帰城~ヴェール視点
話はリアハの屋敷でヴェールがシュバルツと別れた時にまで遡る――――――
突然の発情期に驚いたものの、リアハからもらった薬ですぐに収まり、一晩寝たら体調も回復した。
「もう少し休んでいてもいいんだよ?」
リアハが心配そうにボクを見下ろす。
「いえ、一日寝たら良くなりました。他の方にもよくしてもらって、本当にありがとうございます」
「何かあったら、ここにおいで。話ぐらいなら、いつでも聞くよ」
「はい。ありがとうございます」
柔らかな灰色の瞳と老齢の執事に見送られて屋敷を出る。
寮へ向かって歩いていると、爽やかな風が駆け抜けた。
「……綺麗だな」
見上げればいつもと変わらない青く澄んだ空。でも、ボクの心は複雑で。
「人前で発情したから……学長に報告と、今後のことについて相談しないとなぁ。やっぱり退学になるのかな。それで、どうなるんだろ。たぶん、今度は城に戻されるんだろうけど……」
言葉とともに俯き、足取りが重くなる。ドロリとした黒い闇が触手のように足から体へと伸びていく。全身の動きを奪うように絡みつき、最後には口へと入り息を詰まらす。
「……ダメだ」
それを振り払うようにボクは頭を振って顔をあげた。
「もうすぐ卒業だったし、それが早まっただけだから。それだけ、だから……」
これからのことについては考えず、ひたすら自分に言い聞かせる。
それだけ寮生活が光に満ちていたから。これから訪れる生活の闇が余計に深く暗く感じてしまう。
Ωというだけで幽閉され、好奇の目にさらされてきた。幼い頃はそれだけだったが、今は違う。子が生せるほど体が成長した。それが意味するものは……
グッと手を握って胸を押さえる。
「……大丈夫。いざとなれば」
そう考えると少しだけ足が軽くなった。
そのまま進み、大勢の人が行き交う大通りまであと少しというところで背後から声をかけられた。
「お久しぶりです、ヴェール第六王子。お迎えにあがりました」
気配も感情もない冷えた声。
振り返ると仮面のような笑顔を顔に張り付けた執事が立っていた。ボクを第六王子と知っているのは王か王家に仕えている者だけ。
「……迎えってどういうこと? ボクは騎士学校を卒業するまでは寮生活のはずだけど」
まだボクが発情したことはバレていないはず。シュバルツが学長に報告したとしても、その情報が城に伝わって迎えが来るには早すぎる。
警戒しているボクに執事が抑揚のない声で答えた。
「陛下直々のご命令です」
そこに馬車が派手な音をたてて近づく。
「御乗りいただけないのであれば、力づくになりますが、いかがいたしましょう?」
淡々とした声の中にこの使用人の実力を感じる。その気になればボクなど簡単に殺せるほどの力がある。
いや、初めからボクに拒否権なんてない。
「わかった。行くよ」
こうしてボクは有無を言わさず、連行されるように王城へ戻された。
~~
それから三日ほど馬車に揺られ、ようやく王城についたかと思えば、あっという間に使用人たちに囲まれ、身なりを整えられ、貴族たちが集まる謁見の間に放り込まれた。
「どういうこと?」
高位貴族たちの見下すような視線を浴びながら、空の玉座の前で片膝をつき頭をさげて待つ。
「あれがΩの王子だって?」
「よく平然と生きていられるな」
「わたしなら無理だ」
クスクスと嘲笑う声が飛び交い、侮蔑混じりの空気がベットリと沁みつく。
(久しぶりだな、この感覚)
騎士学校の生活ですっかり忘れていた。柔らかくなっていた心が急速に固まり、冷えていく。
そこに、足音とともに衣擦れの音が近づいてきた。
マントを翻した音とともに頭上を風が抜け、掠れた声が響く。
「面をあげろ」
言われるまま顔をあげると、幼い頃に一度だけ顔を合わせたことのある王が玉座にいた。
四十代中頃か、栄養をしっかりと蓄えた豊満な体に白髪交じりのくすんだ明るい茶色の髪。ぼってりと垂れさがった瞼の下にはボクと同じ翡翠の瞳がある。
(やっぱり、この人が父親なのか)
冷えた心で淡々と現実を見据える。
そこに重い体を揺らして王がボクに命令をした。
「ナーシュ国と和平条約を結ぶことになった。おまえはその道具としてナーシュ国へ行け」
歯に衣着せぬ物言いに、周囲の貴族たちが蔑むような視線とともに冷ややかな笑みをボクに向ける。
「Ωなんて王家の恥さらしかと思っていたが」
「使い道があってよかったな」
「ナーシュ国もΩが来るとは思うまい」
「ちょうどいい厄介払いだ」
どれだけ罵られようがボクの心には響かない。
Ωとして生まれ、王族の恥さらしと責められ、そんなボクを生んだ母は精神を病んだ。そのため、母はずっと侯爵家の別荘で療養しており、ボクは王城の離れで幽閉されて育った。
ある日、そんなボクを憐れに思ったのか、王の父の弟である公爵が自分の屋敷に引き取った。公爵は仕事があるため屋敷には滅多にいないけれど、それでもたまに会えるとボクの頭を撫でて話を聞いてくれた。
ボクにとって祖父のような存在。
それが、騎士学校の学長だった。
薬草と治癒魔法に興味を持ったボクに大量の本を与え、騎士学校という勉強の場を提供してくれた。だから、少しでも恩返しができるなら、と治癒騎士を目指した。
でも、Ωという現実がそれを阻んだ。
どれだけ頑張ってもΩに自由はない。それがベガイスター国の仕組みだから。
それをボクが変えることはできない。
「仰せの通りに」
だから、この時も素直に返事をして頭をさげた。
こうしてボクはナーシュ国へ行くことになったのだけれど。
「一人、到着が遅れているの?」
すべての荷物を馬車に乗せ、あとは出発するだけ。となったところで、ボクと一緒にナーシュ国へ行くことになった使用人の内の一人が頭をさげた。
落ち着いた黒褐色の髪に茶色の瞳を持つ、ボクより少し年上の青年。執事のような感じで、いろいろと身の回りの世話をしてくれている。
子爵家の次男でベンノ・リーバーと名乗っていた。
「はい。護衛をする騎士ですが、家の事情で遅れると連絡がありました」
普通は王族が移動する場合、複数の護衛が付く。でも、ボクの場合はその護衛一人だけ。
まぁ、使用人と護衛をつけてもらえるだけ良かった。普通なら長年、敵対関係だった国へ行きたがらないし、最悪の場合はボク一人で行くと思っていたから。
「そうなんだ。いろいろ大変だけど、その人も貧乏クジだよね」
「なぜでしょう?」
ベンノが不思議そうに首を傾げる。
「キミもだけど、ボクの付き添いでナーシュ国へ行くことになってさ。本当にごめんね」
ボクの言葉に対して、静かに、けどハッキリと黒褐色の髪が横に揺れた。
「いいえ。私はナーシュ国に行けて嬉しいです」
思わぬ回答に目が丸くなる。
「どうして?」
訊ねたボクに対して、ベンノが穏やかに微笑んだ。
「私は他国に興味があり、いろいろと学んでおりましたが、どうしても限界がありまして……ですので、今回は他国を実際に見て学ぶことができる良い機会なんです」
まるで模範解答のような話し方に少しだけ違和感を覚えながらも、ボクは頷いた。
「そうなんだ。それならよかった」
「あと、私だけではありませんので。他の者も皆、それぞ理由はありますが、ナーシュ国へ行くことを希望しております」
「そうなの? でも、不安とかない?」
「たしかに不安はありますが……それ以上に、ナーシュ国へ行きたい者たちばかりなのです」
この言葉にボクと一緒にナーシュ国へ行くことになった使用人たちへの申し訳ない気持ちが少しだけ軽くなる。
「そうなんだ。ありがとうね」
「いえ、礼を言うのは私たちの方です。このような貴重な機会をいただき、ありがとうございます」
そこで他の使用人がベンノを呼んだ。
「すみません、失礼いたします」
綺麗な一礼をして踵を返すベンノ。
他の選ばれた使用人も男爵や子爵で爵位が低い者ばかりだけど、働きを見ていると手際がよく、頭の回転も早くて、ボクに仕えるにはもったいないほど。
それに、みんなボクをΩとして蔑むような目で見ない。人として接してくれる。
「うん、大丈夫……かな」
顔をあげると爽やかな青い空が広がっていた。
軽やかな風が亜麻色の髪をかきあげ、ボクの気持ちもさらっていく。
「……手紙、見つけてくれたかな」
絹のように艷やかな黒い髪に、強い意志とともに黒曜石のように輝く黒い瞳。涼やかな目元に端正な顔立ちと、成長途中だけど鍛えられた体。
ボクのどんなドジも笑って受け入れてくれるほど器が大きくて、優しい。
「このドジも、他の人からの嫌がらせを避けるために演じていたのに、いつの間にかしっかり身に着いちゃったな」
幼い頃、Ωというだけで様々な嫌がらせを受けた。それを怒ったり、避けたりすれば、倍になって嫌がらせをされた。
でも、自分からドジをして嫌がらせを避けたり、怪我をしたら、嘲笑われるだけで済むようになり、ドジは身を守る手段となっていた。
「頑張っているんだろうな」
今も騎士になるため学校で勉強しているだろう同室。何も知らなかったボクにいろいろ教えてくれた。どれだけ感謝してもしきれない存在。
そして――――――
言葉にできない感情を静かに呑み込む。
「……どうか、元気で」
この気持ちは、この国に置いていく。君がいる、この国に。
フッと息を吐いたボクは旅立ちの準備をしている使用人たちに声をかけた。
「準備ができたら予定通りに出発しよう。遅れている護衛にはあとから来るように伝えて」
「かしこまりました」
ボクの言葉に着々と準備を進めていた使用人の一人が頭をさげる。普通ならΩに頭なんてさげないし、話も聞かないのに。
(一緒に旅立つ使用人が良い人たちでよかった)
こうしてボクはひっそりとナーシュ国へ出発した。もちろん、王城からの見送りは一人もいなかった。




