第9話 ネコ型聖遺物〈エムサ・バル・ネコ〉の脱走
帆置知彦の静影荘入居の翌日、午後一時。
町田駅近辺で買い出しをした帆置知彦が静影荘に戻ってくると、庭で何かが動いた。
――猫?
シーツなどの大物に使う住民共用の物干し台に視線をやると、黒曜石の体にぐるぐると包帯を巻き付けた意匠の猫の像が立っている。
ルビーの目に金の首輪。微妙にどこかで見たようなデザインの像である。
エジプトのミイラにも少し似ている。
見ていると、わずかに動いた。
台座の上に乗ったまま、真横にスライドするように三センチほど。
――怪異? いや、呪遺物か?
怪異は超常的な力を宿した人間以外の何か。
異能は人間が持つ超常的な力。超常的な力を持つ人間は異能者と呼ばれる。
呪遺物は超常的な力を宿した物品。
怪異と呪遺物は区別が曖昧なところがあるが、生物寄りなら怪異、無生物寄りならば呪遺物と呼ばれることが多い。
猫の像は台座ごとくるりと反転し、庭の北の低木樹の茂みへと逃げていく。
ゴトゴトゴトゴトガタガタガタガタ!
地震にでも遭ったような音を立てながら。
――また騒がしい呪遺物だな。
どうしたものかと少し考えたが、白河ミユキの〈オートロック〉に引っかかっておらず〈霊街〉の住民たちや周囲の〈しろみ〉や〈きみ〉たちも無警戒である。
実害はないと判断し、帆置知彦は部屋へと戻った。
◇◇◇
買い込んできた衣類や食品を整理し、不足するものをスマホで注文していると部屋のインターホンが鳴り、液晶画面に白河ミユキの姿が映った。
「やぁ、どうかしたかい?」
直接ドアを開けて顔を出す。
「あ、すみません、ちょっと納戸のほうでトラブルがありまして。黒くて、包帯を巻いた猫の像のようなものをご覧になりませんでしたか?」
「それなら物干し台のほうで見かけたな。あっちの茂みの方に逃げて行ったよ」
「そうですか、ありがとうございます! それじゃあまた!」
慌てた様子で言った白河ミユキはそのまま走っていこうとしたが、サンダルをどこかに引っかけたのか、階段を降りていく前に盛大につまずいた。
あわやというところで、
きゅ!
きゅきゅっ!
〈しろみ〉たちがエアバッグのように群がって見事に転倒を阻止した。
「大丈夫かい?」
「あ、はい、〈しろみ〉たちがついててくれますから。ありがとう」
きゅ。
〈しろみ〉たちがドヤ顔で鳴く。
――毎度のことなのか。
倒れる方も支える方も慣れた様子なのがかえって不安に思えた。
「付き合おう」
帆置知彦は野次馬根性と自己顕示欲の強いお節介焼きである。
白河ミユキと一緒に階段を降り、庭の茂みへ向かった。
「どういう呪遺物なんだい?」
「聖遺物ですね。中東のバシュマールという国のエムサ・バル・ネコという守護像です。宝物庫や船などに置く、泥棒や火事、ネズミよけのための魔除けなんですが、盗難にあって三十年行方不明になっていました。最近日本で発見されてバシュマールに返還することになっていたんですが、勝手に動き回って傷ついてしまうということで外務省からの依頼で預かっていました」
――バシュマールか。
知っている国名である。像に既視感を覚えたのはそのせいかも知れない。
「動き回る以外の害は?」
「確認されていません。嫌な気配もないからつい油断して、封印を緩めてしまったみたいで」
白河ミユキの異能、〈オートロック〉は彼女が封印すべき、封印したほうがいい、と判断したものを自動的にロックする。
そのため、警戒心が緩むとロックのほうも緩んでしまうらしい。
「もしかすると、昨日の納戸の見学のときに?」
「そうだと思います」
「収納ケースを押し込んでる隙にでも逃げたのかな」
そんな話をしながら、茂みの中を探っていく。
茂みの真ん中に細い獣道があり、その向こうには小さな祠と鳥居が見えた。
エムサ・バル・ネコは、その祠の扉の中にいた。
――面白いところにいるな。
いかにも日本的な雰囲気の祠に中東系の怪異が入り込んでいる。
中東系怪異が入り込んでも敵性反応がないところを見ると〈十三祠〉のような危険な祠ではないのだろう。
「あそこだな」
声を潜め、祠を指さして見せると、白河ミユキは目を丸くして「あ」と呟いた。
「……つかまえてきま……っ」
藪に隠れて社に忍び寄ろうとした白河ミユキは今度は木の根にひっかかり、つまずきかける。今度は〈しろみ〉ではなく、帆置知彦が受け止めた。
「大丈夫かい?」
「ありがとうございます……おはずかしいところを」
顔を赤くした白河ミユキは気恥ずかしそうに微笑むと、そこからきりっと表情を引き締めた。
「では、行ってきます。ここで待っていてください」
「いや、僕が行こう」
この様子だと祠に近づく前にまた転倒しそうだ。
「すみません、お手数ですが、お願いさせていただきます」
当人もやはり自信がなかったようだ。白河ミユキは素直に引き下がる。
エムサ・バル・ネコを刺激しないよう、ゆっくり祠に近づいていくと――。
キュッ!
キュッキュッ!
黄色い毛玉生物。約百匹の〈きみ〉たちが立ちふさがった。
帆置知彦の眼の前にXを描くように整列し、祠とエムサ・バル・ネコを守ろうとするように陣形を組んだ。
「なんのつもりだい?」
面白がりつつ聞いてみたが、返答はキュッキュッという声だけだった。
「どうしたの?」
茂みから顔を出した白河ミユキも〈きみ〉たちに問いかけるが、やはり祠には近づかせない構えである。
さらには、〈きみ〉たちの動きに対応するように〈しろみ〉たちも押し寄せて来る。
だが〈しろみ〉たちは白河ミユキ派らしい。警官隊のように祠を包囲する。
きゅ!
きゅきゅっ!
キュ!
キュキュー!
祠を中心に睨み合う〈しろみ〉と〈きみ〉たちが鋭く、間の抜けた声で鳴きかわす。
「籠城事件に発展したようだ」
スケールが小さいので緊張感はないが。




