第28話 沙津真ちぇすとの卒業
「ほんなら今朝はここまでじゃっと。また来てくれよな、楽しみにしちょっで」
茨城県某所。
朝の雑談配信を終えたVTuber、沙津真ちぇすとはパソコンの画面を閉じると、ワイシャツとジャケット、ジャージパンツに着替え、黒縁の眼鏡を付けてマンションを出た。
少し猫背気味の長身、長髪。VTuberとしての設定年齢は13歳だが、リアルでの年齢は23歳の女性である。
目的地は渋谷。
所属事務所であるフォースウォールプロダクションのオフィス内缶詰部屋で、進捗が遅れている提出物の作成や、特典グッズ用のサイン書きを予定している。
同じ日に担当イラストレーターのまやろく先生が来社し、キャラクターくじの企画会議を行う予定だが、沙津真ちぇすとの活動方針はリアル顔出しNGのため不参加、あとで話だけ聞く手筈になっている。
片道一時間四〇分の道のり。
ネット上の鹿児島弁辞典を開いて電車で移動。
そこからフォスプロが入居している大規模複合商業施設メガリエ渋谷に入る。
エレベーターで23階へ上がり、フォスプロのオフィスに顔を出すと、マネージャーの鷲寺ツバサが、浮かない表情で待っていた。
「……おはようございます」
「おはようございます」
沙津真ちぇすとが挨拶を返すと、鷲寺ツバサは「すみません、実は、お詫びしなければならないことが……」と告げた。
「なんでしょうか?」
「実は、例のキャラクターくじの件ですが、急遽キャンセルということになりまして」
「なにかあったんですか?」
「それがダバイン社ではなく、こちらの社長の小中からの意向でして。中村さんが来社したらすぐに社長室に来てほしいと」
「……なにかやってしまったでしょうか、私?」
今のところ身に覚えはないが、気づかないうちに、なにか問題を起こしてしまったのだろうか。
「わかりません。中村さんの場合、演技や芸風以上に荒れるようなこともありませんでしたし、おかしな噂が流れたりもしていないはずなんですが」
「そうですよね」
配信で煽り芸をやっているので多少のアンチは存在するが、極端に多いわけではない。
「と、とりあえず行ってみましょう。ご一緒しますので!」
そう言った鷲寺ツバサだが、社長室に入る前にすぐに退席させられてしまった。
フォースウォールプロダクションの運営母体はフロントロー株式会社。
その社長、小中大鯨は三三歳。穏やかで落ち着いた雰囲気のイケメン青年実業家だ。
趣味はトレーディングカードゲームとプラモデルと公言する自称オタク系経営者だが、社長であることは間違いない。
応接用のソファの上で硬直していると、小中大鯨は朗らかな表情で唐突に言った。
「卒業しましょう。引戸さん」
イベントをやりましょう、と言うのと同じような前向きな口調だった。
どういうわけか配信名の沙津真でも、身バレ防止用の偽名でもなく、本名の苗字を口にしている。
「……どういうこと、でしょうか?」
「引戸さんには、配信者よりずっと大切なお役目があるじゃないですか」
明るい表情のまま言った小中大鯨は、一枚の封筒をテーブルに置いた。
「榛寿谷のお祖父様から、届いたお手紙です」
「祖父、から、ですか……?」
沙津真チェストは軽く声を震わせた。
「はい、谷のみなさんが心配している。一度戻ってきてほしい、とのことでした。素敵なご家族じゃありませんか、配信者なんて不安定な仕事はやめて、すぐに谷に帰り、お役目を果たすべきです。〈えいちさま〉はずっと引戸さんをお待ちなのですから」
様子がおかしい。
「私が榛寿谷を出た理由は、最初にお伝えしたはずです。配信者をやめさせられても、榛寿谷に戻るつもりはありません」
「そうだったでしょうか」
小中大鯨は朗らかな表情のまま言った。
「なんにせよ、引戸さん個人の意思は関係ありません。〈えいちさま〉と榛寿谷の皆様は今も、引戸さんを必要とされています。それ以上に尊重されるべき要素などなにもありません。この国の未来のためにも」
「社長、今、おかしくなっていますよね。ハシバミの実の入ったものを食べませんでしたか?」
貧血を起こしかけているのだろうか、視界が暗くなるのを感じながら、沙津真ちぇすとは問いかける。
「はい、榛寿谷の〈はしばみゆべし〉をいただきました!」
小中大鯨は宣言のような口調で告げ、沙津真ちぇすとは息を呑む。
「さすがに天才の里と呼ばれていた土地の名産ですね。頭の中が冴え渡っている気分です」
「……申し訳ありません、社長……」
自分の問題に小中大鯨を、事務所を巻き込んでしまった。
「謝ることはありません。今からでも取り返しはつきます。早速迎えを呼びますので、ここでお待ち下さい」
噛み合わない返事をした小中大鯨はスマホを取り上げる。
沙津真ちぇすとは反射的にソファを立とうとしたが、小中大鯨は素早く、強い力でその手を捕まえていた。
小中大鯨の手というよりは、もっと別のもの、運命だとか、首輪だとか、そういうものに捕らえられた気がした。




