3-4 いかなる過去があろうとも
四 いかなる過去があろうとも
粗末な建物が建ち並ぶ貧民街の中で、もっとも立派な建物が中央付近に建っている。
何百年前に建てられたのか、誰も知らない。すべてが石造りの、豪勢なたたずまいの建物。
二階が宿泊所になっているこの建物は、一階が大広間になっていて、普段は旅の商人を相手とした酒場として営業している。
古老の言い伝えによると、この建物は街区が開かれたとき、最初に建てられたのだという。
その後、市庁舎の支部やギルドの集会所として使われていたようだが、いつしか、商業活動で生計を立てる旅人たちのための宿屋となった。いつ頃からそうなったのか、誰も知らない。
そしておよそ八十年ほど前。階下の客室を大広間に改装し、酒場の営業を開始したというが、それが思いのほか繁盛したらしく、今に至っている。
安くてうまい料理を出す店として評判となり、旅の商人たちだけでなく、近隣の街区からも足しげく通う常連客がいるという。
――ところが、人気宿酒場の営業は、一週間前から停止を余儀なくされた。帝国軍の包囲が始まり、ここが避難所になったからである。
戦争や災害など、有事の際にはここを避難所とするように定められている。その風習は、かつて集会所だった時代の名残であろう。
城壁に囲まれ、そこから出ることも許されない貧しき人々は、長年住み慣れた住宅を捨て、ここに避難してきていた。
一階の大広間に収容されたのは、およそ二百名の住民たち。
その大半が女性や子ども、そして高齢者。成年男性のほとんどは、三十代以上である。
三十歳以下の若者は、多くが守備隊に志願し、城壁の戦いへと身を投じていった。今ここにいる若い男性は、街区を守るために残った者か、守備隊に入れなかった者だけである。
守備隊の召集に応じた若者たちは、唯一神の名を唱えながら気勢を上げ、意気揚々と兵営に向かった。
――そして今日。日が暮れ、ふたつの月が中天にかかる今になっても、弓使いキリエ以外、生きてドアを叩いた者は現れていない。
街に残された女性や子ども、そして高齢者は徐々に避難をはじめていたが、城壁の防御戦が膠着状態になってからはその勢いが加速した。夕方の時点で、二百人を超えた。
だが、この状況になってもなお、住み慣れた家を離れたがらない者もいた。その多くは高齢者である。
すっかり暗くなった今になっても、無理に担ぎこまれる高齢者が続いていた。
「ええい、離せ若造どもが! わしゃあ、ご先祖が建てた家を守るぞ! そこで帝国兵と戦って、堂々と死ぬんじゃい!」
二人の男性に両側から挟まれた高齢の男性が、大広間の入り口で大声を張り上げながら、じたばたと暴れている。
老人を挟み込んだ二人の男性は若いが、三十歳を越えている。彼らはあちこちにすり傷やひっかき傷をこさえ、暴れまくる老人を何とか大広間の中に入れようと、必死であった。
どうしても収容されることを拒み続ける老人。辟易した男性のひとりが、たまらずに声を張り上げる。
「うるせえよ爺さん! 暴れてねえで早く、避難所に入れっての!」
男性がそう叫んだ途端、老人はもうひとりの男性の腕に、思いきり噛みついた。
「うわっ、いたたた! 落ち着いてくれよ親父さん! 帝国の兵隊がもう、そこまで来てるんだぞ!」
噛みつかれた男性は悲鳴を上げたが、さすがに我慢の限界に達したらしく、声を荒げて叱責する。
だが老人は頑として受けつけないばかりか、若い者を相手に口角泡を飛ばして突っかかる有様。
「黙れひよっこどもが! 帝国の軍隊なんぞに負けるはずがないと、何度も言っとろうが! わしゃあこれでも三十年前は、平原の悍馬と恐れられ……!」
かつて傭兵として名を上げたらしい老人は、高齢と思えない腕力を発揮して抵抗する。どうしても大広間に足を踏み入れたがらない。
そしてふた言めには、「昔は強かった」ことを自慢する。男たちはもう手に負えなかった。
この街区に住む民衆のほとんどは、その日の暮らしに事欠くほどに貧しい。さらにこの老人のように生まれも育ちもこの街という住民が圧倒的に多く、脱出できても行くあてがない。そんな境遇にある者がほとんどだった。
「とにかく、わしは帰る! 大勢でなれ合うなぞ、まっぴらご免じゃ!」
なかなか避難所への収容を承諾しない老人。場をわきまえない大声が響く中、徐々に広間内がざわついてきた。
事の成り行きを見つめる者の中には、ひそひそと陰口をする姿も見える。街区の中でこの老人は、あることで顔が知れわたっていたからだ。
そんな騒ぎの中、奥の方からひとりの大柄な男が、悠然と、大股で歩み寄ってくる。
玄関先で取っ組み合いをする老人たちは、まだそのことに気づかない。
だが周囲のざわつきは、その男が歩く姿を目にした途端、黙り込むかのように収まっていく。
その男の登場で急速に静まりかえっていく大広間。その後ろを貧しい身なりにエプロンを着けた少女がひとり、短い金髪をゆらしながら、水や食料をたずさえ急ぎ足で追っていく。
無言のまま歩を進め、言い争いをする老人たちの前で歩みを止めた男は、野太い声で口火を切った。
「若い衆を差し向けまして、申し訳ありませんな。ご隠居さん……。参事会から、市民全員の避難命令が出ておりましてな」
物静かな口調だが、その太くて低い声は、周囲の何物をも圧するほどの力を感じさせる。さすがの老人も、男が醸し出す独特な気配にはすぐに気がついた。
「――何じゃと? むむ、お前は……?」
「お久しぶりです、ご隠居さん。顔合わすのはもう、かれこれ一年半ぶりくらいですかな?」
見上げるほどに大きな身体を折り曲げ、老人の目線になるよう身をかがめた男は、老人の癇癪に触れないよう細心の注意を払いつつ、静かな口調で説得に当たる。
「もとは一介の武弁だった俺ですが、今ではこの街区を任された『座長』です。街の代表者である俺の話を、聞いてくれませんか?」
薄汚れた革のエプロンを着け、動きやすそうな木綿のシャツと、はき古した革のズボンに身を包んだ姿。彼こそが、この宿酒場の経営者であり、街区のまとめ役である「座長」であった。
座長は市の参事会に議席を持つ、いわゆる地区の名士のひとりではある。だが貧民街の座長はたいした発言力がなく、その地位は軽んじられているのが現状である。
しかしこの座長は、巨体に似合わず温厚な人柄で知られ、多くの住民は彼を認めている。彼を慕って、別の街区から移り住んだ職人もいたほどだった。
「――フン。参事会の上役どもは『今度も鎧袖一触』だなどとほざいておったのに、このザマはなんじゃ。おぬしにも、責任の一端はあるんじゃぞ」
「まあまあ。どんな城壁都市も、いずれは落ちるときがきますよ。でも――」
ここで言葉を切る、酒場の主人。ブルーベリーのような色の瞳で、じっと老人の顔を見つめた。
鍛え上げられた彼の筋骨は隆々と盛り上がり、かつ肌は浅黒い。むき出しの腕には戦闘で受けたと思われる数多くの古傷が残るが、その体型に似合わぬ物腰と、静かな口調は、彼の威圧的な雰囲気に一種独特な彩りを添えずにはおかない。
「――ここに大勢で集まってることが重要です。いかに獰猛な帝国の兵隊でも、これだけの人数には容易に手出しできないでしょう」
いかつい顔つきに短髪。瞳には鋭い眼光が宿るものの、五十を過ぎた年頃にも見える面影には多くのしわが刻まれていて、かつて豹のようだったと思われる精悍な顔つきは、うまい具合に影をひそめている。
だがここで、酒場の主人の顔が上気し、鳴りをひそめていたはずの瞳が輝きだした。
「帝国の連中も、長い行軍と包囲で、疲れているはず……。必ずどこかで野営をします。それを狙って、俺たちも反撃に移る予定です」
そう言った後、酒場の主人はあぐらを掻いて座り、老人の前で力こぶしを握って見せた。一種の決意表明であった。
それをすでに聞いているはずの少女も、老人を取り押さえている男たちも、思わず固唾をのむ。
恵まれたその体格を生かせば、老人を強引に奥まで引っ張り込むことなど、造作もないことだろう。しかし酒場の主人はそうしようとしない。決意表明までして、老人の説得を試みるのだ。
「フン、勝手にやればよかろう。こんな老いぼれなど、放っておけばいいんじゃ!」
しかし、老人の方も簡単には引き下がらない。両脇を囲んだ男たちの力がゆるんだ隙に腕を振り払うと、その場にどっかりと座り込み、酒場の主人の顔を、下から睨み上げた。
「三年前もそうじゃったろう。この街の連中は、誰ひとりお前の後に続かなかった。無知蒙昧な民衆など、所詮、烏合の衆に過ぎん。どうせここも取り囲まれて、皆殺しになるわい」
どうしても悲観論を崩そうとしない老人。説得に失敗した酒場の主人は、天井を仰いだ。
「ご隠居さん……。何も、三年前と同じになると決まったわけでは……」
「いいや、わしにはわかる。帝国軍も、三年前と同じ轍は踏まんじゃろう。今回の司令官も、三年前と同じだそうじゃ。あの時とはすっかり別人になったと、噂に聞いておる」
「三年前と同じ……。あの男が、今回も司令官を……」
それを聞いた酒場の主人は絶句し、眉間にしわを寄せ、思わず目をそらした。
三年前、リーヴェンスが初めて帝国軍の包囲を受けたときのことが、酒場の主人の脳裏に浮かぶ。
(――セルヴェラス、貴様はまだ、諦めていなかったのか)
その当時も、彼は街区の座長を務めていた。
そして、帝国軍との和平交渉に当たったのも、彼だった。
――今からちょうど三年前。真夏の、蒸し暑い季節に、帝国軍はリーナス公国に攻め入った。
三千もの大兵力を動員した帝国は今回同様、海峡を軍船で封鎖し、手始めに島の最北端にあるリーヴェンスに狙いを定め、陸側から包囲を仕掛けてきた。
侵略を回避しようと、リーヴェンス側からたび重なる交渉が帝国に申し込まれた。だが、交渉はうまく運ばなかった。帝国には交渉する気など、初めからなかったのである。
交渉が行き詰まる中、包囲陣はいよいよ狭まり、帝国軍は城壁への攻撃準備に入った。
意を決した酒場の主人は、決死の覚悟でひとり敵陣におもむき、包囲陣の前に立つ。
ここで和平が成らなければ、たったひとりで奮戦して、リーヴェンスの心意気を見せようと――。
だが、そのとき。彼を嘲笑する包囲陣の背後で、突発的な大爆発が起こった。
大爆発とともに発生した爆風は、平原と新市街を数秒で覆いつくした。
街を取り囲んでいた包囲陣にも爆風は襲いかかり、たちまち数百名の死者を記録したという。
算を乱した帝国兵はわれ先にと逃げまどい、包囲陣は雲散霧消。作戦は失敗に終わったのである。
(あの爆発が起こらなければ、俺は今ごろ、この世にいなかったかもしれん……)
酒場の主人が当時を思うとき、いつも顔が険しくなる。
あの爆発現象によって街は救われた。だが、消えていった命は決して少なくなかった。
爆発によって発生した強烈な爆風は、どういうわけか新市街の建造物や城壁にほとんど被害を与えなかったという。だが人体に対してだけは、まさに悪魔が終末の剣を振るったかのように、内部崩壊のような現象を示したのである。
数日後、リーヴェンスの守備隊が残された遺体を検分したところ、どれも内側から破裂したかのような状態で肉片がまき散らされており、それはむごたらしいありさまだったと、当時の文書に記録されている。
爆心地を含め、爆発事故の詳細は今でも不明である。
なぜなら、爆心地が「聖跡」に指定され、立ち入りが厳しく制限されたからである。
一神教会の唯一神は、五百年前に生きた、ある老哲学者が天に昇ったものだと信じられている。
老哲学者はある種の特殊能力を持っており、当時、世界をわが物にしようとした悪魔と激闘を演じた末、われと我が身を犠牲に、その身を爆発させ相討ちとなって、この世を救ったのである。
それ以来、不可思議な爆発現象は「神の奇跡」だと信じられるようになった。
今回も魔術的な爆発現象が起こったことで、リーヴェンスの民衆は大喜び。「神様が助けてくれた」「天使様が助けてくれた」と口々に叫び、リーヴェンスは「神に祝福された都市」と呼ばれるようになった。当然、一神教会への寄進も急増したという。
しかし、多神教を国教とする帝国はこの事実を否定し、国際的な場で、再戦を誓うことになる。
黙り込んだ酒場の主人の前で、勝ち誇り顔になった老人は、ここぞとばかりに反撃に転じた。
「……フ、フン。神の奇跡なんぞ、所詮はデタラメだったんじゃ! そもそも昇天してから五百年程度の唯一神など、大いなる神々の序列では最低なんじゃ!」
日ごろ溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、大声で叫ぶ老人。彼はこの街ですっかり少数派になった、多神教徒なのである。
老人が鬱憤を発散した途端、再びざわつき始める大広間。この老人は「多神教徒である」ために、街の住民から差別される立場であった。
枢機卿座があるリーナス公国は、一神教徒の割合が世界的に高いことで知られている。少数派に転落した多神教徒は追いつめられ、隠れ里に引きこもったり、こうした貧民街でひっそりと暮らすようになった。
多神教徒に対する差別は公然と存在する。教育を受けられない、市場に店を出せない、ギルドに参加できないなど多岐にわたるという。
酒場の主人は、それを黙って聞いていた。彼もかつては、多神教徒だったからだ。
だが今、彼は街の座長である。多神教徒の境遇に同情は覚えるが、ここは押し切るしかない。
「――申し訳ないが、その序列論には同意しかねる。わが主の威光は、旧教の神々とは違うのです。その神のご加護で戦う我らに、楯突く魔軍など……この世にあってはならんのです」
「な、なんじゃと……?」
「あの大爆発も、内臓を吹っ飛ばされて死ぬ帝国兵も、三年前、俺はこの目で見ました。神のご加護は再び、この街を救うでしょう。そしてその威光は万人にひとしく、信条を問わずに与えられる……聖典にもそう書いてあります」
そう諭し、銀色の鎖で首から下げられた一神教の「聖印」を握る主人。聖印は木の杖に翼が生えたデザインだが、木の杖はその身もろとも消え去った老哲学者の、唯一の遺品を示すのだという。
「――俺はこの街の誰も、死なせやしません。それはご隠居さん、あんたも同じです。あんたにどんな過去があろうとも、俺はわが主を信じ、守り抜く覚悟です」
片膝を立て、老人と差し向かいになりながら、酒場の主人は改めて声を大きくし、みずからの決意を述べた。
それは老人に対してだけでなく、ここに集まった避難者全員に対する決意表明でもある。声を大きくしたのはそのためだ。
老人を連れてきた男たちも、金髪ショートカットの少女も、それを聞いて力を得たらしく何度もうなずいている。周囲の住民たちもいつしか雑談をやめ、酒場の主人の決意表明に聞き入っていた。
「……ぬう、ぬぬぬぅ」
濃いブルーベリー色をした、酒場の主人の瞳に見すえられた老人は、二の句が継げずにうめく一方。ようやく観念したと思ったのか、酒場の主人はふたりの男に目配せをする。
ふたりはその意を受けて、改めて老人を大広間に引き入れようと、両側から腕を掴んだ。
ついに、窮地に陥った老人。うなだれつつもイチかバチか、最後の反撃を試みた。
「フ……フン。わかったわい。しかし……。おぬし自身の過去は、どうなんじゃ」
うつむいた姿勢で、老人はぼそぼそと言う。立ち上がろうとしていた酒場の主人だったが、その呟きを聞いて動きを止めた。
「俺が……どうしたと言うんです」
「わしはな、知っとるんじゃぞ。おぬしがもともと、帝国の――」
老人がそこまで言ったとき――。
酒場の主人は勢いよく立ち上がると、両手のこぶしをぎゅっと握りしめた。
「だから、何だと言うんです……? 俺と帝国が、どうしたと……」
忘れていた過去。思い出したくない過去が、酒場の主人の脳裏によみがえる。
もう、この街に溶けこめたと思っていた。座長として、誰にも認められる存在になったと確信していた。
だが、そうではなかったのだ。その辛さと落胆が、彼の精神をまたたく間に覆っていく。
「お、おい……?」
それが酒場の主人にとっての禁句だったことに気づき、老人は思わず口をつぐんだ。
しかし、時すでに遅し。酒場の主人はその場に立ち尽くして目を見開き、こぶしを力いっぱい握りしめて、やり場のない落胆と悲しみ、そして憤りのような感情にさいなまれていた。
その表情は深刻そのもので、今にも襲いかかってくるのではないかと、老人には思えた。
「わ……わわ、悪かった! 謝る! わしはおぬしを、そんな目で見てなど……!」
さすがに泡を食った老人は、その身を縮こませて後ずさりを始めた。その眼光に本能的な恐怖を感じさせるほど、酒場の主人の表情は闇に包まれていたのである。
だがそのとき。主人の背後から、落ち着いた優しげな声が響いてきた。
「ご主人。いえ、座長殿。そこまでです」
若い青年のものと思われる声とともに、大柄なはずの酒場の主人の肩に、優しく手がかけられる。
その手は女性のように白く、きめ細かい肌だが、肩にかけられた手には腕力が込められていて、激高しそうな彼を引き留めようとする、強い意志が感じられた。
その青年が身にまとっていたのは、神に仕える者だけに許される、白を基調とした聖職者の衣装だった。




