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4-2:砂漠の町で

 大陸会議が開かれる白亜の塔は、空白地帯の中心にある。

 どの国にも属さない砂漠は不毛の地であり、魔物もあまり寄り付かない。

 そんな地に大陸全土の魔法魔術の粋を集めて維持されている白亜の塔は、魔術師連合の中立性と威信そのものを示すものである。

 だが、遠い。大陸の東北寄りに位置し、比較的近いシルベスタ王国からでも、強化を施した馬車で往復の移動に最低半月費やされる。

 

「年四回、互いに多忙の身である各国の魔塔主が、長くて三日の会議のためにわざわざ集う。()()()()()()、これほど非効率極まりない会議もないと思っていたけれど……」

 

 いまのクリストファーにとっては、この出張がありがたい。

 魔塔を出て五日。クリストファーは馬車の窓の外へと目をやった。

 赤茶けた土に草がまばらに生える荒野と渓谷。もう間も無く砂漠の手前のオアシスだ。

 最後の補給をし、馬車を預け、“砂漠の馬”と呼ばれる地域固有種の馬を借り、二日ほど砂漠を進んでようやく塔に辿り着く。


(平常心を保って、レディ・リドルと接する自信がない)


 クリストファーは魔塔を不在でいることが多かった。

 内部の事はジェフに任せ、元王子の公爵の身分と魔塔主の立場を巧みに使い分け、外向きの仕事を担っている。

 この大陸会議だって定例の仕事だ。


「……なんて、欺瞞だな」


 クリストファー個人の問題で、レディ・リドルとの接触を避けている自覚がある。

 夜会でセシリア・ヴァストと踊った時のことを、何度も思い返してしまう。


『……君は……誰だ……?』


 無意識に喉の奥から出てしまった言葉。

 幸い、ダンスに一生懸命だったセシリア・ヴァストの耳には聞こえていないようだったが、もし聞こえていたら彼女はどんな反応を見せただろうと思う。

 不思議そうに首を傾げるか、あらためてヴァスト家の令嬢であることを伝えてくるか。

 あるいは――。


「これまでろくに接点もない、社交デビュー前の……僕の婚約者じゃない、十五歳の侯爵令嬢」


 過去のどの人生でもなかった、クリストファーと幼い頃に出会っていないセシリア・ヴァスト。

 そういえば、どうして彼女は一般観光客に混じって魔塔の公開見学に参加していたのだろう?

 前世の彼女がヴァスト家の書庫にある書物読み、魔術について調べていたのは、クリストファーのためだ。

 引き合わされた時に彼が身につけていた魔導具とその理由を聞いて、効果の持続日数を計算し、その後も彼の力になろうとしてくれた。

 しかしそれも、十三歳になって王子妃教育が始まるまで。

 過去のクリストファーの人生で、セシリア・ヴァストが魔術や魔術師と深く関わることはない。


「今世はヴァスト家にネイサン・リドルがいるからか? 彼がヴァスト家の屋敷にいるのはセシリアの家庭教師でもあるから、やはり彼女も魔術に興味を? だが魔術師は普通、魔術の才がない者には教えない」


 教えないが、レディ・リドルという例外が存在する。

 魔術を行使できる魔力を持たない。魔術師にはなれない少女。

 なのに圧倒的演算能力と魔術的センスで解錠技法を確立させ、現時点で唯一、古代叡智の術式を再現できる。

 最初の頃はわずかな期待も込めて疑っていた。二人は同一人物ではないかと。

 クリストファーは首を振った。そして思考は堂々巡りとなる。

 

(レディ・リドルの圧倒的な、魔術の高みに到達した賢者の如き姿を見てしまったら……ありえない)


 あの高みは、ただの興味では到達できない。

 天才が、その才能を伸ばす最高の師を得て、常人には考えられない努力を積み重ねた結果だ。

 

(レディ・リドルの仕事量とその集中力には、僕だって舌を巻く)


 アーサー・ヴァストの協力があったとはいえ、ペトラ病発生地と頻度、状況、東部で起きる竜害との関連をたった一ヶ月程度で割り出した。どれほど膨大な記録を集め、精査したかと考えると気が遠くなる。

 魔塔の、彼女の研究室に足を踏み入れるたびにクリストファーは驚かされる。

 机や床に散らばる紙の枚数と、そこに書かれた密度の濃い考察や計算式に。


「……会議で、どこまで情報開示をしたものかな」


 クリストファーは目に映していなかった馬車の窓の景色から、手元の書類へと視線を移した。

 セシリア・リドルによって、少しずつ明るみになってきているペトラ病の発生原因と東部の竜害との関連。

 特定の地域で、一定の規模の範囲で起きている、住人や長期滞在者が慢性的な魔力欠乏状態を引き起こす現象。

 まるでその土地が魔力を吸い上げ、別地点へ移された魔力が魔性生物に影響を及ぼしているかのような。

 

「人為的なものか魔法災害か、区別はつかなくとも事例の共有はしなければならない……か」


 どちらであっても黙っていれば、他国に飛び火した時に責任問題に発展する。

 それに古代叡智の独占しているなどと誤解されたら、各国の均衡と共存も危うくなる。

 シルベスタ王国に封印魔術古書の大半が集まっていても、これまで問題にならなかったのは、誰も中身を確認できない書物をただ所有しているだけだったからだ。

 むしろ大陸最大の古代遺物である王城禁書庫があることを理由に、危険な封印が施された古書の保管維持を他国から押し付けられていたと言ってもいい。


「頭が痛いな……解錠技法は公開されていても、行使可能なのはレディ・リドルだけである以上、シスベスタ王国はその振る舞いを厳しい目で見られる」


 クリストファーは目頭をつまんで、ため息を吐く。

 だがまだ<深園の解錠師>の実力や解錠技法の実態について、どこも半信半疑だろう。


「おそらく『深園の書』自体、まぐれか奇跡的な功績と考えられているはずだ」


 クリストファー自身も解錠技法には感嘆しながら、相当実力のある魔術師の手を借りたと考えていたのだから。

 まさか、一人静かに本を前にし、ものの数分で「はい、できました!」と古書の封印を無効化してしまえるなんて誰も想像できない。


(魔塔内でも、ある程度の情報操作は行っている。あの投影術式は誤魔化しようないけれど)


 強い魔力とかけ合わせないと発動できない、恐ろしく精緻で高度な付与術式。

 ほとんどレディ・リドルの個人芸だ。

 いまのところ、驚くような魔術を使える魔術師が一人増えたのと大差ない。

 まだ説明すれば納得させられるとクリストファーは判断して、別の書類へと仕事を進めた。

 大陸会議の資料以外にも、彼が目を通しておくべき書類はいくらでもある。

 移動中も魔塔主として仕事を休んでいるわけではない。 

 片付けたいと考えていた仕事が片付いた頃、馬車は無事オアシスに到着した。


「どうも、毎度ご贔屓に! シルベスタ王国の魔塔主様ご一行はやはり風格が違う。町に入られたらすぐわかります。ええ、はいはい」


 手配していた宿の支配人による、調子のいい出迎えの文句は定型挨拶のようなものだ。他国の魔塔主ご一行と会っても、きっと似たようなことを言っているに違いない。

 この町は小規模だが空白地帯で唯一の補給地。どの国にも属さない自治区である。大陸最東部に位置するヴィルテンブルク帝国への陸路の経由地で、白亜の塔へ向かう魔術師だけでなく商人達も立ち寄る宿場町として栄えている。

 

「塔に派遣する魔術師の交代時期でね。いつもより大所帯だけど世話になるよ」

「心得ておりますとも。さあさ、どうぞ長旅の疲れを癒してください」


 クリストファーは穏やかに挨拶に応えた。調子はいいが、非常にやり手の支配人だ。

 宿の設備や建物もしっかりしているし、必要な物資の手配や積み込み、預ける馬車の管理まですべて請け負ってくれている。


「防御結界に問題はないかい?」

「もちろんです。閣下のおかげで宿の格も評判もぐっと上がっております」


 野盗や万一の魔物襲来の脅威から建物を守り、滞在中、外部からの魔術干渉を防ぐ自衛のための結界だが、宿の安全を謳う根拠となっているらしい。

 支配人と話しながら、簡単にクリストファーは結界の状態を確かめる。


(問題はなさそうだ。ネイサン・リドルの結界術を見た後では物足りなく思えるけれど)


 あの性格の悪さだ。攻撃を受けた方向へ、真っ直ぐ反射させるくらいは組み込みそうだ。

 強度も対竜仕様に仕上げそうである。

 

「いつも良くしてもらっている。お礼もかねて少し補強しておくよ」

「なんと、ありがたい!」


 そこそこの強度と覗き見と盗聴防止に施した認識阻害程度では、やはり物足りないと己が施した防御結界を下方評価して、クリストファーは支配人に滞在費を前払いし宿に入った。

 以降、シスベスタ王国の魔術師の定宿は、無駄に強固な防御結界によって守られることになった。



 *****



「それは本当かい?」

「ええ、ここまで酷いのは数年ぶりです」


 翌朝、朝食の席で、食堂までやってきた支配人からの報せにクリストファーは嘆息した。

 これから進もうという先に砂嵐が発生した。魔素嵐まで併発してしているという。 

 魔素は魔力の元となるもので、あらゆるものに含まれ周囲に漂ってもいる。

 この魔素がなにかの拍子に過剰に拡散されたり放出されたりすると、周辺で急激な魔力濃度の変動が起きる。

 それが運悪く砂嵐と結びついてしまった。数日は続くらしく、思わぬ足止めを食らう羽目になった。

 足止めは他国の魔塔主達も同様だから、大陸会議は砂嵐が去った後に延期だろうが。

 

「閣下に直々に防御結界を補強いただいて、我が宿は安心ですが」

「あくまで悪意と脅威への対策だ。そもそも、町全体の防御結界があるだろう?」

「砂壁が立ち上がるほど砂量が多く、魔力濃度も高いと観測台から報告がありまして」


 魔力濃度の高い砂嵐など、影響を受けやすい体質のクリストファーにとって、大迷惑な自然の気まぐれである。

 町の方向にやってこないのを祈るばかり。魔力酔い防止に適当に魔力も抜いた方がよさそうだ。


「魔物を呼び寄せるおそれがあると、おかげで朝から自治会の招集もかかって大慌てです」

「それはまた。できることがあるなら遠慮なく言うといい」

「ありがたいことです。白亜の塔の皆様あってのこの町ですから」


 さすがに如才ない。

 どの国にも属していないということは、どの国にも安易に頼れない。

 魔力消費がてら町全体を守る結界を補強したいくらいだが、ここはシルベスタ王国ではない。

 政治的に非常に繊細な面も持つ、空白地帯の中のオアシス自治区である。

 場を辞した支配人に見送って、クリストファーは同席の魔術師達に心づもりしておくよう目配せした。


「赴任早々、仕事があるかもしれないね」

「他国の魔術師と共同任務など望むところですよ」

「そう気負わず、仲良く各々の責務を果たしておくれ」 

 

 白亜の塔は、大陸各国の魔塔の精鋭が派遣され集まっている。

 クリストファーの言葉に部下の魔術師達が頷く。


「しかし会議に備え、仕事もあらかた片付けたのに。思いがけず暇ができた」

「ごゆっくりされてはいかがです? 日頃多忙なのですから」

「そうだね。こんなことなら書きかけの論文でも持ってくればよかった」


 もしくは王城図書館の会報誌。王城禁書庫に関するレディ・リドルの論考が載っている。

 同席の魔術師達は知らなかったようで、図書館界は盲点だったと口にする。

 魔術師ではないから、魔塔や魔術師が出す会報誌への論文投稿や寄稿はまずない。


「魔塔にいる彼女しか知らないので、魔術師じゃないってつい忘れますね」

「解錠師ではあるけれど、彼女は王城禁書庫の管理司書官だ。組織上は王城図書館の監督下かな?」


 クリストファー直属の研究員と意図的に囲い込む形にしているため、朝食の場に同席している魔塔の魔術師達でレディ・リドルと直接関わったことのある者はいない。

 それでも、魔術師じゃないことを忘れる認識かと、クリストファーは思いがけない発見をした気分だった。


「父上の直臣だから、職分においては大臣も口を出せないけれどね」

「あらためて、まだ子供なのにすごい地位にいますね……」

「子供って、レディ・リドルは十七歳だよ」


 部下の言葉に、クリストファーは苦笑する。

 たしかに小柄で、ぶかぶかのローブを着て縮こまっているから年齢より下に見える。


「十四、五歳に見えるけど、名実共にレディだ」

「それはそれとして……論文執筆もレディ・リドルの論考も、ゆっくりとは程遠く思えますが」

「どうして? 楽しいことにとれる時間はなかなかない。まったく浮いた時間が勿体無い」

「楽しい……」


 何故か微妙な空気が流れて、そこでようやくクリストファーは部下が勧めたゆっくりは「のんびり保養地を満喫」だと気がついたが、そちらにはあまり食指が動かなかった。

 朝食を終えて、滞在している部屋に戻るが、ぽっかり浮いた時間を持て余してしまう。

 宿であるから自炊などする必要はない。出張途中の足止め状態で新規の仕事もやってこない。社交の用もない。


「まいったな」

 

 それなりに高級宿の上等室は、寛げることに重点が置かれている。

 いかにも異国な色彩の多い部屋で、小型のベッドとして使っても支障ない寝椅子(カウチ)に半ば寝そべるように掛けて休みながらクリストファーはぼやいた。 

 正直、いまこんな時間は欲しくない。

 どうしたって考えてしまう。今世のクリストファーが置かれた状況について。

 

「まあ……冷静に現状整理するのもいいかもしれないけれど」


 五歳の時に回帰する人生の記憶を取り戻し、クリストファーは常に不遇だった人生を変えた。

 魔力を制御できない害を及ぼす王子として虐げられ、父フランシス王の傀儡として、腐敗し切った魔塔のお飾りの長として搾取され続ける。

 二十歳でセシリア・ヴァストを処刑した後、彼女の死と引き換えのように蘇る回帰の記憶に絶望し、虚無に囚われ、王命を受けて自暴自棄に『深園の書』の封印に挑んで打ち砕く。しかし完全解除には至らず、本に仕掛けられていた術によって命を失う。

 そんないつも手遅れだった、人生を。


「予測も制御もできない人生にして、“彼女”に悪影響が出てはいけないから」


 十五で王家を出て、魔塔の住人となり、十八で魔塔主となる道筋は変えずに、地位と力と居場所を手に入れた。

 セシリア・ヴァストの処刑を回避し、守れるように。


「だけど……今世は、これまで接点がなかった人物が多すぎる」


 魔塔やジェフは説明がつく。クリストファーが意図的に魔術師としての地位と居場所を固めた結果だから。

 過去の人生で、クリストファーが師と出会った時、すでにジェフは故人だった。

 魔力制御の権威。《漂泊》の魔術師マーゴット・ディズベリーと出会うのは、クリストファーが十五歳になっても魔力を制御できず王家を追われた後。

 マーゴットの愛弟子ジェフは、その二年前に竜討伐に参加し亡くなっていた。

 

「時期から考えて……ジェフが命を落とす竜討伐は、僕が《白焔》の二つ名を得た討伐だ」


 今世では、クリストファーは十歳でマーゴットを招聘した。

 だからジェフは生きていて、クリストファーの兄弟子となった。

 魔力過多を抑え込めなくなる十三歳になる前に、魔力制御を修得したクリストファーは竜討伐に行くようマーゴットに指示されて参加し、現れた翼竜全個体を撃墜した。ジェフの死亡は改変され、いまも彼は側にいる。

 魔塔の面々が異なるのも、クリストファーが腐敗し切る前にその芽を摘んでいったからだ。

 

「だが、レディ・リドルとネイサン・リドルは? これまで名前も聞かなかった二人だ」


 そもそもあの二人は、今世においても魔塔と無関係で突然現れた感がある。

 ヴァスト家の令息、アーサー・ヴァストも。

 セシリア・ヴァストと婚約していたのに、クリストファーは彼女の兄と交流したことがない。


「今世あれほど妹に過保護な男が、過去の人生ではセシリアの側どころかヴァスト家でも姿を見た覚えがない」


 どの人生でも顔を合わせるのは、セシリアの処刑後一度きり。

 王城の廊下ですれ違いざま「貴方が立場を明確にしていたら」と独り言のように呟かれるか、ヴァスト侯の流刑が執行される際に非難めいた一瞥を送られるか。

 クリストファーがセシリアの婚約者だった人生で、ヴァスト家はなにを抱えていたのだろう。 

 

「反対にあったはずの接点が消えたのは、セシリア……ヴァスト……」


 どの人生でも同い年の婚約者だった。

 しかし今世では年齢がずれて、クリストファーの五歳年下。

 クリストファーが己の境遇や兄との関係性を変え、後継者争いも起きず、円満に自ら王家を離脱したために彼を縛る婚約者自体が無用となった。


「最近になって未来の王太子妃ベアトリスに気に入られるまで、王家と接点もなく“幻の令嬢”と噂されるほど、他家とも交流がない」

 

 ベアトリスが彼女をクリストファーの婚約相手に勧めようとしているのは、繰り返す人生の強制力を感じて気になるものの、先日の夜会での様子を見る限り、かつての人生とは違い王家の誰もがセシリア・ヴァストに友好的だ。

 クリストファーの婚約者として王城にいたセシリアとは、まったく立場が異なっている。


「僕はいま二十歳。いつも通りの人生なら、秋にはセシリア・ヴァストを処刑する……」


 だが今世のいまの状況で、そんな命令が下されるなど現実的にありえない。

 なによりクリストファーにとって、最も大きな違いがある。

 セシリア・ヴァストが死んだ時ではなく、生まれた時に回帰の記憶が蘇った。


「……なんだ?」


 ふと、生じた違和感にクリストファーは黙り込んだ。

 砂粒がチリチリと窓を叩き、強風が木々をざわつかせている音が外から聞こえてくる。

 砂嵐の風がオアシスにも流れてきているのだろう。

 軽く目眩を感じてクリストファーは、魔力消費も兼ねて部屋の窓や外壁に防音結界を施した。

 室内が、耳鳴りがしそうな静寂に満たされ、しばらく黙考していたクリストファーは「違う」と唇を動かした。


「時期の問題だけで、記憶は毎回蘇っている」


 今世の境遇と周囲の人間関係を変えた要因としては大きいが、繰り返す人生の出来事としては常にそれは起きる。

 どうして、いまのいままで気がつかなかったのだろう。

 最も大きな違いは他にある。

 クリストファーの死の原因が、今世では彼の働きかけとは無関係に解消している。


「突然現れたレディ・リドルが『深園の書』の封印を完全解除した。っ……」

 

 ぐらりとまた目眩を感じて、クリストファーは上半身を起こして額を掴むよう手を当てる。

 はあっと息を吐いた彼は、数歩先にあるテーブルに向かって指を動かした。

 青紫の色硝子でできた水差しと杯が、銀のトレーに置いてある。

 魔術で水差しから水を注いだ杯を移動させ、手に取って飲み干す。

 余分な魔力を消費して、少しばかり気分も頭もすっきりした。


「僕が、『深園の書』の封印を解除しようとしたのは王命で……そう王命だった。何故父上はあの本を?」


 それも王自ら、王城禁書庫から本を持ち出してクリストファーに渡した。

 王城禁書庫。

 真っ白で広々とした無機質な空間に佇む、亜麻色のフードを目深に被った少女の姿が脳裏に浮かぶ。


「今世ではどうして魔術師でもない彼女が……三〇〇年誰も開けずにいた、危険な封印魔術古書などに挑んだ?」


 なにかが、おかしいと直感的にクリストファーは思う。

 どくんどくんと血が逆流するような不穏な鼓動の音が、気づけば彼の耳を塞ぐようにうるさい。

 

「どうして僕自身の意志で変えた以上に、僕が知らないところで大きな変化が起きている?」


 考えてみたら、ネイサン・リドルが出した出庫申請からしておかしい。

 クリストファーの元に届いた時には、魔塔を除くすべての承認が揃っていた。

 ヴァスト家の文献調査のための名義貸しだと思っていた。

 

「僕が大陸審議に持ち込んで承認合意が取れたのも、父上の承認があったからだ。“学究のヴァスト”が調査してなにかわかれば儲けものといった意見もあった」


 だが蓋を開ければその目的は、超一級封印魔術古書の封印解除。

 国王・王城図書館・封印古書管理会……王城図書館長はヴァスト侯だ。

 学術におけるヴァスト家の影響力は絶大、封印古書管理会も従うだろう。

 だが、国王は違う。

 

「本の出庫について王家はわざと魔塔に報告を怠った。魔塔を出し抜く事態となって……父上が最初から封印解除が目的と知っていなければ、そんな事態は起こらない。辻褄が合わない」


 レディ・リドルに称号を与えて直臣にする動きも早かった。

 国王とヴァスト侯、ネイサン・リドルの間で取引があった? 

 レディ・リドルの解錠技法を巡って?


「馬鹿な……成功の保証もないのに取引として成り立たない。父上が魔術師でもない少女に『深園の書』を任せるなんて……いくらヴァスト侯とネイサン・リドルであっても……」


 ぶつぶつと巡る考えを言葉にして、口から吐き出すのをクリストファーは止めた。


(逆だ)

 

 不可能だと誰も思うことを成し遂げられると確信していて、しかしその機会を得るのが難しい立場であれば信頼に値する仲介役を立てる。ヴァスト侯とネイサン・リドルは、父フランシス王からその機会を得る仲介役。

 だとしたら、国王に働きかけ『深園の書』を王城禁書庫から出させたのは――。


「レディ・リドル本人……」


 ガシャン、と。

 クリストファーの手から床に落ちた硝子杯が、音を立てて粉々に砕け散る。

 青紫色の硝子の、透き通った欠片が光る。

 あの薄青の瞳。

 真理を見つめる賢者のような眼差しが、どうしても繰り返す人生で見た菫色の眼差しと重なる。


「もしかして解錠技法は……父上と『深園の書』の内容となにかを引き換えにするために……」


 繰り返す人生でクリストファーの命を奪う本。

 王は直々に、本を彼に手渡した。王自身か王家にとって重要な内容があの本にあるのは間違いない。

 それに釣り合うような望みを、十五歳の少女が……そのために天才が、尋常じゃない努力をして必死に……。

 まるで己の命でもかかっているかのように。


「命……」


 亜麻色のフードを目深に被ったレディ・リドルの姿。

 小柄で、ぶかぶかのローブを着た……十七歳には見えない、平民育ちの子爵令嬢。

 怪しげな経歴は、クリストファーがどれだけ調べても綻びはなかった。


「……命。彼女の……ヴァスト家の……そんなはず……」


 だが父フランシス王に働きかけたのが、レディ・リドル自身なら話は変わってくる。

 王の協力があれば偽りの身分などいくらでも。彼女には契約精霊だっている。年齢も姿も変えて、クリストファーすら探れないほど巧妙に、架空の人物を装うことは不可能ではない。

 脱力したように、起こした上半身をクリストファーは倒した。

 

「まさか…………あるはずがない、ある……はずが……」


 微かに震えを帯びた両手で顔を覆い、うわごとのように繰り返し、頭の中で否定すればするほど根拠に欠ける確信がより強くなっていく。


「そんなことは、これまで一度も……」


 ずっと不思議だった。どうして五年も年齢がずれたのか。

 どうしてクリストファーが五歳の時、彼女が生まれた時に回帰の記憶が蘇ったのか。

 なにかこれまでとは異なることが起きている。

 もし、自分と同じように彼女にも――それは二人のセシリアが同一人物かもしれないこと以上に、クリストファーをかき乱す可能性だ。

 だが少なくとも今世の、いまのクリストファーを取り巻く状況や変化から一つ言えることはある。 


「今世を変えようとしているのは、僕だけとは限らない――」 


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