2-9:遠い過去と師匠
悪夢はいつも生々しく、過去をクリストファーに突きつける。いくつもの過ぎ去った人生を――。
あの少女、<深園の解錠師>の薄青い瞳が、彼がかつて焦がれた少女の眼差しと似ているから、記憶を揺り起こされたのだろうか。見たくもない夢なのに……。
*****
十三歳までは幸せだった。
ヴァスト家の王都屋敷で、月に二度の婚約者の少女との逢瀬。
明るく、温かで、優しく、心踊る時間。
それが当時のクリストファーの人生の希望すべてといってもよかった。
(その時だけは、僕は第二王子で、可憐で愛らしい令嬢の婚約者だった)
薄暗い森の中のような場所にある、うらぶれた離宮に隔離された隠されるべき王族とは違う。
手枷足枷のような魔道具を装着されて隔離され、定期的に身を焼かれるような高熱にもがき苦しむのは、クリストファーにとっては、まだましな日常だった。
それに婚約者の少女が計算した魔道具の効果日数を参考に、その頃は魔力過多の症状も落ち着いていた。
けれど、少女の元に王子妃教育の命が届き、ヴァスト家での逢瀬が途絶えた頃から、クリストファーの魔力は段々それまでのように安定して抑えられるものではなくなっていった。
(魔力は成長期に一番増えるからな)
最悪なのは、身の内の魔力がクリストファーの体を苛むのにも飽きて外部に放出された時。
術式も制御もない魔力放出――魔力暴走は、離宮の中を荒廃させた。カーテンや床や石造りの壁までをも切り刻み、焼いて、壊した。それに荒廃したのは建物ばかりではなかった。
(幼く小さい内は、僕に同情的で親身に世話をしてくれる使用人もいた)
優しく額を、冷たい水に浸して絞った布で拭いてくれる、メイドの姿を夢の中に見て、クリストファーは思う。
(この子が僕の魔力暴走で、手足も顔も胴体もめちゃくちゃに切り刻まれたのは、この何年後だった?)
兄妹で仕えてくれていた。侍従だった兄と共にクリストファーに対し弟のような親しみを持って。
だが切り刻まれた妹の姿に、侍従は豹変した。
魔力暴走の波が引いた後、今度は魔力欠乏で動けないクリストファーを責めて、殴り蹴り続けた。それを止める者はいない。
(十五歳で離宮を出されるから、十四の頃か……セシリアも王城にいる頃だ)
もうその頃は、第二王子は魔力暴走で亡くなったと示し合わせても疑問に思わないくらい、使用人達に疎まれていた。兄妹で仕える二人だけが、同僚を失っても「王子に罪はない」と言ってくれていた。
泣き叫び暴力を振るいながら「来月結婚する予定だった」「何故っ」「返せ返してくれ」「どうしてお前は生きてるんだよ、化物!」と詰り続ける侍従に、クリストファーは抵抗しなかった。
普通の人の一生分以上の呪詛を浴びせかけられながら、ただ化物は退治すべきだと考える。
(でも彼等にはできない。僕が王子だからではなく、彼等の良心がぎりぎりで踏みとどまらせる)
対外的にクリストファーはここではない離宮で療養していることになっている。
打ち捨てられたような離宮で、問題のある王子の世話を任せられるのは、口が硬く忠義心のある者ばかりだ。
彼等の矜持を嘲笑うような危害を与える、クリストファーは憎まれて当然だ。
(彼等には僕を憎み、報復する権利がある)
けれど、セシリアが心配だった。
王宮で王子妃教育を受けている彼女に、クリストファーへの憎悪が飛び火しないだろうか。
軋むベッド以外に調度はない、鉄の扉を取り付けた部屋から出られない彼に、王宮の様子を知る術はない。時折毒の混ざる食事をとり、王族として必要な学問や魔術の知識を勉強する日々。
気休め程度に魔力を抑える魔道具と、書物と課題だけは届けられていた。
とても王子の境遇とは言えないが、それでもクリストファーは己を律することができるうちは、王子らしくあることを忘れなかった。
(彼女に、セシリアに相応しい、婚約者でありたかった)
なにが起きても平然としている血も涙もない王子と、使用人達の憎悪を煽ってもいたが、その頃の彼にとっては、唯一自分自身を保つ手段だったのだ。
けれど後の事を考えたら、そんな手段は手放して正気を失っていた方がよかったのかもしれない。
(長年、魔力過多に耐えた体は異常な魔力耐性がついて、魔力の作用で毒や薬の効きも悪い……本当に化物となり生きのびた)
クリストファーは恵まれた資質を持った王子だった。だからこそ王家も魔道具や教育を与えるのを止めなかった。
しかし、王族として必要な学問はともかく、魔術は独学では限界がある。
魔力暴走を抑え込めるようになっても、制御が効かない。
(結局、王族として見切りをつけられた。貴族社会で僕を持ち上げる者も出始めて都合も悪かったのだろう)
第一王子派閥と第二王子派閥に、クリストファーが知らないところで貴族が割れていたらしい。食事に毒が混ざるのもそのためだったようだ。
後継者争いは表面化し、クリストファーは魔力が不安定な王子であり魔塔で修養することが発表された。
老いて政治から遠のいた公爵の養子として臣に下り、将来は兄である王太子を支え王家に尽くすとも。
(後継者争いに敗れ、王家から追放されたも同然。だが、ほっとした。王城のセシリアは派閥争いから逃れ、ただの侯爵令嬢になると……救い難い愚かさだ)
夢の中で、きらきらと華やかな光が乱反射する。
ああ王城の夜会だなとクリストファーは思った。
よく覚えている、十六の時だ。
魔塔で偶然に師となるマーゴット・ディズベリーと出会い、魔力の制御ができるようになった後。
上級魔術師の資格を得た次期公爵として、初めて公の場にクリストファーは招かれることになった。
――あいつはまだ王位を狙い、巻き返しを図ろうとしている。
ろくに会ったことも言葉を交わしたこともない、王太子となった兄が過剰に反応し、決裂は決定的になった。
(セシリアの人生が過速度的に狂わされていったのも、この頃)
十三歳で離れて以来、初めて王城で見た成長したセシリアは本当に美しかった。
長く伸びた黒髪は艶やかで、菫色の瞳は幼い頃と変わらない、神秘的で真理を見つめる眼差し。
静かな佇まいと品格は王子妃教育によるものだろう。
兄の婚約者が華やかな庭園に咲く大輪の花であれば、セシリアは月下に一輪だけ咲く白い百合だ。儚げなのに高潔で近寄りがたい、人はその神聖な美しさの前に息をのむ。
(だけど侯爵家の屋敷にいた彼女の大らかな雰囲気は消え、薄く微笑むだけの人形みたいになっていた)
そして周囲の人々の悪意ある囁き声でクリストファーは、セシリアの境遇を知った。
「政務に口を出すと、いくら“学究のヴァスト”の令嬢でも賢しさが先に立つのは」
「元第二王子の婚約者がおこがましい」
「だが魔塔で上級魔術師になっては、陛下の考え次第でわからんぞ」
「王太子殿下の警戒も無理はない。いつまでも王城に居座って……」
「まったくだ、“問題を抱える第二王子を支える婚約者”と王家を食い物にして」
「高潔そうな顔して、大した令嬢ですこと」
同じ大広間にいるセシリアに、人々の噂話が聞こえないはずがない。
クリストファーが臣下に落とされても、セシリアとの婚約は王命で継続された。
王命がなくても、ヴァスト家は破棄などできない。
最初から、“問題を抱える第二王子を支える婚約者”として扱われていたなんて。
いまの状況ではやはり王位狙いだったと非難は強まり、次の相手など王家の目を気にして現れない。
クリストファーはその時になってようやく気がついた。
(セシリアは、王家が僕にはめた足枷だ)
強い魔力を持つクリストファーが、万一王家を危うくする存在になった時、彼を縛るための鎖。
王家の忠臣で権力欲が薄く、理性的なヴァスト家の娘だから選ばれた。
(最初からセシリアなら心を通わせると目論んで……気を許すべきじゃなかった)
周囲がクリストファーに気がついてざわめき、セシリアも彼に気がついた。
菫色の瞳が大きく見開かれ、その表情が柔らかくほころびかけたのを見て、とっさにクリストファーはセシリアから目を逸らし、彼女がいる方向とは異なる方向へと足を向けた。
(彼女を、僕に、王家の都合に縛りつけてはいけない!)
クリストファーはセシリアから距離を置き、無関心を装った。
セシリアやヴァスト家がクリストファーを見限るか、王家がクリストファーの人質として価値がないと婚約を解消することを願って。
同時にクリストファー自身は、王家に己の価値を示す必要があった。
価値を示し、王家に貢献を誓えば、セシリアとの婚約を円満に白紙する交渉ができるかもしれない。
彼女に相応しい相手との縁組みも、そう考えていたクリストファーは本当に愚かだった。
価値を示せば、王子に戻される可能性が出てくる。王子妃教育が間に合う令嬢はセシリア以外にいない。
(僕を貶めるために、セシリアは悪意の標的にされた……)
冷ややかで高慢で、“問題を抱える臣下に落ちた元王子”の婚約者でい続ける。
王家に恩を売り、王城に寄生する侯爵令嬢。王家を食い物にする悪女。
彼女の悪評は、市井にまでも広がりつつあった。
(僕がどう動いても、セシリアの批判につながり彼女の立場を追い詰める……かといってそれを覆せる権力も立場も僕にはなにもない……!)
クリストファーは王家の傀儡にすぎない。
そしてあの命令が下された。
セシリア・ヴァストを、父親と共に王家を食い物にした悪女を、その婚約者である王族として断罪処刑し王家の名誉を守れと――。
*****
「あら、この子ったらまた冷や汗かいてうたた寝してるわ」
額を撫でる手に、クリストファーはびくっと頭を揺らし目を覚ました。
目に映った場所は、彼が知る人の邸宅の応接間だ。
庭に面したその部屋に通されて、ソファに腰掛け邸宅の主を待っていた。
「魔塔主になって二年? 三年? それなのにいつまでも小さな子供ねえ」
「二年ですよ、師匠」
艶めかしい玲瓏とした声。
クリストファーの背後から首に回されたすらりと長い二の腕と、白ローブの肩を滑り落ちた波打つ鉄錆色の長い髪に、若干迷惑そうなため息を吐いて淡々と彼は答える。
応接間の暖炉、マントルピース上部の鏡に、クリストファーと彼の頭を撫でる年齢不詳の女性が映っていた。豊満な細身に沿う赤いドレスを着て、黒に金糸の輝きを散りばめた上級魔術師のローブを羽織っている。
「師匠は、今年で御歳六十四でしたっけ?」
「まっ、この子は本当に可愛くない!」
ぺしと後頭部を軽く叩かれる。
実年齢はクリストファーが口にした通り。しかし見た目は四十前後の妖艶な美女である。
肉体の魔力耐性の維持と魔力消費のため、成長を著しく停滞させている。
彼女はクリストファーが魔術師になる前は、この国で唯一の限界値超え魔力を持つ魔術師だった。
「まさか一度の訪問で、お会いできると思っていませんでした」
「人間不信のクリスちゃんが、一人の女の子のためにとぉーってもがんばってるもの。恋バナ聞きたいじゃない?」
クリストファーの頭の右側、背中を向けて背もたれに腰かける師匠の言葉が面倒くさい。
「そういうの、弟子に嫌われますよ。新規技法登録を承認いただいてありがとうございます」
「魔術魔法審査会理事として当然。あれ読んで認めないなんて、魔術師としての感性を疑うわ」
旅好きの魔術師が趣味に走った結果、編み出された魔術は、人や物質を任意の場所から場所へ転移させる唯一無二の転移魔術。
正確な座標計算と芸術的な魔力制御によって成されるそれは、いまだ誰にも出来ない点でセシリア・リドルの解錠技法にも通じるものがある。
《漂泊》の名を持つ、最高齢の現役二つ名持ち魔術師。
マーゴット・ディズベリー。クリストファーの魔術の師匠であった。
「恋バナじゃなければ、なにをしにきたのかしら? 久しぶりにむっつり溜めてる魔力を出してほしいの?」
「卑猥な言い方はよしてください。師匠と模擬戦なんて疲れることはごめんです」
模擬戦とは実践訓練の一種で、特殊結界内で行う魔術戦闘のことだ。
個人戦、団体戦、勝利条件の設定など様々なパターンがあるが、マーゴットの場合、一対一でどちらかの魔力が尽きるまで絞られる戦闘一択である。
「もうっ、まだ二十歳のくせに元気のない。ジェフちゃんはどうしてる?」
「よく働いていますよ」
「貴方が働かせているのでしょう。かわいそうに」
クリストファーの背後で、ふわりと波打つ長い髪が赤くゆらめく。
その一瞬後には、彼の前にお茶の入ったカップが現れ、向かいのソファに足を組んで寛ぐマーゴットが淑やかな仕草でカップを口に運んでいた。
相変わらず、見事すぎて言葉も出ない転移魔術だ。
クリストファーは出現したカップを手に、静かに口元へと運ぶ。
「旅を愛する師匠に、お聞きしたいことがあって訪ねました」
肩をすくめたマーゴットが、綺麗に磨かれた爪の指先を向けてきてクリストファーは黙った。
説明は不要といった、師の制止だった。
「東部支部。辺境伯家の二級封印魔術古書……まあ<深園の解錠師>の技法を見たかった気持ちはわかるけど」
「流石……静かに動いたつもりだったのにな」
「クリスちゃんはなんていうの? 堪え性のなさがダメなのよ。せっかち、性急。魔術もそういった性格が出てるし……東部支部には功績を、辺境伯家には費用諸々を保証で魔塔案件にしたでしょう?」
「それが一番早い……」
「情熱的ともいえるけど、がっつく男の子は嫌われるわよ?」
「どうしてそう言葉選びが猥雑なんです? それで、ご存知なんですか?」
ソファの背もたれに深く身をあずけ直し、声には若干の強制力を込めてクリストファーはマーゴットに訊ねた。
「すぐ拗ねるんだから、王子様ねえ〜」
「……師匠、こちらは真面目に聞いてます」
「出会った時から怒りっぽいんだから。十歳の王子がようやく見つけたって熱烈に口説いてきて、断ったら拗ねて魔力暴走おこしかけちゃうし。ま、向かう途中で作らせたジェフちゃんの魔道具と鉄拳制裁で一瞬だったけど」
マーゴットは、彼の今世の境遇を変える絶対条件の人だ。
十五歳で王族として見限られる前に、できるだけ早く、魔力制御を完全にする必要があった。
なのに旅好きの魔術師は、転移魔術もあって居場所がつかめず焦っていた。
回帰する人生で十六歳で出会う人だが、それでは遅すぎる。
それに魔道具で魔力を抑えられるのは十三歳まで、以降は捜索のための人も使えなくなる。
(結局、ひどい魔力暴走は、ジェフの魔道具で起こさずに済んだけれど)
「師匠」
「こわいこわい。そうね、ペトラ病の流行なら二度見たけれど……ひどいものよ。発症すれば徐々に衰弱し二度と起き上がれなくなる。大人も子供も関係なく。性別もね」
長年、各地を渡り歩いている人ゆえに、シルベスタ王国のあらゆる場所に詳しい。
二度も流行に遭遇しているとは、さすが年の功だ。
大人も子供も関係ないということは、耐性のようなものがないかあっても影響が薄いということか。
「それに、伝染病というには兆しもなく起きるのよね。たしかに最初の発症群、次の発症群とくるけど……風邪みたいに感染る雰囲気じゃないのよ。あの地域は竜害もよく起きるのに大変よね」
「竜害?」
竜害は、人外災害の中でも最悪の部類に入る厄災である。種にもよるが、竜一匹が暴れたら、そこらの魔獣の群れの害の比ではない。理性を失った狂化竜など、土地を捨てて逃げろとさえ言われるが、現実はそうもいかない。
「それも狂化竜が多いの、大樹海に近い辺境だからかしら。でもあのあたりは地形的に独特の魅力があって避けようって思えないのよ……まずね冒険心をくすぐる」
ごほん! とクリストファーはわざとらしい咳払いで師の話を中断した。
旅や土地の魅力を話しだすと、一日半は付き合わされる。そんな暇はクリストファーにはない。
「ああ、本当……その、することしたらすぐ背を向ける態度!」
「師匠、言い方に悪意がある」
「親切心よ! いまのうちに直さないと、大事な子ができた時に苦労するわよ。根はいい子なのに伝わらなくて、冷たいって思われるんだから。せっかく久しぶりに会ったのに……」
「申し訳ありません、色々と仕事が溜まっていて」
「まあ楽しい子が現れては仕方ないわね。ああそういえば……あの子の名前も久しぶりに見たわねえ」
口元に人差し指を当て、なにか思い出すように上目に天井へ視線を向けたマーゴットに、「あの子?」とフリードリヒは目を細める。
「ネイサン・リドルよ。生きてたのねえ……てっきり教え子にやられたのかと思ってた」
「ずいぶん物騒ですね」
「だって、教え子の大半が二つ名持ちに育っちゃう、“アルバスの悪魔”だもの。教え子ながらあの子にはちょっとうっとりしちゃった時期があるから。生きててうれしいわ」
ネイサン・リドル。面識はないがその存在をなにかとクリストファーに意識させる男だ。
<深園の解錠師>の師。それとなく調べたが情報が少ない。元アルバスの教授であることは知っていたが、“アルバスの悪魔”などといった呼び名は初耳だ。
気になるが、うふふっと意味深に笑む師に、聞きたくもない話が出てきそうで問い質すのはためらわれる。
「どういった魔術師です?」
クリストファーの簡単な質問に、そうねとマーゴットは何故かじっとクリストファーを見て黙った。
なにか嫌な沈黙だ。
「クリスちゃんとは相性最悪かしら。もし彼と模擬戦になったら初回は負けちゃうかも」
とても愉しげに目を細めるマーゴットの表情は気になるが、クリストファーはソファから立ち上がると彼女に近づきその手を取った。慌ただしく聞くだけ聞いて去るのはたしかに気が引ける。
「急な訪問にも関わらず、色々とお教えいただき感謝します。敬愛なる師匠」
儀礼的に手の甲にクリストファーが頭を下げれば、愛想だけはいい子なんだからと、まるで母親のように頬を撫でられた。
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