第十話 邪神の慈悲 五 欠けているから当てはまる
黒鬼ブムバは水風呂につかったままアンナの言葉をほとんど聞き流していたが、不意に口をはさむ。
「おめえ、試合でもねえのに頭をかち割りやがったやつと話して平気なんかよ?」
アンナはハイエナのようにくすんだまだら色の短髪をかきあげ、生えぎわ近くの小さくない傷口を見せた。
「いえこのとおり、さいわい血を噴き出して剥げたくらいで、くたばらないで済みましたし、あっしも試合でもねえ時に殺してえとか思って話しかけていたんで、そのあたりに勘づかれちまったならしかたねえ気もしますし……ああ、そういやちょうど、そこの角っこでしたっけ? そこでこう、ばっくりと……」
アンナが石彫り浴槽のふちを指すと、いつの間にか近くにいた黒髪青目の少女もぼんやりとうなずく。
アンナの長話の間にヘルガまで浴場へ入りこみ、水遊びをはじめていた。
このころのヘルガは試合場の外では奴隷男と同じ布の腰巻と、胸を隠せるだけの布をひっかけてうろついている。
それらの布でさえ、フマイヤが話しかけるようになるまではボロボロにすりきれたものだった。
もともと豊かな体型はこの二年ほどで女らしさをさらに増している。
アンナも同じくらいの年齢だったが、少女らしい細さよりもさらに脂肪が削げすぎ、あばら骨の浮きが目立っていた。
青鬼ルネンバはブムバの隣でずっと黙っていたが『アンナがヘルガへ愛想よく話しかけたら、いきなり殺されかけた』という噂は聞いている。
アンナはたいていの相手に腰が低くて愛想もよいので、ヘルガへの殺意があったことや、それを本人にあっさり言ってしまえることは意外だった。
その話題をヘルガ本人の前で言いだすブムバの図太さもどうかと思う。
「ん? でもよ、おめえはヘルガをぶち殺してえとかわめいたわけじゃねえんだろ?」
「そうですけどね、ぶっ殺しあいの仕事が長い人たちって、そのへんを嗅ぎとる鼻も鋭くなるものなんでしょ?」
「ちったあ勘づきやすくなるだろがよ、そんな便利に使えるもんなら暗殺屋がメシの食い上げだろうし、おえらい貴族どもの護衛なんざ、人を殺しまくって鼻を鍛えてもよさそうなもんじゃねえか」
「それもそうか。でもアンレイ先生と同じで、いきなり目つきに寒気がしたんで、考えを読まれたかな、やべえかな、ごめんなさい、とか思ったときにはもう頭をぶっつけられて気絶していたんで……いえ、頭をかち割ってくださいやがったのはヘルガさんのほうだけで、アンレイ先生は組み伏せてくるだけでたいして痛くもなかったんですが、動けないし笑顔が怖いしであれこれ漏らしかけて……」
「ん? おめえ、アンレイのことも殺したがっていたんか?」
「いえ、それも別にたいした理由じゃないんですがね? むしろたいしたことでもねえのに殺したがっている目を向けられた人様の気持ちを考えりゃ、まあしかたねえ話でしょうし……」
そう話すアンナの苦笑も冗談話のように軽すぎて、ルネンバは黙って聞きながらも、ヘルガと同様にあまり近くにいたくない娘だと感じる。
一部の剣闘士は教官アンレイが『灼熱のヒルダ』にも高く評価されていると噂を聞きつけて指導を頼んだが、たいていは短く地味な指導で逃げられてしまう。
『舞姫スール』だけは指導に多めの時間が割かれ、試合での成果はすぐに出た。
アンレイへの指導依頼はさらに増えたが、そっけなさは変わらない。
そのため『スールのように素質の高い選手だけ磨いて、実績を稼ぐ気しかないのか』という陰口もたたかれるようになった。
アンナも噂を耳にして、話のタネに依頼してみる。
アンナもスールと同じくシロウトのまま剣闘士になったが、スールのような体格や足腰といった長所はないし、順当に最下位付近で負け続けていた。
アンレイはアンナに対しては剣のふりどころか、足運びばかりを延々と指導する。
しかしその指導はほかの剣闘士よりも長く続いた。
そこまでの理由は、アンナもなんとなく察する。
腕にそれなりのおぼえがある剣闘士たちは、地味な基礎鍛錬の効果を疑い、スールという実績が出ていてもなお、気を散らしやすかった。
アンナは自分に技量がまるでないことを知っていたので、言われたことを『願かけのまじない』くらいに思って、意味もわからないままひたすら従ってみる。
そうしている限りアンレイは意外に根気よく、丁寧に身のこなしを矯正し続け、アンナの体力気力が底をつくころに、ふいと指導を終わらせる。
しかしアンナは鍛えた成果がよくわからなかった。
試合では結局、腕力と体力、それに剣技の差で追いこまれてしまう。
以前より大ケガを負いにくくなっている気もしたが、かわせているわけではない。
やはり自分にスールほどの才能はなく、いずれは見限られるものと思っていた。
鍛錬は腕さばきへ移った。
やはり地味に、ぐるぐると手のまわしかたを仕込まれるばかりだった。
その鍛錬を続けても、剣の打ち合いはろくに受けきれない。
しかしなぜか、かわせることが多くなっていた。
「剣で受ける訓練をはじめたのに、なんで足のほうが動き出すんだか」
アンナは訓練用の木剣で打ち合いながら自嘲したが、アンレイは淡々と答える。
「腕で守れるようになってきたから、それよりも足でかわし、そもそもの位置どりを奪っておく有利を体がおぼえはじめている。それと姿勢と間合どりの安定によって、攻守の動きを少しは意図どおりに近づけているかもしれない」
言われてみると、下手なりに出してみた攻撃のまぐれ当たりは以前よりも増えていた。
同じ下位選手が相手であれば勝率は上がっている。
中堅以上には勝てなかったものの、大ケガによる不戦敗は減って、結果としての戦績は少しずつマシになっていた。
「今までの鍛錬は死なないための技術。これからはそれらをつなげ、勝てる技術を増やしていく」
アンナは『勝てる』という言葉で身震いした。
アンレイはほかの剣闘士も指導しながら『優れている』などの褒め言葉は多用していたが『勝てる』という言葉はほとんど使わないし『勝てるか?』と質問されても率直に答えることはない。
指導や人づき合いと同様に、武芸に関しては勝負への見解も偏執的に厳格だった。
運や相性も大きい剣闘で勝利できる可能性については、極めて慎重に表現しているはずだった。
「どうもわからないのですがね、アンレイ先生はなんであっしなんかへ指導を続けてくださるんですかね? いえ、あっしは今まで、これほど自分をひいきにしてもらえたことなんて、そうそうなかったもんで……まさかこの貧相な体が好みってわけでもないでしょう?」
「体も悪くない。手足が長く、それなりの背もあり、無駄が少ない。目の配り、気の配りも細かい。意欲が長持ちし、おぼえも早い……」
アンナは照れて剣さばきを乱すが、アンレイは淡々と打突で矯正を続ける。
「……スールはそれらの多くで互角に近いか、より優れている。しかし私からすべてを盗みきる素質には欠けている」
アンナは指摘されるまでもなく、自分はスールよりも『欠けている』部分が多すぎると思うし、そんな自分がスールにはない素質など持っているとは思えなかった。
それでも、なにかの誤解であろうと、スールよりも期待されていることはうれしい。
「それでも貴方だけをひいきにしているつもりはない。意欲と素質に合わせた指導をしているにすぎない。私の指導が不必要に思えたら、すぐにもその顔と名前は忘れる」
アンナは息をつまらせた。
今まで多くの者から虫ケラみたいに扱われることには慣れていたが、アンレイの発した『忘れる』の一言は自分の首をもぎかけている指先に思えた。
……訓練用の木剣でも、のどを突けば殺せる。
そう思った瞬間、アンレイの腕が蛇のようにからみつき、地面に押さえこまれて身動きできなくなっていた。
耳元近くにあるアンレイの顔が、いつもよりはっきりと笑っていた。
「かまわない。私を殺せそうであれば、いつでも殺していい……貴方は誰にでも親しげに話しかけるが、その誰にでも刃を突き立てそうでもある。そこを見込んでいる」
そうささやかれて、今までの厳しさとはまったく別の恐ろしさを感じる。
アンナは踊り子つきの酒場で客引きだけでなく売春もやらされていたが、その中で最も気色悪かった客を思い出した。
とても親切だったが、それは客自身の好みに合わせて娼婦の心身をいじくり変えたい欲望の深さだった。
自身を『殺していい』と言うアンレイこそ、アンナを含めたすべての人間をいつどのように殺しても『かまわない』と見ていたことを確信する。
ただなんとなく、アンレイのバケモノじみた本性を鼻先で嗅ぐと、自分の『欠けている』部分の大きさこそアンレイに求められている気がして……いじくり変えられるのも、悪くない気がしてきた。
「貴方は私より強くなれるかもしれない」
アンレイは『強い』などの褒め言葉もばらまくが、かつて『私よりも』と言った相手は教官の『女巨人ヒュグテ』だけで、それさえ『かもしれない』とつけ足している。
アンナはそんな過去を思い出しつつ、ヘルガが桶に少しだけ水をくんではかぶって戯れ、前髪にしたたる水滴をほほえんで見つめる姿をながめた。
自分やアンレイよりも欠けている部分がはるかに大きい気もしたが、それすら今では妬ましい。
「……結局なんであっしなんかが相手にされているのかはよくわかりませんがね。ともかくも指導をつけてくださるっていうなら、あとはどう思われていようがかまわねえって、開きなおることにしましてね」
「だからって『見込みちがいならさっさと見捨てて忘れる』なんて言われりゃ、そりゃムカつくだろ……いやおい、それでも殺すほどのことか?」
「ですから、そこはどうも、あっしが気にしすぎているだけなんですよ。なにせ親には名前すらもらえなかった身の上で、他人様におぼえてもらえることだけが自分のいたたまれなさをやわらげてくれるんで」
アンナは気色悪いなじみの売春客のことも、嫌いではなかった。
ただその中年男が見ていたのは抱くための肉体だけで、アンナを名前で呼ぶことはなかった。
ほかの娼婦に刺されて死ぬまで、アンナの名をおぼえることもなかった。
「いやおい、それだけベラベラとやかましいおめえのことなんざ忘れようもねえだろが。それよか好かれてえなら、少しは女らしくおしとやかになろうとか思わねえんかよ」
「ブムバの姐さんにそれを言われちゃおしまいですやね……待って殴らないで衛兵さんも見てますからね?」
アンナは水風呂を上がって逃げつつも、うれしさで苦笑はゆるむ。
「なんですかもう、やぶからぼうに『忘れようもねえ』なんて……」
アンナが装備を変更して最初の試合は、実力差の大きい組み合わせながらも注目が集まった。
「いやもう、恥ずかしいから勘弁してほしいですやね。いちおうは元『踊り子』同士の対決とはいえ、役者というか見てくれのちがいがひどすぎるし、たしかにあっしは防具の調整なんかは好きなようにしてくれとは言いましたけど、ひっぺがすだけでなく妙なもんまで足さなくたって……」
アンナの紐に似た金属防具は胸と腰の一部だけを申しわけ程度に隠し、腰の両端と胸元にひとひら、花色の飾り布がついていた。
「アンナちゃんの抱きしめたくなる体型には似合っているよ?」
後から試合場へ入って来たスールは両手に金属性の扇子を持ち、豊かな体型を強調する露出しすぎた衣装でほほえみかける。
両目は対戦相手の装備ばかりをじっくりと観察していた。
アンナの革小手は厚い鉄輪で補強され、両手の革手袋には槍の穂先に似た刃物が甲の部分で固定されている。
審判を務める若い女教官ライシェルは声を張りあげた。
「鉄扇使い『舞姫スール』対、拳刃使い『名無しのアンナ』!」




