第十話 邪神の慈悲 九 死神の巣穴
『地獄の島』の剣闘士は勝利さえ重ね続ければ、ほとんどの贅沢を買えるようになっていた。
物品だけでなく面会や外出、武器などの携帯許可まで値段がつけられ、それらは罪が軽くて生活態度がよいほど割引される。
どれほど重罪の囚人でも、対戦相手を殺し続ければ自由勝手も同然の暮らしを『約束』されていた。
格づけ順位が上がるほど、広い個室も用意される。
中堅選手の『青鬼ルネンバ』は無口で人づき合いも苦手だが、独りでいることも苦手だった。
気心の知れた『黒鬼ブムバ』が訓練を休むと、部屋を訪ねて居座る。
「少しはよくなったかい? もう次の競技祭まで何日もないのにさ~あ」
「月のもんがひどくなったかと思ったけどよ、どうも貝の雑炊があたったらしいや」
「ほかのやつらはなんともないけど、アンタは何杯もおかわりしていたからねえ? メシ係のやつも、うまいもんを一度に多く食いすぎたら腹を壊すとか言ってたじゃないさ~」
「食うだけ食って体だけでもでかくしなけりゃよ。斧の扱いだって少しずつ速くなっていてもよ……この広い部屋を使えるのも、今年だけかもしんねえな? 強えやつらがどんどん入ってきやがるし、アンナみてえな弱っちい新入りまで急に伸びてきやがるし」
「でも教官のアンレイは、あいかわらず選り好みがひどくて、避けるやつのほうが増えてきたくらいだ。ほっといてほしくて邪険にしていた風でもあるけどね……」
ルネンバもアンレイの手が空きやすくなったころに指導を頼んでみたことがある。
とても優しかった。
双節棍の扱いと、それに合わせた身のこなしについて、すぐにわかる工夫をいくつも指摘して、それが身につくように演習の相手を丁寧につきあい、素質と上達を褒め続けてくれた。
うれしかったが、ルネンバは夕食を終えて自室へもどるころには落ちこんでいた。
自分が話のタネに試しているだけで、長続きしないことを見抜かれていたと感じる。
つきまとうことがないとわかっているから、素質は見限っていても親切にしてくれた。
二度は頼んだが、三度目は笑顔を見るのもつらくなって声をかけられなかった。
心配しすぎる自分の性格では、一番こたえる追い払いかたをされた気までしてくる。
褒め言葉をひとつひとつ思い出してみると、決してウソはついていない。
ルネンバの慎重さは長所でもあり、臆病な気配りこそが技術を広げて隙をつぶし、攻めの起点も増やしている。
そこから大胆な攻めに転じることもできたら……守りの器用さは多彩な攻めにも通じ、上位陣にも対抗しうる強味となる。
しかしそこを踏み切れない性分も見抜かれていた。
ごく遠まわしに致命的な短所として言い当てられただけで、攻めに寄った鍛錬は一度も勧められなかった。
それだけはルネンバ自身で大きな変化を起こさない限り、指導が無駄になると思われていたし、期待もされていなかった。
「……この島へ来てからさ、今さら惜しいものなんてないと思っていたけど。アタシはどこかで、勝てなくても生きてりゃいいって考えが、深く根を張っているらしいね。名づけ親すらいないアンナのほうが、よほど捨身で強さにがっついているのかね~え?」
ルネンバはブムバの見舞いに来て励ますはずが、自身の限界を思い出して落ちこむ。
ただブムバの態度は愚痴を並べる時でも横柄なため、ルネンバは見ていると少し安心できた。
「つうかよう、オレだって自分の名づけ親なんざわからねえぞ?」
「そういやアタシも……まあ、特に興味もなくて、親に聞いてなかっただけなんだけどさあ」
「オレは聞いたけどよう、親父の借金がかさんで母ちゃんを貸した相手に似ていたから、名づけはそいつに頼んだらしいが、叔父だったか村長の弟だったか近所のじじいか、本人たちに聞いても忘れていやがった」
「まあアタシらは、名づけ親がわからなくても気にならないくらい、家族には恵まれていたんだろうねえ? 姉妹の中ではアタシだけ、盗賊に襲われた時にできたガキだったらしいけど、それで親にからかわれることはあっても、いじめられることはなかったし」
「生まれ育ちで言や『名無しのアンナ』より『死神の落とし子』のほうがよほどひでえしよ……ちかごろ衛兵の連中が、やつの名前について古参へ聞きまわっているらしいな?」
「ああ『甲羅のヨルジュ』おばばが、変に自慢をしていたねえ? 訓練をはじめたころは『墓下のガキ』とか『黒髪青目』と呼ばれていたらしいけど……」
『地獄の島』には多くの地域から様々な人種が集まって来る。
黒髪であれば瞳も多くは黒色で、多少は茶なども混じる程度だった。
褐色肌であればなおさら瞳の色も濃い者が多い。
肌が白くて金髪や赤毛の人種でも、より髪色が薄い者でないと青や緑の瞳は少ない。
染めてもいない黒髪で青い瞳は珍しかった。
「……言うことは聞かないし、そのくせ剣はそれなりに使えるものだから、すぐに試合へ出しちまうことになって、名前を聞いたら『ヘルガ』と答えたらしいけど、それまで誰も名づけたおぼえはないらしいね~え?」
「本人がそう名乗っているならいいじゃねえか。悪魔か死神にでもそう言われたんだろ? でもよう、地下牢の役人あたりは、適当に名づけておかねえで不便じゃなかったんか?」
「地下牢はもう空き部屋ばかりらしいから、名前がなくても『ガキ』と呼べば用が済んだのかもねえ? 地上の牢屋とちがって、死ぬのを待つだけの気長な首吊り台みたいなもんだから、出すエサの数だけわかってりゃ、区別する必要もなかったのかもねえ?」
地下牢はかつて助かる見込みのない疫病患者たちがつめこまれていたため、地上階の牢屋とは異なり、役人が直接に見回ることはごくまれだった。
疫病が沈静化してからは重罪人が収監されることもあったが、剣闘に出して戦死させる処理が優先され、収監者は減り続ける。
剣闘には出さない扱いの囚人でも、地下牢は多くの者が数年もしないで体調や正気を損ねて命を落とす苛酷な環境であり、すでに死人と変わらない『墓下』の住人たちに牢役人の興味は薄かった。
牢番の下男だけが地下牢まで降りて食事を運び、排泄物の桶を交換し、死体の運び出しを含めた清掃作業をしている。
何度目かの引き継ぎをした牢役人は、女剣闘士が不足した際に、地下牢の下男から『処刑場の捨て子』が十数年も生き続けていた頑丈さを知り、補充へまわした。
マリネラはヘルガの名づけ親について調査を進め、前領主フラドルバの重臣やその身内、当時の奴隷管理を担当していた役人などにも聞いてまわる。
しかし剣闘士になる前の『ヘルガ』については存在自体を知らなかった者がほとんどで、管理に関わった者でさえ、噂と同じ程度にしか知らなかった。
マリネラは牢番の下男にまで自ら直接に調べに向かう。
地下牢の出口に近い尋問室が使われ、下男は囚人でもないのに死刑台のように緊張していた。
「ご領主様の側近であるかたが、こんなところへ、あっしなんかと同じ部屋に……」
下男は小柄な猫背で、顔色がひどく悪く、中年か老人かわかりにくい衰えかたをしていた。
元は疫病患者として収監されていたが、珍しく症状が治まって命をとりとめ、しかし地上へ出ることは許されず、下男として使われ続けている。
尋問室の隣にある宿直室で寝起きして、囚人よりはいくらかまともな生活を与えられていたが、日を浴びることは少なく、顔を含めた全身があちこちただれていた。
マリネラの白くなめらかすぎる肌を恐れ、できる限りに遠ざかろうと隅へうずくまる。
「すでに申し上げたとおり、昔のあっしはヘルガ様のことを『処刑場の捨て子』とか『奥のガキ』と呼んでいましたが、声をかけることはありませんでした。それはほかの囚人に対してもそうです。囚人とは親しくしない、必要のない言葉はかけないように看守さんから言われておりますし、声をかけにくい相手が多いですから……」
マリネラは静かにうなずき、話の続きをうながす、
「……なるべく見ないようにもしていましたが、さすがにヘルガ様の育ちかたばかりは、あっしにも不思議で……なんでここで配るようなメシで、あれほどに……?」
床を見つめる下男はヘルガの豊かな肉体を思い出しながらも、マリネラに対する表情と同じ畏怖を見せていた。
「ガキ呼ばわりもしにくくなってきて、換えの寝具の受け渡しの時など、ごくたまに『おじょうさん』と呼びかけたことはありますが、名前があるなんて知ったのは、剣闘へ出るようになってからです」
マリネラが連れて来た臣下は衛兵がふたりと、侍女がひとり、医局の副長がひとり、現在の地下牢を担当する役人がひとり、看守がふたり。
普段から下男へ食料などの受け渡しをしていた看守たちですら、出入りを監視する詰所から奥に入ると落ち着かない様子だった。
牢役人にいたっては自分の衣服が壁へ触れないように、息すらなるべく抑えるように苦しげだった。
しかしマリネラつきの侍女は冷静に尋問室を見まわし、殺風景ながらも掃除は小まめにされている様子を見てとり、意外そうな顔をする。
壁や天井には濃い染みが多く広がっているものの、湿気のこもり、カビくささなどは感じない。
枷や鎖、拷問器具なども備わっているが、それらが最近に使われた様子はなかった。
中年男の医局副長も態度は落ち着いており、視線は細かい部分まで見渡す。
「先々代のフメラニウス様は隔離を徹底して疫病の広がりを防ぎ、先代のフラドルバ様は地下牢の清掃も厳しくするだけでなく、風通しなどの工夫も命じておられました」
まだ病原体の研究が進んでいない時代でも、経験から導き出して『汚れの除去』『日照』『換気』のほか、消毒作用のある灰、酒、蜂蜜などが疫病の治療や予防に利用されることもあった。
「先立って私が検分した限り、日差しの少なさばかりはどうにも体に悪そうですが、いまや収監者の少なさで、地上階の牢よりも汚れにくい面まであるかもしれません」
下男は医局副長にうながされ、地下牢の奥へ案内する。
たびたび背後の貴人たちへ心配そうにふり向いた。
日の高い時間を選んでいたが、独房の天井近くに狭く深く開けられた通風孔だけが明り取りで、通路は色を判別しがたいほどに薄暗い。
「高貴な方の身内も多かったころは、剣闘試合や演劇、大きな儀式などの時だけは踏み台が配られて、せめてもの慰めに見物が許されていたんです」
通路幅は地上階の倍も広く彫りとられ、天井もやや高かった。
それがなおさら、住人のほとんどいなくなった獄房の群れをわびしく見せている。
何部屋ずつか間をおいて、特有の悪臭を漂わせる独房があった。
中では衰弱しきった老人や病人、正気を失って這いずるだけの者などがちらほらと置き去りにされている。
医局副長は通過する独房の住人ひとりずつの容態をマリネラへ説明し、格子には近づかないようにくりかえし強調した。
「なにせ、すでに生きる希望は失くしている者がほとんどです。刑罰を恐れずに何をしてくるかもわかりません。もっとも、それほどの気力や体力が残ってそうにも見えませんが」
ほとんどの独房は静かすぎて、隅にうずくまる人影、あるいは横たわるだけの肉塊ともなると、息をしているかどうかも見分けがたい。
ひとりだけ、貴人の来訪に合わせて平伏の姿をとれる者がいた。
「彼は相手の身なりを見て礼を示すことはできますが、話せる正気は残っていません。声をかけ続けると混乱して、自身を傷つけてしまいます」
医局副長の説明で侍女は驚き、独房の男からあわてて目をそらす。
そして剣闘士ヘルガが中堅の強豪として地上階に立派な個室を与えられていながら、いまだにこの地下牢へ寝起きにもどる奇異な暮らしぶりをいっそう不気味に感じる。
「そちらの、一番奥が『ヘルガ』の独房になります」
その独房だけは格子の色から少し異なって見えた。
手足でどれほどこすり続ければそうなるのか、くすみは隅に残っているだけで、それは岩の壁や床、天井までも同様に、肉で磨かれ、すり減っていた。
爪の先ほどだが薄く広く全体がへこんでいる。
マリネラはそれが脱走の意図ではないことはもちろん、単調な暴れまわりでもないことに気がつく。
『牢から出された時には剣を使えていた』という墓下の少女は、通風孔へしがみついて剣闘の試合や訓練を見続けていた。
この狭い空間でも可能な立ち回りを壁いっぱい、天井いっぱいに再現し続け、それだけをくり返して暮らしていた。
少なくとも十年近く前、領主になる前のフマイヤが訓練場の視察へ来た時には、ヘルガは大人が跳んでも指がかかるかどうかの高さにある通風孔へしがみつき、訓練風景を眺めていた。
すでに死体と変わりなく、死をまきちらすばかりとなった住人たちの巣穴へ目を向ける者は少ない。
まれに思い出して顔を向けても、そこには恐怖や嫌悪、軽蔑、よくてもせいぜい短い同情しか浮かべない。
ただひとりだけ、生まれつき病魔の責め苦を受け続け、薬液と包帯にまみれ続けながら、自身の責務を果たすまでは死ねなかった少年だけが、異なる瞳を向けてきた。
独房の格子が途切れた先は長い通路になっていて、突き当たりの床穴は板でふさがれ、遺体や汚物の捨て場になっている。
廃棄物は大きな樽へ放りこまれて封じられ、貯まると遠い沖で海に沈められた。
床穴に近づくまでは、悪臭もそれほど強くない。
そこだけは通風孔が多く、洗浄用の水も細く流れ続けていた。
「……どうです? 噂されていたよりは、ずっと歩きやすい場所だと思いましたが」
医局副長に聞かれて、マリネラは牢番の下男へ視線を向ける。
「思いのほか丁寧な仕事ぶりのようです」
「いっ、いえ……そんな、おそれ多い……」
下男は身をちぢめて壁に身を寄せ、ひたすらにおびえる。
「……あっしは、ほかにやることもありませんし、自分と同じような病人をたくさん、ただ黙って見殺しにしてきまして……それでもここへ入れられたひとりひとりが、あまり他人には思えないんで」
同じ境遇に同情し、清掃だけでも丁寧に……筋の通った話のようだが、マリネラは違和感をおぼえた。
看守や牢番は多少なり囚人をいたぶろうとしたがる者が多く、それは元が囚人だった者でも変わりないか、よりひどくなる者も少なくない。
まして看守や役人が入ろうとしないこの地下牢では、牢番が隠れてなにをしでかしても、よほどのことでない限りばれにくい。
むしろ地下に閉じこめられて娼婦も買えない境遇では、ヘルガの豊満な肉体を可能な限りに貪ろうとするのも当然で、そのようなうしろめたいことを続けていたから、領主と近しくなったヘルガを恐れているなら理解もできる。
しかし牢番は醜く小心でも、下卑た表情は不自然なほど見当たらない。
「それでもやはり、ここへフマイヤ様をお連れするのはどうかと思いますが?」
医局副長が眉をひそめてつぶやき、マリネラはうなずくものの表情は変えない。
「それでも、たってのご希望ですから……すべてはこのままに。普段していない配慮はすべて禁じます」
マリネラは来る途中で見かけた平服する男の姿に哀れを感じていた。
しかし引き返す途中でふたたび目に入ると、奇妙な疎外感をおぼえる。
まるで自分のほうが異国へ迷いこんだ卑しい者のように、同情を向けられている錯覚すら感じた。
地上に見捨てられたまま掃き清められてきた暗影の静謐は、常人の世とは異なる戒律で正されているようにも見える。
フマイヤには見せたくない場所だった。
しかしおそらくは、この光景こそを見たがっている。
その理由まではわからなくとも、判断を察することはできてしまうマリネラが密かに思い悩む。
マリネラは地上階に出てから念のため、ヘルガとよく話していたアンナにも聞きこみを入れてみて、さらに深く頭を抱えた。
「ヘルガさんの名づけ親ですか? 領主様ですよね? いえ、前のかたは知りませんけど、いつもマリネラさんがひっついている長細い旦那……へ? あのかたではないのですか? だってヘルガさんに『名づけ親に愛されていて、けっこうなことで』とか言ったら、ずいぶんしっかりと、うなずいてくれやがりましたよ?」




