第七話 鮨の向こう側
鮨の向こう側
月日はまさに矢のように流れる。
あの川辺の日から数か月。私は2年生となり冬を迎えていた。1年生のときはどこか浮ついたところがあったが、進級し後輩も入学する頃には皆そういった雰囲気もなくなってきていた。学校では後輩の面倒は先輩がみることになる。そんなとき下級生にみっともないところは見せられないということだ。先輩面できなくなる、というのは言葉が悪いだろうか。
もっとも、中には変わらない者もいる。我が友であるトム・ベーコンもそんな1人だ。彼の明るくそして行動的な性格はともすれば軽薄なものに見える。時に発する際どい冗談もその印象に拍車をかけているだろう。一部の貴族子弟からは嫌われている。彼もその辺りは理解しているが、どうせ新興勢力の出であるからには敵は多くなるものだと割り切っている。敵より味方が多ければ良いのだということらしい。
実際嫌われている以上に彼を好ましく思う者は多い。同性はもちろんだが、異性にも好意的な目で見られている。残念なのはそれが恋愛に結びつかないところだろうか。
違う意味で変わらないのは、同じく我が友の1人ヴァレンタイン・パルトロウ。1年のころから既に落ち着いて雰囲気を持っており、2年になってもそれは変わるところがない。思慮深い性格で面倒見も良いため周囲の信頼も厚く先輩や教師からも目をかけられている。このままいけば、寮の監督生になるのは確実だろう。
ただ交友関係はトムとは逆に、嫌う者は居ないが深い付き合いをする相手もいない。例外なのは私たちだろうが、それでも私は彼に名で呼ばれた覚えはなく常に姓で呼ばれる。紳士としての礼儀であるのだが、どこか壁を感じる。とはいえ、彼が私のことを友人として見ていてくれることはよく分かっている。なぜなら、
「大丈夫かピープス」
そう心配そうな顔で私に尋ねる彼の目を見れば、その友情と誠実さに疑いようなどない。
返事もおっくうなほど憔悴しきっていた私は、仕草で大丈夫だと答えると用意していた薬に手を伸ばす。
「しかし、何時ものことだとはいえ災難だったな。エクルストン先輩に悪い気がないのは分かるのだが、もう少し無茶を控えてほしいな」
そう苦笑しながら、水差しから器に水を汲み私に手渡してくれる。
まあ、なんだ。アンジェリカのあの性格も変わりはしない。おそらく、1年の頃からずっとあの調子なのだろう。言っても仕方ない話だ。
トムもヴァレンタインもアンジェリカも、私の周りは変わらない者たちばかりだが、はて自分はいったいどうなのだろうか。などと考えてみるのだが、これはいけない。
「薬が効いてくるまではじっとしていた方がいいぞ」
腹を押さえて部屋を飛び出した私にヴァレンタインがそう声をかける。
まったく、【鮨】など食べるのではなかった。
半年前の天麩羅パーティーを機に、私たちとアンジェリカは交流を持つようになった。学内で会えば他愛無い雑談を交わし、時にお茶会を開き、あるいは食事を一緒に取ったり、あるいは合同授業では一緒に行動をしたり。
同室のトムとヴァレンタインだけではなく他の友人たちも誘い、アンジェリカやその友人からもまた別の友人を紹介され交流の輪は広がっていった。
結果として、私たちはアンジェリカ閥に組み込まれることになる。
人間が集まれば派閥が出来るのは当然であり、それは学校であっても例外ではない。侯爵家令嬢でありあれだけ活発な人柄であるアンジェリカを中心に派閥が出来るのもまた自然な流れであろう。
それは決して悪いことではない。学校生活において、こういう親しい仲間がいると何かと便利である。男女間や学年間での伝わりにくい情報の共有や、手を借りたいときには力にもなってもらえる。そして、ここで培った人脈は将来役も立つだろう。
また、派閥に属することで生徒の下手な行動を抑制するという側面もある。ある派閥の1人が何かやらかしてしまえばそれは同じ派閥の仲間への評価にもつながってしまう。仲間の顔に泥は塗れないと意識していれば下手な行動はしないだろう、と教師たちは見ているようである。
もし派閥同士で険悪な関係にでもなれば問題も出てくるだろうが、今のところそこまでひどい対立は生まれていない。もちろん仲の悪い派閥はあるし、過去には卒業後まで引きずるほど深刻な対立が生まれたこともあるそうだ。
とにもかくにも、そもそも貴族社会というのは派閥が重要な世界だ。これも一種の予行練習であろう。
さて、我がアンジェリカ閥では変わったことがある。それはアンジェリカがその転生者としての知識から生み出す様々なものだ。
例の天麩羅の様な食べ物や生活の中で使う小物あるいは娯楽など、それらを私たちに試させるのだ。
彼女も何でも手当たり次第試させている訳ではないので、たいていは好評を得るのだがやはり外れもある。
道具で外れたのはソロバンであろうか。私が最初の家庭教師との会話で出た物だったが、これは計算のための道具だったらしい。転じて計算をすることを指してソロバンを弾くというそうだ。
アンジェリカは皆に実家で生産したソロバンを渡し使い方を教えてみたのだが、大半が投げ出してしまいアンジェリカは肩を落としてソロバンを実家に送り返してしまった。
投げ出さなかった中では、トムはしっかり理解してソロバンを使いこなしアンジェリカからソロバンを譲り受けると共に「ディ・モールト素晴らしいわトム君!」と抱擁を受け鼻の下を伸ばしていた。おかげで、同席していたトム意中の娘に非常に白い眼で見られていたが……トムの恋路がどうなったかは敢えて触れまい。
道具以上に外れる可能性が高いのが食べ物である。歯にくっ付く上に色が嫌だと言われた【海苔】。なぜ出したのか正気を疑った【納豆】。どうしてもお菓子だと納得してもらえなかった【煎餅】。一方で初めは「虫の体液ですかこれ!?」と散々に不評だった割には、料理に使うと好評だった醤油などもある。
そして昨日の鮨だ。
生の魚を酢で味付けした米に乗せるというなんとも単純な料理。米は何度かアンジェリカの用意した料理で食べたことはあるので問題はなかったのだが、さすがに生の魚には誰もが躊躇した。
「やっぱり無理だったか。仕方ないわね」
予測はしていたのだろう。残念とわざとらしい溜息をつく。その時、彼女が目線を私に向けた。何とも言い難い感情の色を宿した目だ。探るような期待するような。
見抜かれたなとそのときの私は思った。
実は、鮨を見たとき私の脳裏には鮨に関する記憶が現れていたのだ。鮨に関する知識、そしてその味に関する経験。
食べたい、ぜひとも味わいたいという欲求のまま手を出したかったが、今、ここで手を出すわけにはいかなかった。出してはいけなかった。故に、我慢していたのだが見抜かれたのなら仕方ない。
そう理由をつけると、私はおもむろに鮨に手を伸ばした――
その結果がこれである。
見事魚に当たった私は翌日を酷い腹痛に悩まされ過ごす羽目になってしまった。
「運が悪かったわね」
カラっとした笑みとともにそう言った彼女に、私が思わずコブシを握ったのは仕方ないことだろう。
出すものを出して薬を飲み一晩休んだ私がいつもの庭園で彼女に出会ったとき、彼女は私が鮨に当たったことを知らなかった。てっきり彼女も食したものだと思っていたのだが、私が食べた物だけ悪かったのだろうかと首をかしげる。
「違うわよ、私生魚ダメだし。どうも今の体と相性が悪いみたいね」
だったらなんで鮨なんて用意したのだろう。
他の者たちが食べられないであろうことは予想していたようであるし。
「……エリック。あなたに2つ謝るわ」
突然彼女の顔から笑みが消えると、いつになく真剣な表情でそう言った。
彼女のこんな顔など初めて……いや、あの時の川辺以来だろうか。
突然、嫌な予感がした。
「1つは、鮨が悪かった件。ごめんなさいね、できれば自分で試食すべきだったわ」
その謝罪は受け入れよう。それほど大事なかったのだから問題はない。問題なのはもう1つの方だろうか。一体何を謝るというのか。
嫌な予感がいっこうに消えない。
「もう1つは、鮨を使って貴方を試したこと。いや、鮨だけじゃない。色々な前世知識で用意した物を使って貴方を試したことについてね」
どういうことだか話がみえない。私を試したとは、いったい何を試したというのか。
嫌な予感はますます膨らむ。間違いない、この予感は彼女の言おうとしていることに関してだ。しかしその意図が見えない。目的が分からない。だから、取りあえず黙って彼女の話をきくしかない。
「前に、貴方が前世知識を使って何もやっていないと知ったときから気になっていたの。なんでかなって」
その時、嫌な予感は私のなかで確信に変わった。間違いなくこれは嫌な話だ。
「あのとき、貴方が前世知識を使って何かする気がないっていうのは分かったわ。そしてそれに口出しをする気もない。ただ気にはなったのよ。なぜ、前世知識を利用しないのかなって。知識が足りないからかなと思ったけど、貴方の小さいころからの話だとどうやらそれだけじゃないみたいだった」
いつもと違う。いつもの様な大袈裟な身振りはない。ただ、その意志の強そうな琥珀色の瞳で私をジッと見続けているだけだ。
嫌な話だが彼女のそんな態度を見ていると、この場を離れようという気がなくなった。
他人の心を探ろうなんて趣味の悪い話のはずだが、不思議とそれほど強い嫌悪感は覚えない。
彼女の視線を受け止めしっかりと見返しながら、ただ心臓はさきほどからバグバグ唸り続けている。
「あの日から、私が用意する前世知識に対する貴方の反応を観察していたわ。そして、鮨に対しての反応で1つこうじゃないかなって思い当ったわ」
そういえば、あの川辺でもこうして視線を交わしあっていた。あのときは、彼女の方が視線を先にそらしたのだが――
「あなたは、前世の知識を怖がっているのね」
その言葉に、私は視線をそらせてしまった。




