第十話 邪神の慈悲 八 吹聴神学
闘技場の内部にあった貴人や来賓用の区画はほとんどが剣闘奴隷の牢獄に改装され、施設は男女に分けて拡張されていた。
剣闘士は当人たちが望んでいる限り、会話も許されるようになる。
それでも接触や物品のやりとりには厳しい目が向けられ、不審な行動は細かく報告され、注意もされる。
当初は会話する場所も食堂、浴場、訓練場だけが望ましいとされていた。
それ以外の場では、いちいち事前に許可を願い出る剣闘士も多かったが、衛兵隊長の判断は常に『試合の公正』を保てそうな限りは寛大なものだった。
そもそも剣闘士たちは厚遇されすぎており、賞金によって様々な贅沢もできるため、ささいな規則違反で重い罰金を課される損の大きさはすでに広まっている。
その様子を確認しながら、規則自体も少しずつ緩められていた。
監視に協力的で信用を得ているほど、多少のことでは注意も受けなくなり、気楽に暮らせる利益のほうが大きい。
それらの制度を利用して、日がな飲んだくれては乱行ばかりに励む剣闘士まで現れる時期はもう少しだけ先になる。
剣闘士のための食堂では、安宿よりもよほど上等な食事が量も豊富に支給されていた。
浴場と同じく、もめごとや不正行為が発生しやすい場所でもあるため、立ち番の衛兵は多く配置され、卓も椅子も間隔を離せるように間取りは広くとられている。
しかし剣闘士たち当人が望んでいる限りは、席を寄せて食事をしても問題にされない。
過度に饒舌な『名無しのアンナ』は、かつて多くの者に避けられ、同じ卓でも席を離されがちだった。
ところが下位選手でありながら上位陣の『舞姫スール』と『灼熱のヒルダ』に続けて勝ったことで、なにげなく席を寄せる者が大幅に増える。
どちらの試合もまだ安定感には欠けていたが、実力はすでに中堅なみで、上位陣にも迫る急成長として注目を集めていた。
「いや最近はヘルガさんと仲よくしているもんだから例の狂犬まがいな病気でもうつされたんじゃねえかっていう噂まであるみたいですけど、そんなもんでヒルダの姐さんやらスールの姐さんに勝てるものなら本格的にひと晩でもふた晩でもお願いしたいくらいでして、御利益へあずかるのにかちわる頭が必要だっていうなら予備にもうひとつ生えてくるまで待とうかなんて思案をするまでもなく、実力者のおふたりを倒せたのはなんと言ってもあっしの努力と運の向きでしょうし……」
しかしアンナから快進撃の秘訣を探る前に、聞き疲れてそっと退席する剣闘士も多い。
「……ヘルガさんとつるんでいるのは別に扇情的なお体にやましい目当てがあるわけでもなく、このとおりいつでもどうにも無口すぎるかたですけど、口数の多すぎる自分にはちょうどいいというか、どれだけ話しても呆れた顔をされない都合のよさなら小鳥やぬいぐるみでも置いときゃよさそうなものですが、やっぱりこういう気のおけねえ笑顔には気が安まるといいますか……」
ヘルガは食堂でも食卓や椅子を無視して床の隅に座っていることが多い。
食事もとらない。
剣闘士以外の重罪人と同じように、牢獄で一日一食だけ支給される粗食で済ませる日が多い。
胃が受けつけない体質というわけではなく、投げ与えられたもの、顔にぶつけられたものを口にすることはある。
フマイヤに誘われた食事であれば、かなりの量を一度に平らげる。
食堂に限らず、ヘルガに近づく者はほとんどいなかった。
以前にも衛兵や奴隷番、娼客などが突然に襲われ、殺された者までいる。
しかしアンナは死にかねない大ケガを負わされていながら、食堂でヘルガを見かけるとわざわざ近い席に座って話しかけていた。
「あっしはガキのころから怒鳴られ馬鹿にされてばかりでしたからね。娼婦も兼ねた踊り子つきの安酒場で、まだ物心もつかねえ内から掃除や洗濯の雑用に追われて遅けりゃ殴られるわ食事も抜かれるわの暮らしで、客の呼びこみなんかはどうしていいかもわからねえで、とにかく出まかせで話しかけまくって、たまにどうにか物好きが気まぐれを起こして引っかかってくれるものだから言葉を出していねえと不安になっちまうクセはそのころ骨身に染みついたもんですが、今ほど愛想もなかったんで、さらにつまらねえ病人か幽霊みてえな声ばかり出していたはずで、なにせ学もなけりゃネタにできる見聞もねえし、てめえの名前すら無かったくらいで、まわりの連中も『ガキ』とか『チビ』とか呼ぶだけで命令するか文句をたれるか、あとは心底どうでもいい愚痴と自慢ばかりを聞かされて育った舌がこんなひでえあんばいになるのも当然の成り行きとはいえ……」
ふとアンナが見回すと、周囲はすでに立ち番の衛兵とヘルガしか残っていなかった。
「……人様の名前を勝手に決めつけておいて、出どころはわからねえなんて、あんまりだと思いませんかね?」
アンナは椀の豆粥をざっとかきこむと、小魚の干物を何枚かのせた皿を持って、ヘルガの隣の床にべたりと座る。
「誰が言い出したんだか、いつの間にか『アンナ』と呼ばれていましてね。あっしなんかは最初のうち『アンナ』ってのは『オマエ』だの『お客さん』だのと同じ呼びかけかと思ったんで人様へ使ったら、えらい怒られまして。自分だけがアンナと呼ばれることまではわかるようになっても、なんでそう呼ばれるようになったのか、どうにも気になりましてね? いえ呼ぶ側にとっちゃ、いつまでも『ガキ』だの『チビ』だのしか呼べないと不便で、ガキやチビの金持ち客を引っかけた時のためにも名前で呼ぶようになったんだろうし、それが誰の気まぐれでも、あるいはどこぞの酔っぱらい客が見まちがえて呼んだ名前が広まったとかでも、別段かまいやしないんです。ただそれが自分の呼び名になっちまったからには、その気まぐれなり勘違いなりを起こしてくださったのが誰か、なんでそう呼んだのかくらいは教えてほしかったのに誰ひとり知りやしねえし、どうでもいいという態度をされたんで、なんで自分は毎日しんどい思いをしてまでこき使われて生き続けなきゃならないのか、わからなくなりましてね。だからって飛び出したり火をつけたりするほどの元気もねえし、店主のオッサンだっていじめ殺すためにあっしを飼っていたわけでもなく、長くこき使える程度には気もつかってくださいましたんで、自分はそのオッサンに作られちまったガキじゃねえかと疑った時もありましたが、そんなこともなくて踊り子さんが勝手に捨てていったブツらしくて、でも客のガキを産んじまったらしい踊り子さんもまた、病気でくたばったやつと客と逃げちまったたやつのどちらだかわからねえときやがりまして。そう聞いたらむしろ血もつながっていねえ自分を育ててくれた店主にはありがたいと思わなくもなかったのですが、でもそれを当のオッサンから毎日のように恩着せがましく言われながら汚れ仕事も身売りも押しつけられていたんで、まちがっても好いたり敬ったりする気は起きませんし、教えられた踊りだって、よそでは通じねえ子供だまし酔っぱらいだましのお遊戯で、体の売りかたなんぞはそれこそ余計なお世話で……いや、最初の客がガキしか抱けねえ女の扱いもひでえクズデブのおえらいさんだったから、壊されて気がふれねえように鍛えておいたらしいですけど、そもそも少しのうわのせ料金で胸もふくらんでねえガキに体まで売らせやがる人でなしにはちがいありませんし、そのせいかどうか、こんな年になってまで胸はぺったんこのまま、しかも店がつぶれた時に踊り子たちは勝手に売られていたもんですから、自分みてえな体つきに恵まれねえ数合わせの踊り子なんかはずいぶんと安く扱われて、しかも店主のオッサンはそこまでしても借金とりには殺されたとかで良かったのやら悪かったのやら、もし神様がどうこうしてくださったにしても、あんなどうでもいい小悪党をこらしめるより、あっしみてえに身よりも名前もねえ、体も頭もろくなもんじゃねえガキのどうしようもねえ暮らしをどうにかしてほしいもんでして」
「かみさま?」
「ええ、あっしの教わった踊りも、勤めている店のあった港町に伝わる地元の祭で、神様へ捧げるためのものだったらしくて。でもそれをいかがわしい格好で乳や尻を見せびらかす下品な手つき腰つきに変えて貧乏娘たちに体を売らせて早死にさせまくっていたんじゃ、神様に見限られるのも当たり前の……あれ? そうではなく『神様』を知らねえんですかね? いえ、あっしの知り合いというわけでもありやせんが、いろんな国にいて、というかどこにでもいるなんてのたまう坊さんも多いくらいですから、こんな監獄や便所でものぞきこんでいやがるかもしれやせんが、誰にも見えねえし話しもできねえのに、誰でも勝手に助けてどんな願いもかなえてくださるとかいう、とんでもなくえらいかたですよ。まあ、ずいぶん忙しいのか、あっしの近くを通りかかったことは少なさそうですが……なんです? なにか気にいりましたか? そんなうれしそうに……いえたしかに『神様』ってのは、いろいろと便利に使いまわせるようですし、いろんなどうしようもねえことの、最後の救いにまでなるらしいですけど……」
ヘルガは柔らかくほほえんで話を聞いていたが、だんだんと子供のように目を輝かせ、祭の舞台をながめるようにアンナを見つめていた。
アンナはとまどい、目の前に話を聞く相手がいるというのに言葉をつまらせてしまい、ゆるんだ苦笑からこぼれそうになった涙をあわててぬぐう。
「ああ、いけねえや。やっぱりヘルガさんはどうも、悪気がないぶんかえってたちが悪いですやね。そんな真正面から親しげにされたんじゃ、あっしみてえな独りもんはいちころですから……アンレイ先生と出会えたこともそうですけど、こんな物騒な名前の島にまで来ちまったせいか、神様も少しは気をまわしてくれるようになったんですかね? それともろくでもねえ人生の最後に殺し合いの見世物まではじめやがったばちあたりなガキに、盛大なお仕置きを飾ってくださる魂胆かもしれやせんが、とにもかくにも、にぎやかな暮らしは悪くねえもんです。いえ、あっしひとりが勝手に騒いでいるだけじゃ、胸の中は空っぽに冷えこんじまいますからね。ヘルガさんやアンレイ先生みたいな近くにいるだけで、明日も会えると思うだけで、温かい気分にさせてくれるありがたい人たちがこれまた、人前で殺し合う相手と、その殺しかたをたたきこむ鬼教官なんですから、やっぱこの住みいい島も名前は地獄がぴたりと合っちまうようで……」
立ち番の衛兵たちは、努めて耳をそばだてていた。
しかしいくらマリネラの指示でも、正確に記憶できるような言葉の量ではなく、どのように報告していいものか、ひそかに悩んでいた。




