第18話 エフェス子爵
エフェス子爵家のお屋敷の中は、陰鬱で閑散としていた。
通常、貴族の家ときたら、人が入ればすぐに家令やら使用人やらが寄ってきて、何くれとなく世話をするものだが、そんな気配は全くなかった。
わたくしやアリス、それにルサルカの三人の足音だけが、お屋敷のホールの中に響く。
「……少し、奇妙ではないのかしら? どうして……誰もいないの」
わたくしがつい、そんなことを呟くと、アリスはそれに苦笑して答える。
「その理由は……想像がつきます。おそらく、ほとんどの使用人は暇を出されたのでしょう。門番の二人だけは……一応の体面と……それに、他に働き口がないことを考えて雇い続けているのだと思いますが、他は……」
「なぜ、暇など……」
わたくしは首を傾げた。
貴族とは、貴族である限り他人の助けを借りなければ生きていられないものだ。
特に、家令を初めとする使用人たちは常に一定の人数必要で、それらの人々がいなければ家の維持すらもままならない。
実際、このお屋敷は外観はともかく、よく見ればそこかしこに埃がたまっていたり、蜘蛛の巣が張っているなど、手入れされている様子もなかった。
「エフェス子爵家は……羽振りが良かったのではないの? スザンナにそう聞いたのだけど……」
「スザンナ……あぁ、懐かしい名前ですね。彼女とお会いに」
アリスにそう尋ねられたので、私は答える。
「ええ。貴女の情報を得るために、話を聞きに行ったのよ。貴女のご実家……リリウム子爵家がお取り潰しになって、失職された後に小さいながらも飲食店をご主人と経営なさっているわ。それで……色々と話を聞いたの。その中に、エフェス子爵家の羽振りが、貴女に縁談話が来た辺りからかなり良くなっていた、という話もあったのだけど……」
「なるほど、そういうことでしたか。確かに……それはある意味では間違いではないですね」
「やっぱりそうなの? でもそうだとすれば……この状況は一体……」
聞けば聞くほどに分からなくなる。
屋敷の様子を見る限り、羽振りがいいとはとても思えないからだ。
それに加えて、アリスの態度も少し不思議だった。
スザンナの話が正しいというのなら、アリスはエフェス子爵を憎んでいるのが普通なはずだ。
それなのに、そんな様子もなく、むしろ……。
私の色々な疑問を理解しているのだろうアリスは、けれどそれに答えることなく、
「全てはジュリアンにお会いすれば分かっていただけますわ、お姉さま」
そう言って苦笑したのだった。
◆◇◆◇◆
その男は、部屋の中でまるで幽鬼のような表情で暖炉の火を見つめていた。
腰掛ける椅子がキィキィと音を立てて揺れている。
その音色は寂しく、しかし一定のリズムをとって確かにこの場に時間が流れていることを教えている。
「……あの方が……」
私がそう尋ねると、アリスは頷く。
「ええ。そうですわ……お姉様。あの人こそが、私の夫。ジュリアン・エフェス子爵その人です」
アリスの答えに自分の推測が間違っていないことをわたくしは理解した。
しかし、不思議だった。
話に聞くジュリアン・エフェス子爵は、決してこのような人物ではなかったはずだ。
顔立ちは端正だが、頬がこけて不健康であり、僅かに見える横顔から、その瞳には炎しか映っていないことが分かる。
私たちがこの部屋に入ったときの扉の開閉の音も聞こえているはずなのだが、それにすら無反応で……。
陰気を通り越して、魂がどこかに消えてしまったような、そんな雰囲気なのだ。
アリスを陥れて、もしくは虐待して殺したような、そんな人物とは思えない。
「お姉様。少し、お待ちいただけますか。まず、私がジュリアンと話しますので……」
アリスがそう言ったので私は尋ねる。
「……大丈夫なの? あの人は……アリス。貴女の命を奪った張本人なのではないの? だとすれば……」
「いえ、大丈夫ですよ……少し、お待ちください」
アリスは頑なだった。
彼女には昔からこういうところがある。
他の誰よりも甘やかな容姿と雰囲気を持っているのに、意思は誰よりも強く、一度決めたことには妥協しない。
だから、これ以上言っても意味がないのだろう、と思った。
私がそう思ってアリスに頷くと、彼女も頷きを返し、それからジュリアンの横に進んだ。
「……ジュリアン、ねぇ、ジュリアン……聞こえている? 私の声が」
その男の耳元でそう話しかけるアリス。
はじめ、ジュリアンはその言葉にもさして反応を示さなかった。
瞳は動かず、感情の動きが見えない。
そんな態度。
しかし、アリスの声が言葉を紡ぐにつれ、それは少しずつ変わっていった。
「私は、意外だわ。貴方が……こんな風になってしまうなんて。初めて会ったときのことを覚えている? 貴方ったら、自分で縁談を持ってきたくせに、全然私のことなんて見ないで、父とばかり話して……。まぁ、仕方が無いとは思っていたわ。だって、私と貴方の結婚は、貴族同士のもの。恋愛なんて存在しなくて、ただ、お互いの家にとって利益があるから行われるものだもの。だから当然の対応で……。それに貴方が私との縁談を望んだのは……あの女の意向を汲んだものだとも思っていたし……」
「……それは違う。僕は……僕は君のことを知っていたんだ。あのときが初めてだったわけじゃない……他の誰の意向も受けてもいない……」
ぼそりと、ジュリアンが答える。
視線はあまり動いてはいないが、それでも瞳に僅かに力がこもった。
「あら? 確かにそうだったわね。この家に来て、最初の夜に、そう教えてくれたんだったかしら……。私も少し記憶が曖昧ね。やっぱり、こんな風になって変わってしまったのかも。貴方も、私がいなくなって……かなり変わってしまったみたいね。元々、私なんていなくても、立派に家を守っていた人だったのに、今では……」
「……僕は、立派だったことなんてないさ。結局、大事な人一人守れなかった……それでも、まだ死ぬわけにはいかない。僕はいい……いずれ、君のもとに行くつもりだ。でも、フィラスがいるんだ。彼が、大人になるまでは……この家を継ぐまでは、生きていなければ……」
徐々にジュリアンの瞳に力が戻ってきていた。
特に、フィラス、という名前を口にしたときに大きく力がこもった。
アリスもそれに頷いて、
「……そうね。フィラス……貴方と私の子ども。あの子は……良かった。生きているのね」
「生きているさ……ただ、この家に置くと危険だからね。領地で、母と乳母に見てもらっている……僕も領地に引っ込みたいのだが、王都を離れればあの女が何をしでかすか分からない。使用人たちにもどんなことをするのか分からなかったから、暇を出すか、領地に行ってもらった。ダズとナルズは王都に家族がいるからそういうわけにもいかなくて……」
「なるほどね。お義母さまが……いずれ会いに行きたいわ。でも、今の私が会いに行けば、びっくりしてしまうかも。どうにか良い方法があればいいのだけど……」
「はは。君はもうこの世にいない人だ。びっくりどころではすまないだろうね……しかしそれにしても、今日の幻聴はすこぶる元気というか、まるで生きていたときの君のようだ。受け答えも……しっかりしているね。なんだか体に力が戻ってきたようだよ。まさか死んだ後も、僕のことを励ましてくれるとは……君は素晴らしい女性だ。なぜ、生きているときに、もっと優しくしてやれなかったのだろう。君を守ってやれなかったのだろう……僕は……」
「いいのよ。貴方は優しくしてくれたし、守ろうとしてくれたわ。でも、あの女があまりにも悪辣だっただけ。それに私はこうして戻って来れた。もう生きてはいないけれど……ここに、本当にいるのよ。だから安心して」
「……ん? 本当に、いる……? まさか……まさか」
そこでジュリアンの体に力が入り、とうとう彼はアリスの方を見た。
そしてそこに確かに自らの妻が立っていることを認めると、その瞬間、一筋の涙を流す。
「アリス……アリス! 戻ってきてくれたのか……いや、迎えに来てくれたのかな、僕を……。ありがとう。僕は……それだけでも嬉しい。願わくは、ほんの少しで良いから、抱きしめさせてくれないか……いや、抱きしめられるのか? 霊魂に触れられるとは寡聞にして聞かないが、しかし、目の前に確かにいるようだし……これもまた幻覚なのか……? いや、構うものか!」
そこまで呟いて、ジュリアンはがばり、とアリスを抱きしめたのだった。




