第十話 邪神の慈悲 十七 腐りゆきて浮沈
連勝無敗を続ける『赤虎タヌム』と『鴉のブレイロ』の対決が公表されると、待ち望んでいた客たちは話題を盛り上げた。
「けどよ、ブレイロが使う反則は対策できたのかよ? 客の声に押されて準備不足のまま組んだら、せっかくの看板選手をつぶすことにならねえか?」
「タヌムほどの猛者は、そんなもん気にしてねえよ。訓練場でも『衛兵の目を盗めるなら、好きなだけ使え!』とか笑っていた」
「ブレイロだって『独眼鬼ディボナ』を圧倒できた実力だし、あれでもまだ本気じゃないかもしれねえ」
「それでも賭け札はとっくに『赤虎』の圧勝だけどな。姑息な手に頼る器量など、たかが知れている」
「わざわざ反則でつぶした相手だって、落ち目のスールやヒルダにまぐれ勝ちできただけの下位選手だろ?」
もう勝利どころか出場もできないと思われた下位剣闘士の名は忘れ去られるのも早い。
ブレイロは試合の開始前に、入念な装備の検査を受けた。
マリネラも立ち合い、倍以上の人数で監視させたまま、入場門から送り出す。
貴賓席へもどるマリネラの顔は曇ったままだった。
付き従っていた侍女デルペネは確認しておく。
「あの歯と爪は、かまわないのですね?」
「それとあの体臭は、糞便などを腐らせて毒としたもの……今回に限り、私たちが気がついたことでも、タヌムさんには伝えません。ブレイロさんにも指摘しません」
試合場ではタヌムに声援が集まり、ブレイロが入場すると罵声が高まる。
タヌムは自分の丸盾を殴りつけ、観客の注目を求めた。
「爪を研ぐのが反則なら、剣闘士はみんな出場前に深爪してこいっていうのか!? 歯は!? 髪は!? 唾や体のにおいだって武器になる! どこまでが反則かなんて、詰めようがない!」
タヌムが笑顔で反則の擁護をはじめ、観客はとまどう。
「戦場なら、なんでもありだ! この試合場だって衛兵にばれない限り、なんでも『準備』しなけりゃくたばる戦場さ! アタシは爪を研ぐような手間ひまよりは、体を休める『準備』したほうがくたばりにくいだけでね!」
ふたたび盾を殴りつけ、ブレイロへかまえる。
「お互い好きなようにケンカを盛り上げようじゃないか! あとは客が、賭け札で応えてくれる!」
タヌムの度量に、観客がわきたつ。
ブレイロはじっと険悪な顔でにらんでいたが、かすかな笑みを見せた。
「賛辞の礼だ」
その口内には研いだ犬歯が見え、木槍をかまえた両手の爪も鋭く研がれていた。
タヌムは嫌そうに苦笑する。
「おやまあ。本当にそこまで準備していたとは……不便そうだね?」
「大物を狩れる利便には変えられるか」
試合開始の鐘が鳴った。
その時にはブレイロから漂ってくる異臭にタヌムも気がつき、ますます苦笑をしかめる。
肌を裂かれるだけの傷でも、腐毒で膿めば翌月以降の試合に差し障る危険があった。
まだ数歩もある間合から、ブレイロの唾が目を狙って飛んでくる。
その異様な飛距離と正確さから、砂や塩なども口にふくんで威力を高めている危険も高い。
さらに間合の外から木槍が投げつけられ、しかも急に軌道を変える……結び合って紐となった髪が先端を引き落としていた。
それらすべてが囮だった。
タヌムは唾を避け、首から脚へ急に狙いを変えた木槍もかわし、爪や牙、組みつきなどに備えようとした。
これまでブレイロの試合はすべて、低い姿勢からの突進で決着がついている。
木槍も手放したなら、爪による目つぶし、ひどい体臭による組み技……いずれも『密接』『低さ』へ警戒が向く。
そう仕向けるために反則の限りをつくしたブレイロの本当の狙いは、タヌムの頼る丸盾だった。
タヌムが槍をかわしながらかまえた盾は、意外な早さと重さではじき落とされる。
ボロきれをまとった『鴉』は鋭く宙で身をひるがえして蹴りこんでいた。
いくら小柄とはいえ、全体重を乗せた飛び蹴りを片手では受けきれない。
こじ開けられた防御へ即座に爪がたたきこまれ、タヌムはとっさに右腕を上げて防いだが、額と腕の一部を裂かれた。
ブレイロは髪紐を引き、木槍を握りなおすなり突き出す。
タヌムは踏みとどまって盾をかまえなおす。
わずかな差だったが、槍は『赤虎』の戦い慣れた直感にはじかれて軌道がそれた。
太腿の中心をそれながらも、歯を食いしばるブレイロの気炎と共に肉を大きくえぐった。
この一撃を少しでも深くするためだけに『鴉』は歯を削り、爪を研ぎ、髪を編み続け、体中に汚物を塗りたくっていた。
さらに一閃。もう一閃。槍先は盾で受け流されるが『最強の虎』が『年経た鴉』に追われて退き続ける展開に観客はざわめく。
「ちっ……! 今なら降参してやるよ!」
タヌムは守って逃げながら、まだ笑っていた。
ブレイロは殺意を剥き出して飛び交い、鋭く吠える。
「ならばひれ伏せっ」
「いやだね! 片足でも奪ってから降参を認めるつもりだろ?」
タヌムがいっそう楽しげな笑顔を見せ、ブレイロが踏みとどまった。
「それならアタシも、アンタの腕なり脚なり、一本は奪ってから負けるさ! 降参を認めたいなら、さっさと槍を捨てな!」
降参を宣言したタヌムのほうが、拳骨をかまえて笑顔で脅す。
ブレイロは歯ぎしりを響かせ、槍を投げつけた。
タヌムは動くことなく、足元に刺さった槍と審判のヒルダを見比べる。
「ほら、アタシの負けだよ」
そう言われてもヒルダは決着と気がつくまで時間がかかり、ブレイロに確認の視線を向けると、飛びかかってきそうな激怒の睨みが向けられた。
決着が宣言される。
「ちい……っ!」
しかしブレイロは大きな舌打ちを残すだけで、苛々(いらいら)と足早に立ち去った。
代わりにタヌムがまるで勝者のように観客へ手を振ったが、やはり早足で退場に向かう。
「お互い、早く傷口を洗いたいからね」
タヌムの額と腕の傷は浅いが、脚の傷は深く、血が流れ続けている。
試合が長引くほど不利になるはずだった。
しかし立ち去るブレイロの手も血にまみれ、タヌムの額と腕をひっかいた際に小手をぶつけられた爪が割れていた。
もし試合が長引けば、勝てたとしても自身の腐毒で傷を重くする危険が高い。
観客はひとしきり困惑して評価に迷ったあと、翌日からは両者への評価をさらに上げた。
「まだ『赤虎』は十分に勝てる見込みもあったのに、どちらが勝っても次の試合に響くと思って、主催を気づかったんだ。器の大きさがちがう」
「脅して降参するなんて、わざと見逃しただけに決まっているだろ。決着をじらして、やり返しを盛り上げる興行上手さ」
「タヌム自身は『自分が同じ反則をしたって勝てないどころか殺されていた』とか言っていたけどな」
「ブレイロを嫌うどころか『ますます感心した』とも……あの『鴉』は闘技場でも見世物の剣闘につきあうことなく『狩り』に徹しているだけだってよ」
執務室のマリネラは静かにうなずく。
「今後は考えうる『取締り困難な反則手段』をすべて公表し、新人には特に指導を増やしておきましょう」
侍女デルペネは手段を周知させることで『反則の効果を弱める』ほかに、観客や剣闘士が抱く不公平感を解消する意図を察した。
ブレイロの使う反則は取締りが難しい一方、真似て活かすことも難しい。
あえて『使えてしまう環境』を示すことで、人気の低下に釣り合いにくい損を強調する。
いずれにせよ『鴉のブレイロ』は、観客や剣闘士から畏敬の念も集めはじめていた。
『赤虎タヌム』とは対照的に陰気な性格と戦術だったが、双璧を成す実力者として認められるようになる。
そんな頃に、かつて『名無しのアンナ』と呼ばれた剣闘士の少女が訓練場へもどってきた。
アンナの体は以前よりもさらに痩せこけ、あばらの浮きが目立ち、二本の杖にすがって片足をひきずり、訓練場の入口でへたりこむ。
痛みをこらえて這ってきた汗と息切れがひどい。
通りかかった者の多くは、アンナに気がつくと無言で顔をそむけた。
「よ」
「ども」
大先輩『黒鬼ブムバ』のそっけない挨拶にはアンナも短い礼と薄笑いを返したが、それきり視線は訓練場の観察にもどる。
教官たちでさえ声をかけかねる中、姉弟子『舞姫スール』は休憩のふりをして近づいた。
「アンナちゃん……膝は治りそうなの?」
残酷な質問である自覚のこもった、うわべだけの笑顔。
「見てのとおり、そんな様子はなさそうですやね」
アンナはそう言ったきり、薄笑いのまま、遠く隅のほうで小柄な少女を指導している教官アンレイを見つめ続ける。
「でも偵察? アンレイ先生が教えている『雲雀のキアリア』ちゃんは小柄で頭が固いけど、バネはよくてクソまじめだから、指導時間も長くとって目をかけているみたい」
小柄な短髪の少女はアンレイにくりかえし打ち倒され、それでも顔では闘志を保ち、何度でも起き上がろうとしていた。
アンナはアンレイの手足、指先、表情、視線ばかり細かく探りながら、ぼそりとつぶやく。
「やだなあ。スールの姐さんには、本当にそんな風に見えて……」
小声が途切れて、そのあとはタヌムやブレイロといった実力者の観察へ移る。
スールはどうにか笑顔だけ保ちながら、探るための言葉を見つけられない。
どう探っていいかもわからないほど、今のアンナは得体が知れない。
『墓下』で育った『死神の落とし子』と似た気配が漂っている。
スールが訓練へもどりかけたところで、アンナの背後へのっそりと黒髪褐色肌に青い瞳の長身美女……ヘルガが姿を見せる。
ヘルガはアンナの顔をのぞきこみ、アンナは小声でひとことふたこと声をかけながらも、訓練場の観察を続けた。
スールは打ちこみ用の丸太の前までもどりながら、防具を整えるふりでふたりを観察し続ける。
ヘルガはアンナの瞳と、視線の先にいる相手をゆっくりと見比べ、アンナにそっとくちびるを重ねた。
「なんですかい、やぶからぼうに……」
アンナはゆるい苦笑だけでヘルガの顔をぞんざいに押しやり、じっと訓練場の隅、教官アンレイが新人キアリアを追いつめる手際に目をこらす。
「せめて師匠が、あっしをなじるくらいはしていただけたら、安心もできそうだったんですがね……」
スールはアンナが不意に真顔になり、ヘルガの目を指で突く動作を目撃してしまう。
ヘルガはかわしながら、ほとんど同時にアンナの目を指でえぐりにかかり、寸前でずらされて額を突く。
アンナは薄笑いを見せ、動いたことで膝から伝わった痛みにしばらくは身をよじって耐え、そのあとでまた、ヘルガと笑顔を見せ合い、なにかボソボソと声をかけていた。
今度はアンナからヘルガの顔を引き寄せて、くちびるを長く重ねる。
重い故障で自暴自棄になり、狂女との戯れを慰めにしている……スールがそう決めつけて哀れむには不穏で不気味で、儀式めいていた。
なにより『名無しのアンナ』の双眸は、以前よりも明確な執念がたぎっている。
スールは自分に足りない素養を気にかけていた。
『闘鬼アンレイ』と、彼女が比肩しうると認めた『女巨人ヒュグテ』『赤虎タヌム』『鴉のブレイロ』と、特に目をかけていた『名無しのアンナ』と、特に気にしている『墓下のヘルガ』……それぞれまるでちがう個性に見えても、並べて思い浮べるとスールは自分が持ってそうにない共通点に思い当たる。
仮に彼女たちがアンナほどの重傷を負っても、スールほどの惨敗が続いても、おそらく誰ひとり、生きかたを変えることはない。
それぞれの理由で、生き暮らしと切り離しがたく武芸と関わっていた。
ヘルガやアンナなどは剣闘士よりも遊女や売春婦に近い心づもりで暮らしてそうに見えたが、元より何も持たない『処刑場の捨て子』と『名無しの客引き娘』であるがゆえに、心身を無防備に殺人芸へ捧げてもいた。
アンナは『メシさえ食えるなら』武芸などいつでも捨てられる程度の気がまえでアンレイの猛訓練を耐えしのぎ、二度と勝てなくなったはずの脚を引きずりながら、いまだに獲物を探り続けている。
スールは前回の競技祭で下位選手からようやく一勝をあげたが、客席に期待がもどる気配はなかった。
観客の注目はことごとく『赤虎タヌム』と『鴉のブレイロ』にさらわれ、そのふたりに匹敵しそうな教官アンレイや女巨人ヒュグテのほうが下手な上位陣よりも話題として好まれる。
スールはようやく勝ちを得ても、自負と恐怖の狭間で迷い続けていた。
自分より深い絶望に陥っているはずのアンナが、あのような眼光まで宿せる理由をつかめない。
アンナはその後も少しずつ訓練場へ姿を現す日が多くなった。
ついには空いている丸太を相手に、打ちこみまではじめる。
誰もが撃音で察するが、握力や腕力はかなり鍛えていても、足さばきはどうしようもなく、まともに踏みこめない膝の脆弱を伝えていた。
日を追うごとに、ほとんど回復しない膝、鋭さも手数も半減している哀れが強調される。
笑顔で汗まみれのアンナに声をかける者は少なく、アンナもぼそぼそと短い言葉しか返さない。
ただひとりだけ、アンナがかつてに近い言葉数を差し向ける相手ができた。
「あっしはこのとおり姐さんにはもう勝てっこない体なんですから、練習の相手くらいしてくれたっていいでしょう? 逆怨みや師匠への恩返しでその膝を狙ったところで、もう指先すら届きそうにねえ負け犬を哀れんでやってくださいよう」
ブレイロは不機嫌そうに不審がり、ガラガラ声を低くして言い捨てる。
「失ね。もはや貴様の立てる狩場ではない」
「鴉の姐さんが怖がっている師匠の弱点を教えてあげますから。ね?」
薄ら笑みを向けられ、ブレイロは不快そうに歯ぎしりを響かせ、しかし『名無し』の眼の奥を探る。




