53・名前のつけられない気持ちを知りました
「……エレファナ、一体どうしたんだ?」
セルディはエレファナの背中をさすりながら、指の腹で彼女の頬をそっとぬぐう。
そうしてエレファナは、自分の瞳から雫がほろほろと溢れていくことに気づき、驚いて顔をこすった。
「? す、みません、セルディさま。目が……壊れてしまいました。かつて経験したことのない異常現象です」
「もしかすると、俺がなにか負担をかけたのだろうか」
「いいえ、それは違います! 私はなにかを感じているのですが、それが上手く言葉に……っ。そうです、私の心はうまく作れなかったのか、壊れていると言われていました。ですからきっとこれも、そのひとつだと思います。だからセルディさまが気に病むことはないのです!」
自分に起こっていることがわからないまま、しかし心配をかけたくない一心で気丈に笑うエレファナの身体を、セルディはしっかりと包み込む。
「そんな言い方をしなくてもいいんだ」
「いいのですか?」
「ああ。もしそうだとしても、どちらでもいいことだろう。俺の妻の条件は、君であることだけだから」
そう言いながらこめかみに口づけられると、エレファナの瞳の奥はまた熱を持った。
(あ、そうです。これはセルディさまといるときの、ほかほかに似ています。でも今回はほかほかより、もっと強い気持ちにさらわれているようです)
エレファナは少しほっとして、かすれる声で明るく訴える。
「セルディさま、安心してください。嫌な気持ちではなさそうです」
「そうなのか?」
「はい。セルディさまといるのですから、嫌なわけがありません。私はいつだって。いつだって──……」
そのまま言葉の続きが出てこないエレファナの背を、セルディは再び撫でてくれる。
「いいんだ。無理に言葉に頼らなくても。こうしているだけで、エレファナが俺に甘えてくれているようで嬉しいから。君がなにかを感じているのなら、そのままゆだねればいい」
そう言い聞かせてくれる声がしみるようにやさしく思えて、エレファナはこみあげてくる感情はそのままに、何度も何度も頷いた。
そしてセルディの心地よい感触に包まれながら、自分の左手をそっと上げて陽の下へかざし、わずかに声を震わせる。
「きれいです」
潤んだ瞳で見つめると、いつもは枷のついている部分を覆うように輝くその指輪が一層美しく思えて、ふと笑みがこぼれる。
陽が淡くなり始めた堂内で、ふたりはしばらくそのままでいた。
***
壮麗な王城の入り口にぞくぞくと馬車が集まり、着飾った若者たちを会場へ送り届けては去っていく。
その中、とある馬車の扉が開いて、片耳に紅玉の耳飾りをした美しい男が颯爽と降り立つと、周囲の視線が自然と集まった。
見る者がはっとするほど長身のセルディは他者の視線を気にする様子もなく、この国の正装に当たる黒の軍服とマントを身に付け、胸元には諸々の勲章を飾っている。
そして白い手袋をはめた手を差し出すと、馬車の中から彼と揃いの紅玉の首飾りを輝かせた淑女が現れ、指先をあずけた。
エレファナは淡い紅をのせた唇に、ほんのり微笑を浮かべている。
結いあげた艶やかな髪と、新緑を思わせるドレスを身にまとったその姿は、まるで一輪の珊瑚色の花がそよ風に吹かれるように、ゆったりと軽やかな足取りで降りていった。
繊細なレースが幾重にも重ねられたドレスの裾が光沢を奏でるように揺れるたび、周囲からはため息にも似た感嘆の声が上がる。
そんな好奇の目にさらされても、エレファナは眉一つ動かさなかった。
(大丈夫です。身に付けるものはポリーとカミラさんが選んでくださいましたし、身支度のお手伝いもしてくださいましたので、完璧です。心の中を見せずに微笑む練習も、セルディさまから合格をいただきました! ……あら、セルディさま?)




