3-8:重なる姿とすれ違い
「“僕は敗者となるなら破滅を選ぶ! それで望みが叶うなら!”って、もう公開告白ですよ! “君のためなら死ねる!”ですよ!」
きゃあっ、と執行部の業務フロアで声をあげ、アルバスの制服の両袖をぶんぶんと上下に振るエヴァを見て、彼女のような力強い口調だったかな……と、セシリアは困惑する。
「コレ……エヴァ、さん」
ついコレット嬢と言いかけたのを、セシリアは言い直す。
セシリアは周囲にならってコレット嬢と彼女を呼んでいた。そうでなくても、魔術師は概ね社会的に高い地位につく。エヴァは学生で初級魔術師の資格を取り、アルバイトでも魔塔で働いているから将来有望なのは間違いない。
なのに、「私もジェフさんみたいに気軽に呼んで欲しいです!」とお願いされたので、セシリアも<深園の解錠師>様は止めてもらった。
「そ、そんな意味で、言ったのではないかとぉ……」
「でも魔塔主様、セシリア様には甘いじゃないですか」
エヴァの言葉を弱々しく否定しようとしたセシリアは、被せ気味に反論されてさらに困惑する。
甘いのではなくて、魔塔主としてフランシス王の臣下である<深園の解錠師>を懐柔しようとしているだけだ。
クリストファーが興味を持っているのは、魔術師とは異なる解錠師の知見。より正確には、セシリアが隠した『深園の書』の内容だと思う。それが魔術師としての興味か、魔塔主としての興味かは判断つけ難いけれど。
それに前々世の記憶と前世に読んだ小説知識で、クリストファーの非情さをセシリアは知っている。
(そもそもわたしを処刑した人で……前世とは違うと思っても、いまでも時々彼の目が怖い)
今世の彼はとても優しい。執行部の事務手続きカウンターで書類にペンを走らせながら、セシリアはクリストファーの微笑む顔を思い浮かべる。
けれどそれは、<深園の解除師>セシリア・リドルとして彼と接しているから向けられている表情だ。
「甘い? あのにこにこ魔塔主がですか?」
「そうですよ。アストレイ執行部長。セシリア様のためにお昼を振舞うし、距離も近めで、紳士的で王子さまみたいなこと言うし」
「みたいではなく元王子ですが。レディ・リドルは国王陛下の直臣です。魔塔主として気を回し、その地位を考えれば高位令嬢の対応に近くなるのも当然でしょう」
「……わたしも……そう、思い…‥ます」
セシリアとしてもキースの見解の方が納得できる。称号持ちの王の直臣である以上、セシリア・リドルは子爵令嬢ではなく伯爵位以上の身分と見做され、王城禁書庫の管理司書官の職分においては大臣も口を出せない。
(アストレイ様が彼のことを“にこにこ魔塔主”なんて口にするのは、クリストファー様の圧力を感じることがあるからだろうな)
クリストファーは微笑みながら、ほんのわずかな眼差しの向け方や声の調子で場の空気を支配する。彼の人を畏怖させる様は、セシリアの前々世の記憶にある彼よりもずっと巧みだとすら思う。記憶の彼はもっと人を寄せ付けない冷ややかな表情と態度だった。
エヴァはクリストファーのそういった一面をあまり知らないようだ。学生アルバイトだから威圧感を与えないよう接しているのかもしれない。
(いまのクリストファー様は、セシリア・ヴァストとどう接するだろう……)
書類を書きながら、ふとセシリアは考える。
幼い時に引き合わされ、婚約者となった前々世とは違う。
つい最近になって魔塔の中庭で偶然出会い、兄アーサーの背に隠れるように挨拶しただけの接点しかない。
呆れる内気さの令嬢に見えただろうし、記憶にも残っていないかもしれない。出来ればそうであって欲しい。
「でもっ、リドル卿のセシリア様への態度にも、すっごく怒っていましたよ」
「それは、せ、先生が、あまりに挑発的だったからだと……」
セシリアを懐柔しようとしながら、ネイサンに怒ったクリストファーがセシリアのために、魔力切れになるほどの死闘をしたのは事実だ。でもたぶんエヴァが興奮気味に訴えるようなこととは違うとセシリアは思う。
とはいえ、エヴァのような言われ方をすると、なんとなく気恥ずかしい。
しらずペン先の動きを早めて書類を書き終え、セシリアは作業用ローブのフードの端を掴むと、より目深に被るよう引っ張った。
エヴァから見れば、ただ照れて恥じらう姿でしかない。にまにまと緩んだ笑みを向ける彼女の視線に居心地の悪さを覚えながら、セシリアは手続きカウンターの向こうにいるキースに声をかけた。
「あ、ああのっ、アストレイ様っ……リトラの申請更新と始末書は……こ、こちらでよろしいでしょうか……」
「よろしいかよろしくないかを問われるのなら、そもそもよろしくないのですが?」
「はうっ……で、ですね……」
カウンターに置いた書類を取り上げ、きらんと光る眼鏡の黒縁を指で押し上げたキースの言葉にセシリアはびくんと首をすくめる。
上位精霊の使い魔を変異体リスと偽っていたのだ、なんらかの刑に処せられてもおかしくないところを始末書一枚で済んでいる。
(き、きっと……クリストファー様から便宜を図るようにアストレイ様に圧力が……たぶんお兄様からも……)
リトラはクリストファーのところで、“銀髪の捧げ物”ならぬ彼手製のクッキーを頂戴している最中だ。
上位精霊は魔法の頂点ともいえる存在。
リトラを見るクリストファーの氷色の瞳が、いつになくきらきらして見えたのは絶対気のせいではないとセシリアは思う。真意はともかく、クリストファーの魔法魔術への情熱は本物だから。
その皺寄せがキースやジェフに及んでいることが申し訳ない。縮こまるセシリアに、書類に目を通したらしいキースがため息を吐く。
「存在が存在です。馬鹿正直にされても迷惑ですから、変異体リスから高魔力環境変異生物への登録変更としておくのが妥当でしょう」
無愛想だが、セシリアを慮るようなキースの言葉に彼女は瞬きした。
セシリアが接する魔塔の人々は、不都合なことがあっても彼女を責めることなく受け入れようとしてくれる。前々世のセシリア・ヴァストの人生でも、別世界で生きた前世の記憶でもなかったことだ。
「あの、それでいいのでしょうか……」
「よくないと言っていますが? その上で問題にならないよう処理しているのでしょう? それが理解できない方ではないと思いますが、おかしな人ですね」
魔術師ではない者が使い魔を持ち、しかも上位精霊はさすがに波紋を呼ぶとクリストファーが言い、ジェフがこの登録変更の処理を提案した。魔法的存在である以上、ただの珍しい生物個体の登録では無理があると。
(大自然を司る魔力そのものな精霊を生物と扱うのは疑問だけど……実体も一応あればそう言えなくもない?)
魔法魔術にはそれに対応した法や法規制がある。
魔木や魔草、魔獣他、偶発的または人為的に魔力の影響を受けた動植物も、取り扱うには資格や登録がいる。
扱う者に最低限の知識がなければ危険であるし、善人ばかりとは限らない。
幸い、『解錠師』は正式に魔法魔術に精通した技能者と位置付けられ、知識においては上級魔術師相当と定義づけがされているため、セシリアが新たに資格を取る必要はない。
「それより……この備考欄の記述はどういうことです? リス、異形、ヒト型への形態変化あり」
「あ、えっと。そうなので」
「……考えても仕方ないので事務的に処理します。いいですよこれで」
塔内はなるべくリスでお願いしますと、眉間を揉みほぐしながらキースは言った。セシリアもそのつもりだ。あまりリトラのことをクリストファーに詳しく知られたくない。
本当は黒髪で菫色の瞳をしているセシリア・ヴァストの姿を、灰褐色の髪で薄青色の瞳をしたセシリア・ヴァストの姿に見せているのはリトラの魔法なのだから。
(この魔法、わたしが許容より強い魔力に触れると剥がれる弱点があるから……)
セシリアの魔力は七〇前後。けれどそれは古代遺物によって削られた魔力量のため、許容できる魔力はもう少し多い。一般的な上級魔術師くらいはあると思うが、なんといっても魔力値三〇〇のクリストファーが近くにいる。
「しかし……長く平民として暮らしていたにしては美しい字を書きますね、レディ・リドルは」
「へっ!?」
突然の、思いがけないキースの言葉に、セシリアは頭を小さく跳ね上げるほど驚いた。
そんなところに目をつけるなんて考えもしていなかった。言われてみれば、偽の経歴上、セシリア・リドルは貧しい平民として育ち、子爵家の養子になって数年。
魔法魔術の知識はともかく、名門貴族の令息にほめられる字を書けるのは明らかに違和感がある。
「まるで学園出や高位の貴族令嬢のようです……レディ・リドル、貴女……」
じっと、フードを被ったセシリアの顔を覗き込むように凝視したキースに、彼女は固まった。
アストレイ家は、ヴァスト家と家格がそう変わらない魔術家系の侯爵家。セシリアはキースと令嬢として面識はないし、家同士の付き合いもないけれど。
まさか、まさか、こんなことで見抜かれてっと、きゅっとセシリアは目を閉じる。
「魔法魔術の知識だけでなく、相当な努力をなされたのですね」
「え?」
「セシリア様って、お茶を飲む時の所作なんかもきれいですもんねえ。私もアルバスでお作法の講義は受けてますけど、なにか違うんですよねえ」
「一年二年、たまの練習で身に付くわけがないでしょう。大方、奴にしごかれたのでしょう? ネイサン・リドルに」
「え、ええと……」
「たかが子爵家の人格破綻者のくせに、妙に優雅ぶる奴でしたから……本当にっ、見た目だけは見た目だけはっ……奴の見てくれと外面のよさに『学園』の令嬢がどれほど騙されて……くっ」
アルバスでネイサンと同期生であったらしい、キースがなにやら思い出して怒りに身を震わせている様に、セシリアはよろけそうに気が抜けてカウンターの端を掴む。まだ心臓がばくばく音を立てている。
(よ、よかった……怪しまれてない。たしかにマリーとはまた違ったところで、ネイサンおじさまも厳しいから、ね)
結構小うるさいのだ。特に生活態度や魔法魔術を扱う者としての振る舞いには。
そういうことにしておこう、とセシリアはキースに小さく頷いておいた。
*****
執務室で魔塔主の決裁を待つ書類に目を通していたクリストファーは、ふと、時折物言いたげな視線を向けてくるジェフに気がついた。ソファ席の定位位置で彼はクリストファーの処理を待っている。
待っている間、彼の仕事もしているが気もそぞろだとわかる。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうかな?」
目を通し終えた書類を机に置き、ペンを取り上げてクリストファーは声を掛けた。ジェフは紙に計算を書きつけていた手を止めて、やはり物言いたげな困惑の表情を浮かべる。その葛藤の表情でクリストファーは察しがついた。
「レディ・リドルかい?」
承認の署名をしながらクリストファーが促せば、「うっ」と声を詰まらせたジェフに苦笑する。
大方、彼女に肩入れし過ぎではといった疑問と、そうはいっても規格外なものを次々と見せる彼女の能力の無視できなさと、クリストファーが彼女に対して個人的な思い入れがあるかどうか気になる、といったところだろう。
「当てずっぽうで答えてあげると。そうだね、彼女に期待するところは大いにある。理由はわかるよね? 僕を除いて、魔塔内で彼女のすごさを一番実感しているのは君だろうし?」
次の書類を左手に取りながら、からかうように言ったクリストファーの言葉に「ほっとけ」とジェフがぼやく。
魔術であれ、魔道具であれ、苦労して構築した己の術式を一瞬で解析されてしまうのは魔術師にとっては結構屈辱だ。場合によっては心折れる者もいる。ジェフはそれを<深園の解錠師>ことセシリア・リドルに何度もやられている。やった本人は無自覚かつ悪気なく。
「……お前、人が遠慮していたら」
「しなくていい遠慮されてもね。彼女に対して個人的にはそうだな……どういった人か知りたい、かな?」
「どういった、ね。普通に考えて王城から魔塔に対する牽制だろ。嬢ちゃんの繰り出す技法やあの計算・解析能力他諸々は魔術師にとって脅威だ」
「まあね」
「魔力がなくてあれだぞ。気弱で協力的だが、やっていることだけを見れば、小出しに力を見せつけるも同然だ」
ジェフの言い分は正しいな、とクリストファーはペンを持ったままの右手で頬杖をつく。
クリストファーの促しによってが多いが、なにかすれば予想の斜め上な能力を見せつけてくれるため、見ようによってはそう言えなくもない。
「おまけに使い魔に上位精霊……お前もなに餌付けしてんだか、ありえないだろ。精霊っていったら人間なんて虫ケラ同然。膨大な魔力を対価に契約で縛って、ようやく使役可能と俺は師匠に教わったんだが?」
「僕も同じだよ。けれど何故か僕にも懐いてくれているからね。“供物を捧げる銀髪”としてだけど、親しくなって損はないじゃないか」
「リドル卿の苦労もわかる気がする……俺も似たような規格外の弟弟子がいるからな」
「それはそれは」
ここぞとばかりにクリストファーへの嫌味までジェフが言ってきたのを、彼は軽く受け流した。
クリストファーも理解はできる。
(彼女自身が己の価値を自覚していない。かといって自覚させるのも無用の面倒を引き寄せそうなのが厄介だ。父上が立場だけ与えてあまり干渉していないのもそのためだろう)
王の直臣、<深園の解錠師>なんて大した称号を持っている少女は、とにかくおどおどと弱気で見ていて危なっかしい。
「あの臆病さと、自己評価の低さはやはり引き取られる前の境遇かな」
「そうじゃないか。少なくとも師とヴァスト家は嬢ちゃんを大事にしているようだし」
「そうだね」
しかし彼女の経歴は鵜呑みにしていいものか、とクリストファーは胸の内で呟く。
魔法魔術の知識だけでなく、引き取られて数年であそこまで到達できるものだろうか。挙動不審さとぎこちない喋り方や態度ばかりが印象に残るが、セシリア・リドルの基本の立ち居振る舞いはあまりに出来ている。
懐柔したくも打ち解けてほしくもあって接すると同時に、クリストファーは彼女のことを注意深く観察もしていた。なによりあの挙動不審さは、王族であるクリストファーの身分に対してではない。
(権威を嫌うネイサン・リドルやヴァスト家の教育と言われれば、それまでだけど)
以前、クリストファーがドレスでも贈ろうかとからかった時も動揺はしたが、貴族社会でどう見られ影響を及ぼすか、当たり前に理解している表情で反応だった。まるで高位貴族の家に生まれ育ったように……とはいえ常識的な令嬢の態度からは大きく外れる。嘘やごまかしも苦手なことも話していればすぐわかる。
貴族社会、王城や魔塔の間で企てに加担など、とてもできる性格ではない。
「正直、計りかねるところはあるけれど、本人に害意はない。王城からなにか指示されている感じも受けない。それは君もわかっているはずだ、ジェフ」
「まあ、それはな」
「もしあれが演技なら、僕より質が悪いね」
「自分で言うな」
クリストファーはくすりと笑んで、ジェフと話しながらさらさらとペンを走らせていた書類をまとめて揃えると、執務机の端に置き直した。
「はい、お待たせ。ペトラ病治療薬調合の術式改良に集中できないようなら、こっちを片付けて?」
「……わかった」
決裁し終えた書類を腕に抱え、執務室を出ていくジェフを見送り、さてと彼も椅子から立ち上がった。
白リス姿の上位精霊に捧げた供物はまだ残っている。手頃な大きさの小皿に余ったクッキーを盛って、クリストファーは向かいの部屋を訪ねた。しかしノックへの返事がない。
使い魔たる精霊を回収には来たが、帰宅はしていないはずだ。律儀な彼女はクリストファーがいる時は必ず出勤と退勤の挨拶にやってくる。
「失礼するよ」
再度ノックして反応がないのに、一声かけてクリストファーは彼が与えた研究室のドアを開けた。解錠師の少女の集中力は凄まじく、外界を遮断して計算や考察に耽っていることがよくある。
いまもそれだろうと考えたクリストファーの予想は外れた。部屋に入ってすぐ目に入ったのは、奥の机にフードを被った頭を突っ伏し、背中を丸めているセシリアの姿だった。
内開きのドアは開けたまま、クリストファーは椅子の背もたれに隠れそうに小柄な少女の側へと近づく。
「レディ……?」
広い机に、計算式を書きつけた紙が数枚散らばり、閉じた書類の束や参照していたらしい資料などが乱雑に積まれている。それを少し避けてクリストファーはクッキーを盛った小皿を置いた。
丁度いい位置にあった丸椅子に彼は腰を下ろし、フードの影から覗く寝顔を眺める。
こうして寝顔を眺めていると初めて会った日を思い出す。転んで額を打ち、いきなり目の前で気を失った。
少女の顔にかかったほつれた髪をクリストファーは指でそっと避ける。
どうやら今日はリトラは現れないようだと考え、そのことにはっと我に返り、はあっとクリスストファーはため息を吐いた。
「僕は……なにをしているんだ……」
小柄で華奢な体格もだが、顔も十七歳には思えないあどけなさが残る。
セシリアという名前と、ヴァスト家に縁があることでどうしても重ねてしまう。
回帰する人生でクリストファーの婚約者だった、侯爵令嬢のセシリア・ヴァストと。
(ヴァスト家の令息が魔塔にきていると聞き、偶然彼女とも出会ったけれど……顔はあまりよく見ていない)
今世の彼女は人見知りする内気な令嬢で、一緒にいた兄の背と被っていた帽子の影に隠れ、クリストファーに挨拶し終えるとすぐ彼から離れてしまった。貴族社会でも、長く領地で療養していた幻の令嬢と呼ばれている。
(僕はどこかで……レディ・リドルが、セシリア・ヴァストだったらと思っている……)
だが、さすがにそれは妄想が過ぎる。
第一、セシリア・ヴァストであれば身分を偽る必要がない。ヴァスト家は王の忠臣。その娘の偉業を権力の偏りを考慮し隠すことにしたにしても、クリストファーにまで隠すのはおかしい。
魔塔を牽制するなら、ヴァスト家に縁の平民上がりの子爵令嬢より、ヴァスト侯爵令嬢の<深園の解錠師>の方がより強い。
「……ん、ぅぅ……」
不意に眉根をぎゅっと寄せて小さく呻いたセシリアに、クリストファーはとっさに机に散らばる紙の一枚を抜き取り、彼女が目を薄く開いたのを見てもう一方の手でクッキーを手に取った。
「ぅん……ふえっ……んんっ!?」
目覚めてすぐそばにいるクリストファーに驚かれるより先に、彼はセシリアの口元にクッキーを差し込んだ。
大きく目を見開き、もぐもぐと口を動かしたセシリアに少々ほっとし、手にしている紙に書かれた計算にさっと目を走らせる。
(なに焦っているんだ……僕は?)
いま一つ状況が掴めていない表情でクッキーを食べ終えたセシリアに、クリストファーはにっこり微笑んだ。
「おはよう。もう一枚いる?」
ふるふると首を振ったセシリアに「そう」と答えつつ、手は反対に次の一枚を取ってクリストファーは再び差し出す。
「でも、疲れているみたいだ。はい」
「い、いいです……っ」
「そう?」
クリストファーはセシリアに差し出したクッキーを自分の口元へ移動させて、三口で飲み下すとお茶も入れてくればよかったなと、思ったことをそのまま言葉にして呟いた。
「これは、ペトラ病治療薬の調合式?」
「え? あ……はい。ジェフさんの……強壮煙草の術式に、治験結果のデータから割り出した数値と合わせて……特に変調はないですか?」
「朝に尋ねられた時同様にないよ。それにしても……魔力切れを起こした僕とリドル卿を見るやすかさず治験提案とはヴァスト家の令息殿には恐れ入った。たしかに上級魔術師の検体なんてそう発生しないけど」
「も、申し訳っ……」
「朝も言ったけど、どうして君が謝るの? 最終的にジェフが許可しているし、別になんともない」
ペトラ病治療薬は魔力濃度は高いが、成分自体は害になるものはないとわかっていた。だからこそアーサー・ヴァストも提案したのだろう。五日経つが特に体調も問題ないし、そのこと自体は特に気にしていない。
回帰する人生では、実験体としてもっと非人道的な魔法薬を投与されていた。
問題は、“魔塔で実験体となる”といった出来事が避けられなかったことだ。今世では、実権を持つ魔塔主となっている。いまの立場で被験者にされるなんて本来ならあり得ない。
(それでも形と理由を変えてそうなった……これまで人生の大枠の流れは自分の意思で変えないできたと思っていたけれど、これではまるで決められた出来事は強制的に起きるみたいじゃないか)
クリストファーが黙り込んでいたからだろう、セシリアが不安そうな表情で見ているのに気がついて彼は軽く肩をすくめた。
「ああ、一緒に休憩でもと思ってね。眠っていたから戻ろうとして、君の計算していた紙が目に入ってつい勝手に手に取ってしまったんだ。これ、ジェフも改良していたけれど行き詰まっていたみたいだから、二人で考えを持ち寄ってはどうかな?」
クリストファーとしては、我ながらかなり苦しい言い訳だと思ったが、セシリアは納得したらしい。少しほっとしたように表情がゆるませる。
「はぃ……あ、でもっ」
「ん?」
「そ、その計算は……その、あくまで治験結果からの作用の推測で……」
「うん」
「おおよそだから正確さに欠けて……役に立たない、かも……」
ぱさ……と、クリストファーの手から床へ紙が落ちた。
怪訝そうに彼を見て口を動かしているセシリア・リドルの顔を見ながら、クリストファーの意識は過ぎ去ったはずの人生の記憶の中にいた。
ヴァスト家の王都屋敷の庭。引き合わされた同い年の八歳の黒髪で菫色の瞳をした少女。
土に枝で書かれた計算式。そして――。
『あの……いまになって、気がついたのですが……』
『うん』
『おおよそだから正確さに欠けて……役に立たない、かも……』
交わした会話と少女の言葉。
あの時と、一字一句同じ言葉と申し訳なさそうなその調子。
「あ、あの……クリストファー様?」
「っ、ああごめん、手が滑った……」
落とした紙を拾い上げたらしい。セシリアが手にして差し出しているそれを受け取って、クリストファーは元あった彼女の机に戻す。
「用があったのを思い出したから失礼するよ。それ、差し入れだから食べて」
「……はい、ありがとうございます」
きちんと表情や態度を取り繕えていたか、部屋を出る歩みがおかしくなかったか。
音を立てず、セシリア・リドルに与えた研究室のドアを閉めて、クリストファーは額に手を当てて彼の執務室がある壁に寄りかかった。
(いまのは……偶然か……?)
用があるのは嘘じゃない。本当に王城に呼ばれていたこともクリストファーは思い出した。
自分でも何故こんなことでと思うほどの動揺を抱えながら、魔術戦のことだろうと王城へ、父フランシス王の元へ出向けば、それもあったが招待状を手渡しされた。王家主催の夜会の招待状。
「いただいて、欠席の返事を出しましたが?」
「シーズン最初の夜会くらい顔を出せ」
いまのクリストファーの身分はロウル公爵だ。だが、魔術にしか興味がないと王家を自ら出た者として、王家主催の夜会をはじめ、この手の様々な貴族が集う夜会への参加は必要最小限に控えている。
父親の真意は不明だが、欠席の返事をした夜会の招待状を再度王から手渡しされるということは、必ず来いといった命令である。
王太子の兄の婚儀も近いから、あらためて彼らに膝でもつかせたいのだろうかと考えながら、クリストファーは臣下として承知の意を返した。
クリストファーが知る回帰人生のセシリアは魔力抑制の古代遺物の不正を知りません。
いまのセシリアとはかなり人物イメージが異なるため、希望に近い疑念程度でセシリア・ヴァストとレディ・リドルが直接結びついていません。でも気にかかる。
セシリアは記憶だけで、当時の感情はほとんど引き継いでおらず(前々世の記憶は映画を見ているよう)そのためクリストファーの背景は知らず、冷淡で処刑者となる婚約者だった人でしかないため、今世の境遇改善をした彼のギャップに戸惑っています。
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