第3章 冥府の母(9)
眼が眩むほどに歪む空間を抜けた先では、青々とした新鮮な空気が待っていた。
緑の芝生が広がっている。
目の前には背の高い時計塔も建っていた。
文明のある世界。
時計を見上げたエリスが呟く。
「メビウス時計台」
それは帝都のエデン公園の敷地内にある時計塔の名。
呪架とエリスは無事に生還したのだ。
この場所は夢殿の目の鼻の先ほどの距離にある公園で、時計塔の付近は磁場だけでなく、空間や時間までもが歪んでいるために、一般は立ち入り禁止になっている区域だった。
しかし、今は時計の針が止まり、怪奇現象もなにも起きていなかった。時計の針は〈箒星〉が堕ちたあの日から止まってしまっていたのだ。
呪架はエリスに巻きつけてあった妖糸を解いた。
「行こう」
エリスは無言だった。自分はさらに大きな罪を犯してしまった。取り返しのつかない行為かもしれない。エリスの心は重かった。
呪架とエリスは人の気配を感じて、顔をそちらに向けた。
芝生を踏みしめて歩いて来る小柄な少年の姿――慧夢。
「なにか予感がしたんだ。まさかここで会えるとは思ってなかったケド」
エリスにはそれが息子の慧夢であるとすぐにわかったが、慧夢はそこにいる異形が母だとは気付いていないようだ。
何者かわからないが、慧夢はエリスになにかを感じていた。けれど、今はそんなことよりも呪架の相手をする方が先決だ。
戦いの合図は同時に放たれた妖糸だった。
呪架と慧夢の妖糸が宙でぶつかり、煌きながら砕け散った。
楽しいそうに慧夢が艶笑する。
「強くなったみたいだね」
「腐った世界を滅ぼすために」
狂い腐っているのは自分ではなく、世界だと呪架は思った。だから、帝都の犬になど負けられなかった。それが双子の兄だとしても……。
二人が互いを殺す気で戦っていることを知り、エリスは悲痛な叫びをあげる。
「血の繋がった双子がどうして争わなければいけないの!」
この声に慧夢が耳を向けた。
「ボクたちが双子だと知っているのか?」
ここでエリスは自分が母だとは名乗れなかった。今の自分の姿は醜い怪物だ。この姿のままでは母だとは名乗りたくなかったのだ。
エリスに気を取られている慧夢に呪架が仕掛けた。
右手から同時に三本の妖糸を放つ。
慧夢の左手からも三本の妖糸が同時に放たれ、呪架の攻撃を相殺した。
「スゴイね、いつから三本放てるようになったんだい?」
慧夢は心躍る気分だった。呪架の実力が確実に自分に近づいていると知ったのだ。
最初に二人が出会ったとき、実力の差は雲泥だった。
真物と我流の差が、埋まりつつある。
しかし、呪架は大きな問題を抱えていた。
胸を押さえ苦しそうな呪架の顔を見て、慧夢はすぐに悟った。
「キミの命も長くないな。ボクもキミと同じ道を通ったから、よく知ってるよ」
呪架の躰は〈闇〉に侵されていた。
よりによって慧夢との戦いの最中で痛みが全身を思うとは、こんなことでは勝てない。
呪架は躰に鞭打って動こうとしたが、脚もいうことを聞かず、思わず地面に片膝をついてしまった。
「クソッ!」
膝をつきながらも呪架は妖糸を振るった。
だが、技に切れがない。
いとも簡単に慧夢は呪架の妖糸を切り裂いた。
「その躰じゃボクに勝てないよ」
「なぜお前は同じ傀儡士なのに平気なんだ!」
「同じじゃないね。ボクは〈光〉、キミは〈闇〉だ。ボクも闇の傀儡士だったんだけどね、女帝どもに躰を造り変えられたんだ。だから命を存えた……変わりに傀儡士としての力もだいぶ衰えたケドね」
全盛期の慧夢は今よりも強かったことになる。それは世界の脅威を意味していた。
エリスは悲しんだ。愁斗の子供を生んではやはりいけなかったのだ。
呪架はふらつきながら立ち上がった。
復讐は叶わなくても、もうひとつの願いはあと少しで叶う。この戦いをどうしても切り抜ける必要があった。
呪架が地面を蹴り上げ駆ける。
「ウアァァァッ!」
獣のように叫びながら呪架は渾身の一撃を放つ。
両手で同時に五本の妖糸を繰り出すことに成功した。
だが、慧夢には及ばなかった。
慧夢の手から〈悪魔十字〉が放たれ、六対五の妖糸が宙で激突した。
残った一本が襲い来る。
呪架の胸が黒い血を噴いた。
妖糸が勢いを失っていなければ、呪架は完全に躰を割られてしまっていただろう。
血の匂いを嗅いだ慧夢の気持ちは盛り上がる。
「ボクは血の匂いが大好きなんだ」
今までの攻撃が遊びだったように、慧夢の手から神速で次々と妖糸が放たれた。
呪架は必死に応戦するが、迫り来る妖糸を捌き切れない。
腕が血を噴き、脚が血を噴き、首を軽く妖糸が撫でた。
ついに呪架が両膝を地面についた。
慧夢が残酷な笑みを浮かべる。
「もうお遊びにも飽きたよ」
止めの一撃が放たれ、呪架は死を目前とした。
刹那、呪架の前に立ちはだかる影。
母の絶叫が呪架の耳を焼いた。
エリスの躰を抱きかかえる呪架。
傷は胸の奥まで達し、傷口から煌く粉が流れ出していた。
「お母さんになんてことを!」
呪架の叫びに慧夢は耳を疑った。
「まさか、そんなはずない……この怪物がボクの……」
唖然とする慧夢。
狂気に駆られた呪架が慧夢に牙を剥ける。
「殺してやる!」
まだ早い夜風が吹いた。
「エリスを助けるのが先じゃ!」
呪架の前に立ちはだかるセーフィエル。
それでも呪架はセーフィエルを押し倒して慧夢に飛び掛ろうとした。
已む無くセーフィエルは呪架の躰を押し飛ばすと同時に、空間転送で別の場所に送ってしまった。
次にセーフィエルは傷付いたエリスを抱きかかえ、慧夢の顔を見つめながら、その姿をエリスと共に消してしまった。
残された慧夢は髪の毛を掻き毟った。
「ウォォォォォッ!」
憤りから獣のような雄叫びをあげ、慧夢は両手を地面に付いて項垂れた。
はじめて慧夢は人を傷つけたことを悔いたのだった。




