032 姿を消すヒュー
寒かった街に、ぽつぽつと春を告げる空気が舞込むようになった。朝起きて顔を洗う水の冷たさが和らいできたし、道端に小さな青い花が咲いているのを見かけるようにもなった。キャロルは、春だなと季節を感じていた。
こんな感情もキャロルにとっては当たり前のことだけれど、きっとカロリーナには新鮮なはず。心なしか、春を迎えたことにどこかワクワクしている自分がいる。
それに、春は貴族にとっても待ちに待った季節。冬の間、屋敷の中でじっとしているしかできなかった貴族たちが社交活動を開始する。きっとこのタイミングで、公に王太子とララのお披露目もあるはずだ。
その時に、キャロルが撒いた種がどうなるのか自分でも未知数でドキドキしている。自分が思った通りに嵌ってくれれば大成功だが、失敗すれば何も残らない。それでも、その時はその時だとキャロルは開き直っている。すでに全てを失っている自分には、怖いものなんてないのだ。
キャロルが撒いた種は、王太子ディルクとララの醜聞。それに加えて、隠されて育てられた第二王子アルベルトの話。この二つの話は、スキャンダルで面白く暇な下町の住民の間でかなりの話題になっている。最初はキャロルが流した通りの話ばかりだったが、人の口に登る度に話に尾ひれがつき今ではディルクとララの二人は悪の代表だ。
それは、ちょっと前のカロリーナみたいでなんだか不思議だ。しかも、悪女カロリーナが、無理やり婚約破棄された可哀そうな令嬢扱いになっている。今では、悪役の立場が逆転していて面白い。このことは想定外の産物で、キャロル自体驚きつつも自分が目指しているものに対して追い風となっていて満足している。このまま、キャロルの思った通りにことが運ぶことを祈っていた。
充分、街に噂が流れていることを感じたキャロルは、話を流すのを終わりにした。後は、その時が来るのを待つのみだと粛々と毎日の仕事をこなす日々。
そんなある日。
いつものように、夜の仕事にでかける為に店を出てヒューがいる時計台の下に行くと待っていたのはビルだった。
「こんばんは。あれっ? 今日もビルなの?」
「俺でごめんねー。キャロルは、ヒューの方が良かったよねー」
ビルが、笑いながらそう返事をする。
「えっ。そんなことないわよ……。でも、いつもヒューが来てくれていたから……」
夜の仕事を初めてからこの数ヵ月、基本的にはヒューがずっと送り迎えをしてくれていたので、キャロルの中でそれが当たり前になっていた。二日続けてビルが来ることはなかったので、ヒューが来なかったことにちょっと寂しさを感じていて驚いている。
「あいつ、何も言ってなかったかー。実は、事情があって当分あいつ来られないんだよね。俺で悪いんだけど我慢してね」
「いえ、そんな……。むしろ、送り迎えしてもらっている私の方がおかしいのだし……。忙しいのなら、もう大丈夫よ? 私もこの街に慣れたし」
「いや、それは大丈夫。キャロルに何かあったら、俺が怒られるから。さっ、遅れるよ。行こう」
そう言って、ビルが歩き出す。キャロルもその背中を追いかけるように足を進める。キャロルは、ヒューに最後に会った時のことを思い出していた。
ヒューに会ったのは、夜の仕事の休みを二日挟んでいるから四日前になる。こんなに顔を合わせなかったのは、レストで働き始めてから初めてだ。
最初の内は、お互い何も会話をせずにサティオとレストの行き来に一緒に歩いているだけだった。それがいつしか、一言三言話すようになって最近では会話しながら歩いているのが普通になっていた。
どんな食べ物が好きだとか、今日はサティオでこんなことがあったとか、サティオの旦那さんのご飯が美味しくていつも幸せなのだとか、そんな他愛もない話だったけれど、キャロルの中ではそれがいつしか楽しみに変わっていた。
友達のいないキャロルには、自分の話を聞いてくれる唯一の人だったから。修道院で知り合ったマリーとは、手紙のやり取りはしていたがそれとは別だ。深くそのことを考えたことなんてなかったけれど……。でも、ヒューの話を聞くのも楽しかった。普段は言葉数が少なくて積極的には話さないヒューだったけれど、キャロルが聞いた問いかけには答えてくれていた。
サティオでの食事は、クリームシチューが一番好きなこと。自警団に入ったのは、家族が暮らすこの街の治安を守りたかったからだって教えてくれた。それを聞いた時には、最初に会った時とは全く違う印象をヒューに持った。
ぶっきらぼうで不愛想、口を開けば失礼な男だったのが、実は普通の家族思いで優しい青年だった。キャロルの中で、彼が占める割合が段々大きくなっていた。
四日前の別れ際、ヒューは何て言ったのかキャロルは思い出す。
「もう余計なことはせずに大人しくしておけよ」
「余計なことって何よ? 私は、いつも真面目に働いているだけなんだけど?」
「ああ、本当にな。びっくりするくらい一生懸命働いていたよ。何がお前を変えたのかのかね? じゃーな、また」
意味深なことを言っていたが、キャロルは暗にカロリーナのことを言っているのだろうと深追いはしなかった。
それに、またって言っていたから突然会えなくなるなんて思っていなかったのだ。さっきのビルの言葉を聞くに、四日前にはもう会えなくなることはわかっていたはずなのに……。
(何で何も言ってくれなかったのだろう……)
「キャ!ロ!ル!」
呼ばれて、ハッと頭を上げる。するとビルがレストの入口の前で自分を呼んでいた。
「さっきから何度も呼んでいるのに、どうした? お店についたよ?」
「ごめんなさい。考え事をしてて……。今日もありがとう。あのっ、本当に忙しいなら迎えは大丈夫よ?」
「いや、ちゃんと来るから。一人で帰らないでよ。じゃーまた。仕事頑張って」
ビルは、あっという間に夜の街に消えていった。キャロルは、ヒューのことは頭から無理やり追い出しレストの扉を開ける。お店に入ったキャロルは、頭を切り替えて夜の仕事に向かった。
それから数日後、ヒューが戻って来ることはなく王太子と婚約者のお披露目が公に告知された。





