の意味で大惨事になりかねないのだった。
悪臭に満ちた裏路地にはおびただしい数の蝿が飛び交い、そこかしこに汚物やら排泄物やらが散乱する。月明かりしかない夜だからこそ、それらを見ないで済む。
しかし、これほどの不衛生な環境でも、この親子は平然と作業する。日頃の慣れというのは恐ろしい。
「あー、疲れたっ。もうこれで全部なんだろう? 親父!」
やがて、裏木戸の奥に梱包を運び込んでいた女が手を止め、だるそうにそう言ったかと思うと、腰をさすりながら思いきり背伸びをした。
ずっと前かがみの姿勢で、梱包の橋渡しをしていたのである。どんなに若くて体力があったとしても、腰が痛くならないわけがない。その姿が、ふたつの月に照らされた建物の前で、影絵になった。
建物に映し出されたのは豊満な胸、くびれた腰。そして背中に背負ったままの、巨大な弓――。
父親の方も最後の梱包を渡し終えると、手を休めて頬かむりをした布を取り、のんびりとした声で娘の声に応じた。
「――ああ、もうこれで終わりだ。今夜は手伝ってもらってすまんな、キリエ」
そう娘のキリエをねぎらい、滑り止めのために着けていた革の手袋を取った彼女の父親は、右手で左肩をトントンと叩きながら、荷車を駐めた裏通りの奥からゆっくりと出てきた。
でっぷりと肥え太った身体、後頭部だけを残し、みごとに禿げあがった頭髪。そして肥満の男性によくある、ゆっくりとした大股の歩き方。
汗と湿気で茶色くなった木綿のシャツを着た彼は、オーバーオールで吊った革のズボンを履きこなす。そのズボンも継ぎ当てで何度も補修されていた。
「それにしても……。帝国の連中が来る前に終わったのは、よかったな」
首にかけた頬かむりの手ぬぐいで何度も汗を拭く彼は、すっきりした顔つきで小麦粉が付着した革のエプロンを再び腰に巻いた。もはやこれは誰がどう見ても、中年のパン職人そのものの姿。
キリエの父親は、つぶれかかっていたこの街のパン屋を継いで以来、二十年近く毎日ひとりで、パンを焼き続ける職人であった。
「こんな夜に食糧を運んでいたなんて、帝国の奴らにバレたら命がないからな」
せいせいした口調でそう語る父親には、ベテラン職人にありがちな偏狭さといったものがない。実際どう思っているのかはわからないものの、ひとり娘のキリエには一度も、婿を取って後を継がせろと言ったことはなかった。
「お前が手伝いに来てくれなかったら、今夜じゅうに終わったかどうかもわからん。お前をよこしてくれたっていう座長にも、よろしく言っておいてくれないか」
人なつっこい笑顔でベンへの感謝を述べる父親は、頑固な職人というよりも人当たりのいい商売人といった雰囲気をまとっている。それを見たキリエは何か言おうと口を開いたが、直前でやめ、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「はん。別に、座長に言われなくたって、自分の意志で来たぜ? 親父思いのアタシとしてはな」
キリエが恥ずかしそうにそう感謝するのは、彼女が大人になった証拠なのかもしれない。それを聞いた父親は目を細めた。
「ふふ。あいつが生きていたら、泣いて喜ぶんだろうな……」
一抹の寂しさを笑顔の奥に封じ込めつつ、何度も手ぬぐいで汗を拭く父親。先ほども何かを言おうとしてやめたキリエは、その笑顔を前に口を引き締めた。
真顔に戻ったキリエは、剽悍かつ美しい容貌と、流れるような長い黒髪、そして鍛え上げられた肉体を持つ、匂い立つような絶世の美女である。その認識に欠けているのは本人だけであり、噂はリーヴェンスの至るところに伝わっている。
だが、その父親は性格も容姿もまったくの正反対。これが実の親子だとはとても思えない。その点でもこの親子は、よく話題にのぼっていた。
「よーし、終わった終わった。お前はこれから、避難所へ行くのか?」
思いきり背伸びをしながら、身体の奥から声をひねり出す父親の問いに対し、キリエは無言でうなずくことで答えた。
「そうか。それじゃ、ここでいったんお別れだな、キリエ」
「――あ?」
すでに酒場の裏木戸に足をかけようとしていたキリエは、父親が口にした別れの言葉を意外に感じた。この作業が終わったら、彼も当然、酒場に合流するものだと思っていたからだった。
「なんだよ親父。まだ何かほかに、やることでもあるのか?」
「ああ……まあな。こうして俺の食う分は確保したから、もうひと働きするつもりさ」
父親はそう言うと、手に持ったパンの梱包を軽々と、空中でもてあそんだ。今しがた運んできたパンの梱包をひとつ、自分用に確保しておいたらしい。
それでもパンの梱包一個には、ひとりの人間が三日間食べ続けられる量のパンが詰まっている。ひとり分として確保するには若干多いような気がするが、この父親の体格からすれば、それほど不思議なことでもない。
しかし、帝国兵が間近に迫っているこの状況で避難所合流を延ばすのは、危険極まりない行為でしかない。だが仕事熱心なこの男は、終わったと思った仕事をさらに続けることが多かった。
これを聞いたキリエは正直、「こんな時に、またか」と嘆息した。
「ひと働きって……。大丈夫なのかよ。帝国の奴らに見つかったら、今までの苦労は水の泡だぜ?」
「心配すんな。そんなヘマはしねえよ。お前こそ、気をつけろよ?」
まるで最後の別れのような言葉を、笑顔で平然と口にする父親。キリエは無言で唇を噛んだ。
かつての父親は、こんな男ではなかった。本屋のクルトとよく連れ立っては飲み歩き、家業のパン屋はキリエの母親が切り盛りする有り様。この体格も、そのときに形成されたものだ。
――だが、父親は変わった。十年前、あの事件があってからだった。
「……親父だってそうだろ。おふくろが殉教してまで救ってくれた、大事な命なんだろ」
「キリエ……。お前……?」
「ここで無理でもして、身体を壊しちまったら、あの世でおふくろが泣くんじゃねえのか?」
「…………」
すっきりした笑顔から一瞬で真顔に戻った父親の顔は、とても見ていられない。暗い裏路地に視線を移したキリエは、あの当時のことを思い出していた。
公都リーナスに支店を出し、商売をはじめた頃のこと。生まれたときから一神教徒だったキリエの母親はパン屋の経営のかたわら、街の礼拝堂で開かれる説教会に夜ごと通い、さらに店の売上げのいくらかを喜んで寄付する、敬虔な一神教徒だった。
それに対し、多神教から改宗した父親はそれほど信仰に興味を示さず、あいかわらず飲み歩いてばかりいた。
しかし当時、商業活動で栄えるリーナス公国を併合しようと企んでいた帝国は、ひそかに駐留兵に命じ、邪魔な存在であった一神教会の摘発に乗り出していた。
ただ、当時の帝国政府は公国の宗主権を主張してはいたものの、公国との無用な軋轢を好まず、せいぜい指導層の逮捕と収監を進める程度にとどめていた。
だがあの夜だけは、一神教会にとっても、帝国政府にとっても誤算であった。
礼拝堂の信者たちが摘発に抵抗したため、双方で数人の死者を出したのである。
『おかあさんッ! おかあさん! しっかりして……!』
遅れて現場に到着した信者の手により救い出され、別の礼拝堂に運び込まれた負傷者たちは救護を受けていたが、治療の甲斐もなく、負傷者の多くが次々と命を落としていく。
そのうちでも特に、傷の重い者が収容された礼拝堂奥の部屋では、十歳のキリエが、瀕死で横たわる母親にすがり、泣きじゃくっていた。
その部屋の中で粗末なベッドに寝かせられ、すでに虫の息となったキリエの母親は、優しくキリエの頭を撫でていたが、うつろとなった瞳には、彼女の夫であるキリエの父親が映っていた。
キリエの母親は、帝国兵に抵抗しようとした男たちが取り押さえられていく中、逮捕を免れようと脱出する信者たちの行動を手助けし、そのさなかに重傷を負ったのである。
脱出しようとした信者たちの中には、もちろん、礼拝所にいたキリエの父親も含まれていた。
『あなた……。キリエと、リーヴェンスのお店を、お願いね……』
満足げにそう言い残した妻は、公都で活動する多くの信者たちを救って、一神教に殉じた。
帝国による支配に抵抗する信者たちはこの事件をきっかけに、運動をエスカレートさせていくようになる。
その中で殉教したキリエの母親が聖女として祭りあげられていく一方、父親はリーヴェンスに帰ってから心を入れ替え、信仰にも背を向けて、パン職人として精励するようになったのである。
「…………」
キリエの言葉を受け止めた父親は、それでもしばらく黙って娘の顔を見つめていたが、やがてその目をそらして下を向くと、フッとひと声笑った。
「……心配いらねえよ。別に帝国に楯突こうってわけじゃないんだ。命の危険がある仕事じゃない」
その言葉はキリエがよく耳にする、普段通りの父の口調だった。だがキリエは、その言葉を真に受けることはできなかった。
夜になるとひそかに自宅を抜け出す父親が、街のどこかで何らかの活動をしていることを、キリエはうすうす感づいていたからである。
(命の危険がない……。それは本当なのか、親父?)
それは半年ほど前からになる。だが実際、父親がどんな活動をしているのかをキリエは知らない。
父親が危ないことに顔を突っこんでいないかどうか、心配であった。ただひとり残された肉親として、止められるものなら全力で止めたかった。
だが、それを口に出すことはできなかった。キリエ自身、好きなことをさせてもらっていたときでも、父親は身を焦がすほど心配したかもしれない。それなのに、何ひとつ口にしなかった。
だから、もうこれ以上心配をかけたくなかった。守備隊に志願したことも、父親には話していなかった。
「――そう、か。でも危なくなったら、すぐ逃げるんだぞ、親父」
「ん? ああ、そうだな。帝国の奴らに見つからないうちに、終わらせるさ」
娘が何を心配しているのかわからないといった風情で、右腕の力こぶを見せつけてくる父親。その屈託のない笑顔が、ふっとキリエの緊張をほぐしてくれた。
この明るさと人当たりのよさが、街で長くパン屋を続けている彼の魅力でもあった。
「……じゃあ、俺からも質問させてくれないか」
――と、そこで真顔に戻った父親が、手ぬぐいで汗を拭きなから、キリエへの質問をかぶせてきた。ドキリとしたキリエが、ぎゅっと右手の拳を握りしめて待機する。
「キリエ、お前は、帝国と戦うつもりでいるのか? 勝ち目はあると思っているのか?」
そう尋ねてくる父親の口調は、先ほどとは打って変わって声に深刻さをまとっていた。守備隊に志願し、帝国兵と戦ったことがバレたのかと思ったキリエは、思わず顔を引きつらせた。
月明かりしかない暗がりの中、その表情が父親に伝わったのかはわからないが、目をそらしたキリエがしらばっくれようとしたとき、返事を待たずに父親が口を開いた。
「知っていたさ。お前が守備隊に志願したってな。そしてお前以外、みんな死んだってこともな」
「……そう、か」
思った通り、守備隊で戦ったことは父親にバレていた。下唇を噛み、それきり無言になったキリエの顔をじっと見ていた父親は、再びぽつりと語りだした。
その言葉は述懐というよりも、頑固なキリエに対する懇願のようなものだった。
「なあキリエ。もう、帝国と戦おうとするのは諦めないか? せっかく拾った命を、大事にしないか?」
「親父……」
「実はもう、この街を脱出する手はずは整えてあるんだ。俺の残りの仕事が終わったら、親子でここを出よう――。キリエ」
街を脱出する準備が整っているというのは、おそらく本当のことだろう。帝国軍がリーヴェンスを包囲する前から身辺の整理を進めていたし、今夜のパンも、在庫していた小麦粉を全部使ったものだということをキリエは知っている。
座長であるベンと、その元部下であるクルトが帝国との戦いもやむなしと考える中、キリエの父親だけは黙々と、脱出の準備を進めていたのだった。
「三年前はどうにかなったが……。今回はもうダメだ。城門が破られちまった。もう猶予がない。どうだ、俺と一緒に、街を出ないか?」
手ぬぐいを握りしめ、悔しさをにじませた声でそう言う父親。彼が語る口惜しさは、長く住んだ街への哀惜か。それとも、為すすべもなくこの地を逃れるみずからへの悔恨か。
小麦粉を使い果たしてまでパンを供給した行動は、父親がなし得る最大限の、帝国への抵抗だったのだろう。
だが、そう語ったときの父親はどこかビクビクしていて、少しでも早くこの場を離れたい感じであった。その瞳に宿っていたのは、帝国という得体の知れない、巨大なものへの恐怖感だったのかもしれない。それを見たキリエは、ふっと一抹の寂しさを覚えた。
(親父……。あんたは、まだ帝国のことが……)
十年前、キリエの母親が踏み込んできた帝国兵の凶刃に倒れたとき、その夫である父親は間近で、その瞬間を目撃していた。
重傷を負った母親が別の礼拝堂に担ぎこまれたとき、父親はただ茫然と立ち尽くすだけで、現実を受け止められない様子であった。キリエはその時の父の姿を、今でも覚えている。
あの日を境として、父親は無意識に帝国を避けるようになり、また恐れるようにもなった。
街に残った男たちによる、対帝国軍防御戦の謀議には一度も参加しなかったし、避難所へ収容されることをも拒むほどだった。
『いいか、キリエ。帝国にだけは、何をされようとも逆らうな。あいつらに睨まれたら、この島では生きていけないぞ』
狩人の親方に弟子入りし、この街を離れるときに父親が語ったこの一言が、キリエの脳裏に蘇ってきた。まだ何も知らない少女でしかなかった当時の懐かしさと、父親の帝国恐怖症への反発心とともに――。
「――いやだ。アタシは、おふくろを奪った帝国と、戦う」
父親の勧めに対するキリエの返事は、低く抑えた声ではあったが、明確であった。
その答えを前に、ぐっと声を詰まらせる父親。暗くて顔は見えないが、複雑そうな表情なのだろう。
「おふくろを亡くしたとき、アタシは決めたんだ。この国が帝国に飲み込まれても、周りが帝国人ばかりになっても構わない――。アタシは最後のひとりになっても、帝国軍に復讐するって!」
信者をかばう母親の背中に剣を振り下ろした帝国兵の姿と、屋根の上で遠望した中央街区の業火が、キリエの意識の中で激しく明滅する。
狩人に弟子入りしたのも、弓矢の技術を磨いたのも、すべては帝国軍への復讐を果たすため。この必殺の矢で帝国の指導者を葬り去らない限り、キリエの戦いは終わらないのだ。
「アタシは、この弓と矢に誓う……!」
軍司令官の暗殺という宿願を果たすためには、帝国が侵攻を開始した今をおいてほかにない。背中の弓を力強く握りしめたキリエは、暗がりの向こうに立つ父親に迫った。
「親父も、諦めずに戦うんだ! 捕まっちまったらどのみち、生きては――」
キリエが一歩を踏み出しつつ、父親に徹底抗戦を告げようとした、その時だった。
ガタン、と物音がしたかと思うと、どこからか何者かの気配が伝わってきたのであった。




