8.『ディアナ・トラレス・ベッカー』
「――っ、はぁっ……!」
咄嗟に、毛布ごと心臓を握りしめる。
寂しいほどの静寂の帳の中に、自分の荒い呼吸だけが耳障りに反響する。
まだ夏は遠く、吐息さえ白いほどなのに、顎を伝う汗がポタリと毛布に染みを作った。
深呼吸を二回ほどすると、ぼんやりとしていた頭が現実に戻ってきた。
時刻は夜。それも、深夜だろう。
今まさに張り裂けんとしていたはずの心臓には、もう痛みなんてなかった。
この不可思議な状況を整理するならば、
「夢、か……はぁ、はぁ……」
悪い夢を見た。それ以上のことはない。
それに、珍しいことですらない。
この暮らしを始めてから、定期的にそんな夢を見る。
これも、私が背負うべき罪で、罰だ。
しかし考えてみれば、この夢も最近は鳴りを潜めていたようにも思える。
特にこの数ヶ月はもはや忘れていたほどで、じゃあ何故突然また夢を見たのか。
「あ、れ……?」
毛布にまたひとつ、染みができる。
もうひとつ、ふたつ、染みが増える。
「ロルフ……」
とめどなく溢れ出したそれは、音もなく頬を伝っていく。
「ロル、フ……ロルフ……ろる、ふ……」
たった三文字を口にするたび、胸が張り裂けそうになる。
おかしい。胸の痛みは、夢が見せた錯覚だったはずなのに。
痛みは、確かに今この胸にある。
何度取り繕っても仕方がない。
否定しようとしても、どうしようもない。
やっぱり私は、ロルフが好きなのだ。
だからこそ――だからこそ私は、この世界が心底憎い。
「お父様、ごめんなさい……私があの時言う通りにしなかったから、こんなに苦しいんですよね……? 悪い子で、ごめんなさい……」
そして私は――こんな私が、大嫌いだ。
■
「ふざけるな! 王の命に背くのか! それに、お前が帝国に行かなければ、この国はどうなる! いいか、立場を弁えろ。そして、冀望に応えろ! それが名誉あるベッカー侯爵家たる振る舞いだ! それが出来ぬのなら、今すぐに首を切って死ね!」
「で、でも……」
一番上の兄は、私を責めた。
「まぁまぁ、兄上。ディアナはまだ16歳だ。そう本気にならなくてもいいじゃないか。な、ディアナ。ちょっと反抗してみたくなっただけなんだろ? 家のことなら大丈夫だ、僕と兄上に任せておけ」
「兄様……」
二番目の兄は、一番上の兄を宥めつつも、私の本当の望みには聞く耳を持たなかった。
「私、どうしたらいいのでしょうか」
「ん? どうって、帝国に行くんだろ?」
「ですが、行きたくないのです」
「なんで?」
「それは……」
唯一、三番目の兄だけが、私と対等に話してくれた。
昔からそうだった。
一番上と二番目の兄は優秀で相性もよく、この二人がいればベッカー家の未来も約束されていると。
一番上の兄が爵位を継いで、二番目の兄が家臣となる。
そんな理想像が、そのまま現実のものになるのだろうと、誰もが思っていた。
だからこそ、三番目の兄は自由奔放だった。
別に問題児だったわけじゃない。むしろその逆で、家督争いに参戦しない分、研究や勉学に没頭していた。
そのためか、兄弟の中でも最も柔軟な思考を持っていたと言える。
最も平民に近い感覚を持っていた、と言い換えてもいいかもしれない。
そんな兄に、私は今回も相談をしていた。
帝国に行きたくないということ。
なんとか、行かずに済む方法はないかということ。
好きな人が出来た――という話までは、一番上の兄には出来なかった。
「なんで行きたくないの? いや、確かに帝国の印象は最悪か。でも、さすがにベッカー家のご令嬢を雑に扱う度胸はないと思うけどね」
「いえ……そういう理由では、ないのです」
「じゃあどういう理由? え、本当に反抗期?」
「違います……ですから、えっと、その」
言っていいものか。
何もかもが最悪のこのタイミングで、よりによって農家の息子を好きになり、あまつさえ婚約まで望んでいると。
そんなことを口走れば、いかに三番目の兄であってもその逆鱗に触れてしまうのではないか。
そう思えば、次の言葉を紡げなかった。
だが三番目の兄は、あっさりと私の心の奥底を暴いてみせた。
「……好きな奴でもできた?」
「――え、な、なぜ……っ」
「なるほど、そりゃ恐ろしくて兄上には言えないよなぁ。で、誰?」
「その、たまたま通りかかったのがきっかけで、物怖じもせず、とても熱心で、目元が素敵な、ふたつ上の方で、えっと……農民のよう、です……」
まったくもって要領を得ない、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま並べたような歯切れの悪い陳述ではあったが、三番目の兄は黙って最後まで聞いてくれた。
そしてちょっとだけ難しい顔をして言った。
「それはマズいんじゃない? ただでさえ帝国の要人に嫁入りしようって時に、さすがに農民はなぁ……」
「そう、ですよね……」
「でもさ、言うだけ言ってみたらいいじゃん。いつまでも駄々こねてても仕方ないし。伝えなきゃ何も始まらない」
「兄様に、ですか?」
「父様に、だよ」
お父様。
私たちの父で、ベッカー侯爵家当主。
娘といえど、近づける機会は多くない。
多忙なお父様の貴重な時間を頂いて、そんな目に見えた話をしていいものかと忌避していたが、三番目の兄が話を通してくれたおかげで場を設けてもらえる運びになった。
有限の時間を最大限効率的に使うために、お父様には事前に文書で事の顛末を伝えた。
それが一番上と二番目の兄の耳にも入ったらしく、物凄い剣幕で怒鳴られたが、今はお父様にどのような言葉をかけられるのか恐ろしくて気が気じゃなかったので、あまり私の耳には入らなかった。
ドアを、叩く。
「入りなさい」
「失礼いたします」
部屋の中には、お父様と、三人の兄様がいた。
あまりの威圧感に怯みながらも、真っ先に声を上げる。
「お父様。文書に記しました通り、帝国公爵家との婚約を破棄したく存じます。付け加えまして、平民との婚約をお許し頂けないでしょうか」
我ながらとんでもないことを口走っている自覚はある。
だがもうこうなってしまっては仕方ない。
なるようになれだ。
「ならん」
終わった。一言で終わってしまった。
だが、それくらい突拍子のないことを言ったのだ。それも当然か。
そう自分を納得させ、一歩引こうとした瞬間、お父様の眼光がさらに鋭くなった。
「終いか? それだけのために、私に時間を取らせたのか」
「……っ。もうしわけ、ありま――」
「お父様。僭越ながら、私からひとつよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
呼吸すら苦しいほどの圧に呑まれそうになっている私のかわりに、三番目の兄が口を開いた。
一体どんな意図があるのか察することが出来ず、私はただ黙って聞いていた。
「ディアナには、まだ言葉に出来ていない心があります。未熟ゆえに、見合った言葉を見つけることが難しいのです。そうだろう?」
途端、四つの視線が私に集中する。
再び息が詰まるも、ここは私が無理にでも話さなければならない場面だということくらい、重々理解できた。
「は、はい。私の言葉でお話すると、要領を得なくて、お聞き苦しくなってしまいますので……」
「良い。言ってみろ」
深呼吸をする。
話したいこと。話さなければならないこと。
聞いてほしいこと。聞かせたいこと。
あるはずだ、すぐそこに見えるはずだ。
三番目の兄が、場を作ってくれた。
ならば私は、それに応えるだけ。
素直な気持ちを、自分なりに言葉にするだけ。
「――えっと、私、初めてだったんです。砕けた口調で、まっすぐな笑顔を向けられたの。初めてだったんです。歳の近い男の人と、本気で喧嘩したの。初めてだったんです。――好きって、言ってもらえたの」
「お前……」
「友達に向けるものでも、家族に向けるものでもない『好き』があるってこと、教えてくれた人がいるんです。自分で自分の未来を描きたいと、そう思わせてくれた人がいるんです。私は、その人と未来を歩みたい」
頭に浮かんだ率直な気持ちをそのまま言葉にするだけで、こんなにもすんなりと伝えられるなんて。
それを知らなかった私は、今までどれだけ向き合うことを避けてきたのか。
でも、今は違う。
「お父様、お兄様。どうか、私の最初で最後のわがままを聞いてくださいませんか。どうか、お願いいたします」
最後まで静かに私の話を聞いてくれたお父様。
一瞬だけ両目を瞑ると、すぐに鋭い眼光に戻して、言った。
「ならん」
「――お父様。私からもお願いいたします。未熟な妹ではありますが、愚昧ではありません。ひとりの立派な人間として導いた道を、歩ませてやりたいのです」
「駄目だ。そも、此度の命は私からのものではない。国王からのものだ。それに背くとはつまり、国の意志に反するということ。お前の兄の言葉が全て正しい」
「――ですが」
「ディアナよ」
三番目の兄との会話をぶつりと断ち切り、いきなり私に向けられる眼差し。
相も変わらず鋭すぎるほどの眼光だが、もう私が怖気付くことはなかった。
「――はい」
「お前に、王に背いてでも身勝手な夢を掴み取る気概はあるのか? 或いは全てを失う覚悟はあるのか? 自分の選択に間違いはないと、そう言い切る自信はあるのか?」
「間違いは……あるかもしれません。全てを失う覚悟も、できていません。ですが――決して失いたくないものならあります。例え間違っていても、貫き通す覚悟ならあります。私にとって――王よりも、大事なものなら、あります」
「――そうか。ディアナ・トラレス・ベッカーよ! 刻下を以て、お前をベッカー家より追放する! 二度とこの名家の門を潜れぬものと思え! 当然、ベッカーの家名を名乗ることも許さん! この屋敷から出ていくがいい!」




