第五話 罪深き純真 四
「謁見まで正式な決定ではありませんが、賞金の代わりの試合組みは認められる手はずです」
「ああ、ありがとな。……なあマリネラさん。『ヘルガ』をぶち殺した報酬でも、あの領主はオレの頭をなでてくれるのかな?」
「それはまちがいなく」
「おい、まだ本人があの『約束』を言う前だぜ? 今までもオレには指一本……」
「フマイヤ様はご自身の奇病に配慮し、直に触れる者は専属の看護人十名と、側室の中でも接触を望まれるかたたち、あとはヘルガさんと私だけになります。しかし事前の準備さえあれば、その限りではありません」
マリネラの仮面のような笑顔が、だんだんと真顔に近づく。
「フマイヤ様は領民に、こと剣闘士には深い敬意を払っております。ヘルガさんを大事にしているからこそ、その命を奪った剣闘士には心からの祝福をお与えになるでしょう」
「その理屈はよくわからねえけど……でもマリネラさんが言うなら、まちがいねえな。あの女を殴り殺しても、嫌がらずに頭をなでてもらえる……それだけたしかなら、言うこたねえよ」
うつむくボリスはマリネラの沈んだ心配顔に気がつかない。
マリネラが去った控え室へ、医者の老婆とふたりの医者見習いが入ってくる。
若い新人ヘスポアはボリスのズタズタにされすぎた両腕を間近に見て気を失う。
「衛兵! そいつを起こして、使えないようなら代わりを連れてきな!」
老婆の怒鳴り声でヘスポアは起き上がり、中年女の見習いといっしょにボリスの傷を洗い、傷口に入った布片や砂をトゲ抜きと綿で丁寧に除く。
「こいつはこれくらいじゃ、来月にはまた戦っている。ここにはそういうバケモノが多い……だがこいつは傷痕が残りやすい体質だし、腐ってめんどうになりかけたことがある。出血や痛みにかまうこたないが、消毒と縫合だけは丁寧にやりな」
老婆は不機嫌にブツブツ言いながら、手際は異様に速い。
ヘスポアは半分も追いつかず、表情も困惑している。
「また来月にはこのようなケガをなさるなら、いったいなんのために治療を……?」
「知るか! 無駄口たたくな新人!」
「わりいな嬢ちゃん先生。くたばりそうならほっといてくれてもいいんだが、まだ働けそうだからな」
ボリスは少し眉をしかめるだけで治療の痛みに耐え、薄く笑っていた。
どうにか大雑把に血が止まると、老婆は早足に立ち去る。
「あとは任せる。ここでは邪魔だから、牢へ連れていきな」
牢で治療の続きをしていると、中年の医者見習いも衛兵に呼ばれて消えてしまい、新人のヘスポアがひとりで残りの処理を任される。
「本当に頑丈な……でも『傷跡が残りにくい』かたなんて、いるのですか?」
「見たろ? 黒髪青目の『ヘルガ』ってやつが特におかしい」
ヘスポアは気まずそうにそっと目をふせる。
「あいつ、ここにもう何年いるんだか……傷も骨折もやたら早く治って、ほとんど痕に残らねえんだ」
ボリスの表情は意外に落ち着いていた。
「そ、そうですか……便利そうですが、少しさびしい気もしますね」
「ん? まともな女は、体に傷が残ったら困るだろ?」
「そうですけど……」
ヘスポアは自分の衣服をずらし、背についた火傷の痕を見せる。
「これは祖母を火災から助け出した時についたものです」
「ああ、それなら自慢になる名誉の傷だな」
「はい。そう言ってくださる殿方しか、夫にしたくありません」
ヘスポアが笑顔でうなずくと、ボリスもうなずき返す……しかし唐突に、ボロボロと涙を落とした。
「な……なにか手当てにまちがいが?」
「いや、最近、変な時に涙がでてよ……オレはまさか、オレの傷を、みっともない昔ごと気にいってくれるやつがいるなんて、思ったこともなかったんだ。だから相手も考えないで、高望みしちまった……今まで男のことなんて、気にしたこともなかったのによ」
「私はそこまで思いを深められる男性に出会ったことがありませんので……うらやましく思います」
ヘスポアはそう言ってほほえんだあとで、見習いの先輩から『患者とは互いのために、仲良くなりすぎないように』と忠告されていたことを思い出す。
「それならオレは、運がいいのかな? この島じゃメシに困らないし、いい客といい仲間がいる。拳闘場よりは人死にが多いけど、自分が埋まるには文句ねえ場所だと満足していた……はずなのに……近ごろはどうも、鎖をはめられて焼きごてで遊ばれていたころと比べちまう」
ボリスはうつむき、傷ではない痛みに耐えていた。
「早く来月になって、試合がはじまってくんねえかな。あの女を殺さねえと、なにもかもどうにもならねえ……本当は、あの女に恨みなんかねえんだけどよ」
ヘスポアは黙って退室した。
医者見習いの新人として一ヶ月が経ち、多くの剣闘士と関わり、ボリスが剣闘士にしてはおとなしくて腰も低い、医者にやさしい患者だとわかりはじめていた。
しかし領主への思慕が、あのような殺意につながる心情は理解しきれない。
「やはり剣闘士は殺し合いと隣り合わせに暮らす、まるで違う生き物……?」
あと少しで理解できそうな気もして怖い。
逃げるような早足になり、なぜか『ヘルガ』の顔が浮かぶ。
剣闘士仲間にすら恐れられ忌み嫌われる、得体の知れない美女。
はじめは狂女とばかり思っていたが、すべてを見透かしてほほえんでいるように思える時もある。
居ずまいが殺戮の祭壇になじみすぎ、溶けこんで見える時まである。
その真相など、知らないほうがよさそうだった。
「ひぃ!?」
通路の曲がり角で、頭ひとつ高い褐色の長身とはちあわせる。
すれ違える通路幅はあるが、ヘスポアは足がすくんで固まってしまった。
つややかな黒髪、長いまつげ、親しげなほほえみ。
ヘルガは裸同然の体を壁にすりよせて道を開けながら、そっとヘスポアの背に触れる。
ヘスポアも表情をゆるめて会釈し、そっとすれ違う。
すれ違って数歩。ヘスポアの笑顔が不意に消えた。
衣服ごしに触れられていた部分が、ちょうど火傷の痕と重なっていることに気がついた。
偶然とは思っても冷や汗が浮かび、背を押された温もりが急に、忌まわしい穢れのように感じられてきた。
一ヵ月後の競技祭。
医者見習いたちが治療に使う大量の布束などを用意していると、医者の老婆が入ってきてヘスポアを指した。
「今日はアタシといっしょに、上で待機しな。おまえはもう少し『患者の仕事』を見ておけ」
女剣闘士たちとは反対側の最前列に席が用意されていた。
あまり見かけない男の剣闘士たちもまばらに座っていたが、肩身も狭そうに後部席へ寄っている。
客席は村祭のように明るく楽しげで、しかしどこか後ろめたさを秘めた緊張がこもっていた。
最初に見た下位選手同士の試合は不様なもので、刃物の先で脅し合いながら、不意に腕を斬りつけられた一方が悲鳴を上げて転がり、降参して決着する。
なぜあんなものが見世物になるのか、ヘスポアには理解しがたい。
「なんだあ!? もっと派手に刻めよ!」
「手足が飛んだわけでもねえのに、なにをわめいてやがる!」
観客が飛ばす野次も、とても人のものとは思えなかった。
次の試合になると、片耳を斬り落とされた剣闘士は黙っていたが、降参を勧めた相手へ体当たりして突き転ばし、手にした斧を何度も頭へ振り下ろした。
そのような光景に対しても、観客は悲鳴よりも歓声が大きい。
老婆は吐き捨てるようにつぶやく。
「はじめはアタシだって、そういう顔で見ていたさ。まったく、どうかしている」
衛兵が老婆へ立つようにうながしたが、めんどうそうに払いのけられた。
「耳くらいは見習いに任せていい。もうひとりは診るまでもない」
中堅、そして上位陣の試合になると巧みな技の応酬もあり、観客も感心のどよめき、そして熱狂的な賞賛も送るようになる。
それでも決着となると、腕をからませて首を絞めたり、鎚で足をへし折るなど、マシな手段であっても目をそむけたくなる。
老婆は選手の骨折を見ると、決着が宣言される前に立ち上がった。
ヘスポアも同行し、選手の控え室で添え木と広い包帯を用意して待ち、わめきながらもどってきた担架の剣闘士を迎える。
老婆は足の処置だけ終えると、ほかの傷は見習いに任せ、ヘスポアには荷物を運ばせてさっさと客席へもどる。
「休むことだって仕事の内だよ。あのバカどもは信じがたい無茶をするから、いつどこで具合が変わってくたばりかけるか、わかりゃしない。あんたら見習いにも、できそうなことはなんでも押しつけるからね」
日暮れに近づいた最終戦は、試合前から客席の騒ぎも高まっていた。
「領主様もついに『悪魔の娼婦』を始末する気になったのか!?」
「いや『始末屋』のほうから『死神』退治を願い出たらしい!」
「ボリスが本気なら、上位陣でも無事では済まない!」
「『狂犬』同士、骨まで喰い合え!」
試合場に立っているふたりは『地獄の島』でさえ最も悪名高い女剣闘士と、ヘスポアが医者見習いになってから最も多く関わった女剣闘士だった。
「拳刃使い『愛しのヘルガ』対、拳闘使い『始末屋ボリス』!」
男のように太い腕と脚、全身に様々な傷をつけた女剣闘士はうつむいて無表情だった。
開始の鐘で顔を上げ、相手を暗くにらんで拳を振りまわす。
長身褐色の美女も無表情に、重い殴打を受け流す。
歓声はみるみる低くなる。
「ああ~、だ、だめだ~」
「攻め続けているのに、まるで当たらない……これじゃいずれ……」
「相性が悪い上、技量の差もあるからなあ?」
「いくら登り調子でも、やっぱり中堅どまりの選手か」
「最終日の最終戦にするくらいだから、もう少し期待していたんだが……」
客はいつもどおり、勝手な早とちりをわめき合っていたが、奇妙な空気も流れていた。
野次が不自然におとなしく、声音にとまどいが混じっている。
「しかし『始末屋』から仕掛けるなんて珍しいな?」
「アイツも、いつまで殴らせているつもりだよ?」
ボリスにいつものニヤニヤ笑いはなく、はじめから全力の殴打を続けていた。
ボソボソ話している様子もなく、顔は苦しげにゆがんでいる。
ヘルガはいつものように、ゆらゆらとつかみどころのない動きで多くの拳撃をギリギリにかわしていたが、少しずつ後退していた。
青い瞳はじっと相手を見つめている。
鋲つきの重い拳を受け流す革の小手も少しずつ引き裂かれ、時には顔をかすって血をわずかに奪う。
「う……う……?」
しかし急速にボリスの息があがり、間合を離されそうになり、守りもおざなりに追いすがる。
ようやくヘルガが出した牽制の刃は鋭く顔をとらえ、目を奪う寸前で額にずらされる。
血糊が頬までつたい降りた。
「ボリスのやつ、とばしすぎだ!」
「どうしたんだよ? 新人じゃあるまいし、あんなゴリ押し……?」
しかしボリスはさらに無謀な猛攻をはじめる。
「ああああ!」
刺し違えを本望とした怒涛すら、ヘルガの頭や腹には届かない。
「ちくしょう! ちくしょう!」
客の声が低まってきた試合場に『始末屋』の悲鳴じみた叫びが響く。
ヘスポアは『始末屋』と『死神の落とし子』の涙を同時に見る。
直後の拳撃は、防いだ腕にやや深く入ったように見えた。
「骨がいったかね……だが待て」
老婆は衛兵をひとりだけ走らせ、ヘスポアを引き止める。
診立てのとおりにヘルガは苦悶の表情を見せ、腕をかばうようにかまえを変えた。
腹に、頭に、ボリスの拳がかすりはじめる。
観客が爆発的な歓声を上げた。
「小手ごと『死神』の骨をたたき折りやがった! たいした豪腕だ!」
「処刑だ! ようやく『狂犬』の死骸を見物できる!」
「あれくらいじゃだめだ! ジーナもグレースもそれでやられた! 『悪魔』の首をへし折れ!」
観客自身は気がついていないようだが、選手の異名へ誘われるように、人ならざる内面をさらしていた。
ヘスポアは今すぐ島の外まで逃げたい気持ちに苦しみながら、そうしたくない使命感も握りしめる。
ここで目をそむけたら、自分が看護を続けたボリスという女性を、ただの『狂犬』と認めてしまうことに思えた。
「でもなんで『始末屋』まで泣いてんだ? 砂でも入れられたか?」
ボリスだけでなく、ヘルガも腕が折れる前から涙を落としていた。
ヘスポアはふたたび、剣闘士という生き物がわからなくなる。
ヘルガが鋭い刺突、斬撃で押し返す。片腕しか使っていないが、正確な上に鞭のように速い。
足はなめらかに回りこみ続け、グニャグニャと間合いを大きく揺らす。
ボリスは息が苦しげで、両腕を使っていながら防御も反撃も追いつかない。
「ああ、ちくしょう、うまいよな……きれいな体してやがるよな……」
古傷だらけ、そして真新しい傷にまみれていく顔へ、深い闇が広がる。
「でも恨みなんかねえよ」
ようやくかすかに笑い、腕を振るって血しぶきで目つぶしを放ち、肩から突進する。
ヘルガはとっさに腰を落としてかまえたが、褐色の長身はふっとばされて転がり、ボリスも倒れこんだ。
先に起きたボリスの姿勢が崩れ、片膝をつく。
「ぐ!? なんだよこれ……!?」
腹に深い傷が開き、脚をぬるぬると染めていた。
「う……ふざけんな!? が……!?」
這いずり、砂地に血の跡を広げていく。距離はほんの数歩。
ヘルガは腕に深い刺し傷が見えて鼻血も出していたが、目は開けている。しかし瞳の焦点は定まらない。
手足も動いているが、まともに起き上がれる様子でもない。
ヘスポアは集まる視線を感じた。
医者の老婆は身を乗り出して目をこらす。
「青目は頭を強く打ったようだが、あれくらいならアイツはたぶんなんとか……まずいのはもうひとりだ。あの位置と深さはさすがに……」
ふとヘスポアがふりむくと、領主のすぐ側にいたはずのマリネラが、いつの間にか自分のすぐ背後に立っていた。
仮面のような笑顔に、迷いとあせりがにじんでいる。
「プラクシテラ様。ボリスさんはあとどのくらい……」
「そんなもん、わかってたまるか。あんたがとっとと決着させないと、助かるものも助からないってのに……」
老婆が立ち上がって駆け出し、ヘスポアも追う。
間もなく審判女がボリスの勝利を宣言し、大きな罵声が巻き起こった。
「きたねえ! 決着を早めやがった!」
「かまわねえからやっちまえ! 急げ『始末屋』!」
客席の騒ぎは内部通路にまで届く。
「あの『悪魔公』どののことだ。おそらく『約束』の『十歩』はきっちり待っただろうさ。だがもっと時間があったところで、とどめは刺せたかどうか……まあ、そのあたりはアタシらの知ったこっちゃない」
老婆は苦々しい顔になり、小声でつぶやく。
「マリネラのバカめが。あれほどの才を持っていながら、乱痴気さわぎばかりにかまけおって……」
患者が動かせそうにない深手とあって、老婆と医者見習いたちは試合場まで駆け入った。
ヘスポアは客席にいた時には感じなかったぶ厚い圧迫に包まれる。
囲んでそびえる激情の波濤が、重い吠え声でのしかかってきた。
「ぐあああ~!?」
行く手で悲鳴を上げていたのは若い衛兵男だった。
「まだ……決着が……」
ボリスは衛兵の腕をつかみ、金属の小手がゆがむほど握りしめていた。
「おまえの勝ちだ! 殺したいならまた今度に……手を放せ! もう体力を使うな!」
中年男の衛兵がボリスへ酒をあびせ、若い衛兵もようやく脱出できる。
「ひぃ!? 折れて……!」
腕を抑えてへたりこむが、老婆は足蹴にする。
「やかましい、失せろ! ……腹から縫う! 胸に近い出血から抑えな!」
衛兵が数人がかりでボリスを押さえ、医者見習いたちも処置にかかる。
ヘスポアは縫われる前の傷を抑え、布で縛りつけた。
「ボリスさんの勝利です! 望みはかないます! どうか今は、動かないで!」
ほかの見習いたちはヘスポアの私語に非難の目を向けたが、気難しい老婆にとがめる様子はなかったので、放置された。
患者の余命に追われて血まみれになり、体力と気力をふりしぼるしかない戦場となる。
応急処置を終えると医者見習いたちはへたりこみ、ボリスは担架で宿舎牢へ送られた。
「新人、おまえが見張っておきな。助かるかどうかは怪しい。もし目を覚ましても、動けばすぐにくたばる」
ヘスポアはボリスの牢でふたりきりになる。
中堅選手にしては室内の物が極端に少なく、鍛錬用らしき岩がいくつか転がり、卓上には包帯ばかり並んでいた。
包帯まみれの全身はあちこち血のにじみが大きく広がり、とてもふたたび動けるようには見えない。
すでに日は暮れかけ、報酬の授与式などが行われている時間で、試合中よりは控えめな歓声が届いている。
今ごろほかの医者見習いたちは片づけに忙しいはずで、ヘスポアは自分が見張りの名目で早めの休憩を与えられたことに気がつく。
この島に来て二ヶ月、多くの治療手順を身につけた。
剣闘士たちの獣とは異なる顔も知り、新たな苦痛も感じはじめている。
『地獄の島』『悪魔公』『死神の落とし子』の様々な顔は、いまだにつかみきれない。
自信のゆらぎを常に感じながら、この地で一人前になりたい気持ちも強くなっている。
しかしそのような物思いにふけっていられるのも、目の前で厚みのある体が起き上がるまでだった。
ヘスポアは牢の格子まであとずさり、悲鳴じみた声をあげる。
「動いてはいけません! 死んでしまい……」
「よう。わざわざすまねえな」
包帯をひきむしりながら笑う傷だらけの顔は、ヘスポアより頭ひとつ高い上を見ていた。
「ひ、ひぃい!?」
ヘスポアのすぐ背後で、黒髪青目の美女が優しくほほえんでいた。
「同じ『狂犬』だもんな。あんたに先に気にいられたっていうのも、今はそんなに悪い気がしねえや」
ボリスはゆっくりと両拳をかまえて立つ。革鎧を脱がされただけで、手甲も肩当てもつけたままだった。
ヘルガは右腕が添え木に縛られ、左腕は深い刺し傷からまだ血を点々と床に落としたまま、まだ身につけていた拳の刃をかまえた。
重い殴打、鋭い刺突の吠え声が牢内にあふれ、格子を揺らして床を彩る。
ヘスポアは這いずって廊下へ出ると、腕を振り回して衛兵に助けを求めた。
声すら出せなくなった蒼白な顔に、くり返し血しぶきが飛ぶ。
領主とマリネラが駆けつけたころには、野次馬の剣闘士まで集まっていた。
身をちぢめて震えるヘスポアが担架で運び出され、衛兵たちは状況を報告する。
ボリスは寝台に横たわって宙を見つめ、息はかすかに残っていた。
ヘルガは血まみれの両腕をだらりとたらしてかがみ、ボリスの顔をのぞきこんでいる。
衛兵たちは槍の穂先をつきつけて囲んでいたが、マリネラの指示で引きさがった。
「うむ……ヘルガには規則通りの罰金を」
フマイヤはそう言ってかがむと、ボリスの荒れた髪をゆっくりとなですく。
「それと今夜の寝室は、ここに用意してくれ」
衛兵や侍女はとまどい、剣闘士たちは呆れかえる。
古傷だらけの頬に、細長い指先がゆっくりと這った。
「いい笑顔だ。この女は、傷の奥が優しい」
フマイヤがつぶやくと、ボリスは静かに息を引き取る。
ヘルガだけがほほえんでうなずいた。
野次馬が去り、衛兵も離れ、侍女たちは絨毯や酒肴を運び終える。
指示を出していたマリネラも最後に退出するが、格子を閉じる前にそっとふりかえった。
フマイヤが目を閉じさせた傷まみれの女性へ、かすかにつぶやく。
「おつかれさまでした」
さびしそうに笑った。
(『罪深き純真』 おわり)




