3-2 守備隊最後の生き残り
二 守備隊最後の生き残り
同じころ。そんな街のやや高台に位置する、城壁に沿った東端の街区――。
城壁内部は「旧市街」とも呼ばれる。旧市街はリーヴェンスの中でも、もっとも長い歴史を誇る。
だがここ、東端街区の景観は、整然とした街並みが美しい中央部の街区とは、まったく違っている。
街灯がきらめき、街路樹が並ぶ大通りなどというものは存在しない。雑多に集まった小規模な家屋群が、無秩序に詰めこまれたような地区。
ここはいわゆる、貧民街と呼ばれる区域。移民たちの吹きだまりだ。
バラックのような木石混合のあばら家を隔てるものは、ゴミと汚物にまみれた細い路地しかない。排泄物や生活廃棄物を処理するなどという考えがなかったこの当時、ゴミはその辺に捨てるのが当たり前。ゴミや汚物は片付けるものではなく、避けて通るものだった。
そのせいで幾度も、疫病が蔓延する。だが不衛生な環境が疫病の原因であることを知らない民衆は、病魔は悪い精霊が通り過ぎた証拠であり、一心に神に祈ることで治ると、本気で信じていた。
そんな不潔な街区のほぼ中心にある、ささやかな広場の前に建った大きな二階建ての二階部分――。
木製の窓枠に座り、木製のパイプをくゆらせていた彫りの深い中年男が、感慨深げに呟いた。
「まったく、この街ときたら……。俺が来たときと、まるっきり変わってないんだからなあ」
ため息をつきながら、男は煙を細長く吹き出す。青と赤に染まった夜空に、煙が消えていく。
空では青と赤、ふたつの月がぴったりと寄り添う。その月明かりは普段の倍となって、家々の屋根を銀色に照らし出している。
パイプから漂いだした次の紫煙が、青と赤とに染め分けられた月の明かりで立体的に浮かび上がりながら、先ほど消えた煙を追うように、窓の外へとゆっくり流れ出ていった。
「そういや、今日は『会合日』がある予定だったかな……」
中年男はそう呟きながら、眼下を縫うように通る裏路地に視線を移した。もちろん、人っ子ひとり歩いていない。
だが、青い月ナーンリントと赤い月ヴァルトールが最接近する夜は毎回、不衛生な裏路地にまでテーブルが出され、地元の住民が飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げる。その日だけは、住民総出でゴミも汚物もきれい片付けられるのが通例だった。
「このままじゃ、今回は中止だな。俺ひとりですまんが、祝わせてもらおうかね」
パイプを口にくわえた男が、ふたつの月を仰いでそう呟いた、次の瞬間。
南西の方から「ドーン!」というものすごい音が、空気を震わせながら響いてきた。
硬いものと硬いものとがぶつかり合う、重々しい音。今日の夕方以降、それが南西にある城門の方角から時折響いてくるようになった。
それとともに、大人数のガヤガヤした騒ぎ声や歓声が、城壁の上を渡る風に乗り、こちらにも聞こえてくる。風に乗ってくる騒ぎ声の出どころは、もちろん、一週間前からこの街を包囲している帝国兵たちである。
それに対し、ひっそりと静まりかえる旧市街。だが夕方までは、旧市街も怒号や喚声に満ちていた。
城壁を乗り越えようと、ありとあらゆる戦法を駆使して攻め寄せる帝国軍。それを水際で迎え撃とうとするリーヴェンス守備隊の奮戦が、城壁のあちらこちらで起こっていたのである。
リーヴェンス守備隊は、自警団を母体に有志によって結成された、臨時の防衛集団である。この街区からも、血気盛んな若者たちが何人も志願し、出ていった。
彼らは手に手に武器を取り、帝国軍を駆逐するのだと息巻いて、城壁に群がる敵に挑んだ。
だが、その中の誰ひとり、帰ってこなかった。平穏だった城壁が、若き鮮血で染まった。
さらに戦闘の喚声までもが徐々に小さくなっていき、夕闇が迫る頃には、ほとんど聞こえなくなった。
守備隊の命を引き換えにした奮戦で、帝国兵どもはようやく駆逐されたのか――?
住民がそう思った矢先。この「ドーン」という轟音が、数分間隔で空気を震わすようになった。
城壁から駆逐されたのは帝国兵ではなく、城壁を守っていた守備隊の方だった。偵察隊によれば帝国軍主力はまだまだ健在らしく、城壁の外に多数待機しているとのこと。
「ありゃあ、破城槌だな。あんな無駄にでかいブツを、島に持ち込みやがって」
紫煙をくゆらせた中年男は窓枠に座り、城壁の方角を見ながら呟いた。彼はその音だけで、この兵器のことがわかるらしい。
破城槌とは、古くからある攻城兵器の一種。車輪を取りつけた一本の丸太を、百人以上の人間が全力で押し出し、尖端を城壁などにぶつけて使う巨大兵器である。運用に大人数が必要になるため不経済とされ、戦場から姿を消してからすでに久しい。
「そんな旧時代の亡霊を持ち出してまで、この街の門扉を無理やり、叩き割ろうなんざ……」
湿って停滞した、海辺の空気。それを乱すような音が城門の方角から響くたび、屋根という屋根から、驚いた鳥たちがいっせいに飛び立っていく。
それを見て、少し言葉を切った中年男だったが、パイプから胸いっぱいに煙を吸い込んだ後、再び口を開いた。
「いよいよ、マジでこの街を消す気になったってか? ルー……?」
窓際に座ったまま、そんなことを呟きながら上空の二つ並んだ月を眺め、中年男は深呼吸とともに、口から勢いよく煙を吹き出した。
攻撃される城壁の内側にいるはずの彼。しかしどこか「われ関せず」のような超然とした余裕を崩すことなく、ニヒルな面持ちで夜空を見上げる。
そんな彼は、暗くなった部屋の中に視線を移すと、ベッドの片隅で雑多に積まれたものに目を止め、それを見た途端に自嘲気味な笑みをこぼした。
雑多に積まれたものは、古くさい革の鎧や手甲、すね当て、そして使い込まれた剣などの武器類。
「さあて……。どうやら俺の方もそろそろ、本気を出すときがきた……のかもしれねえな」
うなじを隠すほどに伸びた後ろ髪をかきあげ、かつての装備品に目を向けた中年男は、首の後ろをボリボリと掻きむしりながら、腰かけていた窓枠から大儀そうに飛び降りた。
よく見ればこの中年男、長年使い古したあげくに色が変わった、粗末な木綿のエプロンを身につけている。染め抜かれていた「書肆ボヴァリー」の文字が、色あせて判別しづらい。
やせ型だが肌は浅黒く、がっしりとした身体つき。彫りの深い顔にチクチクと伸びた無精ヒゲ。その独特な風体は、どうも本屋らしくない。
エプロンさえ身につけていなければ、流浪の勝負師だと言われても違和感はないかもしれない。
ここは月明かりに照らされた、狭い客室。ひとり用の粗末なベッドと安楽椅子、そして木製のテーブルセットがひと組あるだけである。この建物の二階は、旅人のための宿泊所になっているらしい。
「……と。まずは、景気づけといきますかね」
ランプなどの照明は禁じられているため、室内を照らすのは月明かりだけ。窓を閉めると蒸し暑いため、鎧戸はすべて開け放っている。時折ふわっと、潮風がカーテンを揺らす。
「――さて、と」
エプロン姿の男は短くそう呟くと、狭い室内でゆっくりと安楽椅子に腰かけ、テーブルの上に飲みかけのまま置かれた、蒸留酒のグラスを手に取った。
どろっとした蒸留酒は密造されたもので、もちろん質はよくない。男はそれでも飲み残しの小さなグラスを口に運ぶ、かと思いきや――。
「……まあ、こっちに来て座ったらどうだい? 今夜はおじさんと一杯やるために、ここまで来たんだろ?」
安楽椅子に深く腰かけ、くつろいでいたエプロン姿の中年男は、何を思ったか薄笑いを浮かべると、闇の奥で半開きになったドアの外に向け、のんびりと声をかけた。
――ドアの向こうに、誰かがいる。彼はそのことを、気配だけで感じ取ったのだ。
「…………」
存在を知られた人影は、すぐに返事をしない。だが、その場を立ち去ろうともしない。この部屋に入るべきか否か、深く考慮しているのだろう。
それきりしばらく、両者ともに無言の時間が流れたが、やがて先に動いたのは、ドアの向こうに立つ人影の方だった。
半開きのドアを押し開け、ゆっくりと部屋に入ってきた人影。
その姿が窓から射し込む月明かりに照らされ、徐々に露わになっていく。
それは、人の背丈ほどもある大きな弓を背中におさめた、狩人――。鍛え上げられた足、しなやかな身のこなしは、まさに人体を模した芸術品である。
だがそれよりも先に目に飛び込んでくるのは、大きく盛り上がったふたつの胸と魅惑的にくびれた腰、そして緋色のリボンでまとめられた、黒く長い髪。
やがて薄暗い客室に姿を現したのは、大きな弓を背に負い、腰に矢筒を装着した、狩人のいでたちをした若い女だった。
しかも、その息を呑むような美貌は月明かりによって一層引き立ち、豊満な胸とくびれた腰が、女としての魅力を神の域にまで押し上げているかのよう。
しかし若い狩人の女は、壁際に弓を立てかけると、その場で動かなくなった。
そして、その場で立ち尽くしたまま下を向き、両目からぽろぽろと大粒の涙を落としたのである。
「クルトおじさん……。負けたよ」
「――ん?」
中年男が聞き返す間もなく、弓使いの女は両手の拳をぎゅっと握りしめ、下を向いたままうめいた。
その声には嗚咽と悲しさと、仲間を失ったことへの悔恨がすべて込められていた。
「アタシたちの、負けさ……。隊長も、あいつも、死んじまった。もう……おしまいだ」
消耗し、涙まじりに語る彼女の口調。その裏側には、やれるだけのことはやった、だが及ばなかった、そうした喪失感と無力感がにじみ出ているかのようだった。
「……そうか、ご苦労だったな。よく戦ってくれた」
クルトと呼ばれたエプロン姿の男は、持っていたグラスを置いてふっと鼻息をもらすと、安楽椅子から動かず足を組んだ姿勢のまま、テーブルの上に伏せてあった空きのグラスを、そっと上に向ける。
そして緑褐色のボトルを持ち上げ、ゆっくりと蒸留酒を注ぐと、弓使いの女が立っている方に向けてコトリとグラスを置き、優しく語りかけた。
「……まあ、そんなところに突っ立ってないでさ。ここに来て一杯やれや。キリエちゃん?」




