第34話 〈引戸祈〉の帰郷
帆置知彦の提案に一同が目を点にした次の日。
VTuber沙津真ちぇすとの中の人こと〈引戸祈〉は〈山神無線〉という表示灯を立てたタクシーに乗り、青梅線の終点、奥多摩駅のロータリーへやってきた。
「では、また後ほど」
顔に猿の面をつけた怪しい運転手に見送られて降車すると「おかえりなさい! 引戸祈さん 榛寿谷住人一同」という横断幕をかかげた十数人の男女が待っていた。
二〇から三〇代が中心、奥多摩山中の集落の住民というより、都会でタワーマンションにでも住んでいそうな雰囲気の男女である。
電車で来ると思っていたのか、やや混乱した様子ながらも〈引戸祈〉のもとへ群がって来る。
そんな顔ぶれの中に一組だけ混じった五〇代の男女が前に出ると、朗らかな表情で「おかえりなさい」と言って〈引戸祈〉を左右から抱きしめ、捕まえた。
堀川康と堀川淑子。
引戸祈の叔父夫婦である。
「よく帰ってきたね」
「榛寿谷の女は、榛寿谷で暮らすのが一番だものね」
「おかえりなさい祈ちゃん」
「おかえり」
「おかえり」
「よかったね、戻ってこられて」
「〈えいちさま〉も笑っているよ」
〈引戸祈〉を取り囲んだ男女も、同じプログラムで動くロボットのような笑顔を浮かべ〈引戸祈〉の帰還を歓迎する。
「ばんざーい!」
若い住民がおどけた様子で両手を掲げ、住民たちは「あはははは」と爽やかに笑い、拍手をする。
昭和の青春映画のめいた、どこか異様な空気感。
ワゴン車に乗せられた〈引戸祈〉は、左右から堀川夫婦にサンドイッチにされた状態で榛寿谷へと向かう。
やがて、大きな建物が二つ見えてきた。
ひとつは榛寿谷研修センター。
かつて天才の里と呼ばれた榛寿谷出身の経営者や企業幹部などが自社の職員を送り込むリゾート合宿研修施設である。
もうひとつは榛寿谷総合病院。
榛寿谷出身のエリート医師やその薫陶を受けた医師たちが集まり、集落の住人と、少数の上流、富裕層の人間に高度で充実した医療を提供している。
〈引戸祈〉を乗せたワゴンは後者の建物、榛寿谷総合病院の前で停車した。
高級ホテルやデパートを思わせるロビーに、クローン風の笑顔を浮かべた看護師たちがずらりとならんで待っていた。
その奥には引戸祈の祖父であり、フォースウォールプロダクションに送られてきた〈はしばみゆべし〉の差出人、榛寿谷総合病院の院長、堀川保の姿があった。
白衣の上に白いベレー帽という、ややクセのあるコーディネート、ソファに腰を降ろしたままカーペットに杖を突いている。
「祈を連れてきました」
引戸祈を夫婦で連行する格好でやってきた堀川康が告げると、堀川保は豪快な表情で「おう、ご苦労さん」と笑って立ち上がる。
「よく帰ってきたな。お前の両親も安心していることだろう。これでやっと〈えいちさま〉への罪滅ぼしができるってもんだ。こっちへ座れ、祈、お前の好きそうなものを色々用意してあるんだ」
堀川保が「おい」と声を上げると、隣の研修センターの制服を着た男女が英国アフタヌーンティー風のティーセットと、スイーツを乗せた三段スタンドのカートを押してやってきた。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「なに、戻ってきたならそれでいい。チューチューバーの仕事は楽しかったか?」
「はい」
「そうか、続けさせてやれりゃあ良かったんだが、さすがにこれ以上はお前の適齢期が過ぎちまう。取り急ぎ健康診断を受けてくれ〈みこ〉の努めを果たすには、万全の体調でなければならないからな」
男らしい、頼りがいのある雰囲気で言った堀川保は、時計に目をやり「おっと」と呟いた。
「すまないが、次の約束の時間だ。あとのことは康の指示に従ってくれ」
笑って立ち上がった堀川保は、有名病院ドラマの総回診のシーンのように医師や看護師たちを引き連れて去っていく。
その姿を見送った〈引戸祈〉は、その場に残った看護師たちに健康診断センターに連れて行かれた。
患者衣に着替えて採血やX線検査、心電図、血圧測定などのあと、内視鏡検査の名目で鎮静剤を投与された〈引戸祈〉は、看護師たちの手でストレッチャーに乗せられ、榛寿谷総合病院に隣接する施設、榛寿谷研修センター地下の一室へ運び込まれた。
独房めいたサイズ、内側からはドアを開けられない構造。
トイレはあるがシャワーはおろか洗面所の類もない、冷たく白い箱。
天井に設置された監視カメラが、小さなモーター音を立てていた。
◇◇◇
「祈さんの移送を完了しました」
「わかった、ご苦労さま」
榛寿谷総合病院副院長、堀川康は、部下からの報告をスマホで受けた。
早速デスクの上のパソコンを操作して、榛寿谷研修センター地下の監視カメラの映像を呼び出す。
〈引戸祈〉が移送されたのは引戸祈の母親、引戸美果の脱走をきっかけに作られた“禊部屋”と呼ばれる空間である。
〈みこ〉の行動範囲を制限、完全な食事管理、精神・思想の監視を行うことで〈みこ〉が逃亡、反抗といった過ちを犯すことがないよう導く場所。
世間一般の感覚でいえばお為ごかし以外の何者でもないが、それが欺瞞であるという認識は、榛寿谷の人間にはなかった。
――これでやっと、堀川の名誉を回復できる。
堀川康の胸にあるのは、そんな安堵がほとんどだった。
堀川康の弟、堀川守は〈えいちさま〉の〈みこ〉だった引戸美果と共に榛寿谷から脱走し、堀川家の面目を潰した。
堀川守と引戸美果が事故死し、その身代わりとして戻ってきた姪の引戸祈もまた〈みこ〉の役目を拒否して脱走した。
堀川守。
引戸美果。
引戸祈。
この親子によって、堀川家の名誉と威信は大きく傷ついた。
だが、〈みこ〉という光栄ある使命から逃げ出すような人間に、まともな知性は備わっていないのかも知れない。
引戸祈はチューチューバーなどという浮ついた商売に身を投じて、所在を把握され、榛寿谷に戻ることになった。
あるいは外の世界の厳しさに、耐えかねて。温かな故郷に帰りたいというアピールだったのかもしれない。
ーーきっとそうだろう
勝手にそう決めつけた堀川康が見守る中。
鎮静剤が効いているはずの〈引戸祈〉が目を開き、ひょいと身を起こした。
「えっ」
思わず声が出た。
その反応が見えているかのように〈引戸祈〉はカメラに目をやり、不敵に笑う。
「なんだいこの部屋は、この令和の世にこんなコンプライアンスのない場所を作って喜んでる奴がまだいるとは思わなかったよ」




