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2-18 平成真っ只中、おしまい、ノストラダムスでレインボー。

ノストラダムスは言うたんや。1999年7の月、地球に恐怖の大王が降って来るとか来おへんとか。

くーちゃんは舌っ足らずな口調でノストラダムスの大予言について懸命に語っている。くーちゃんたちの売っているペットボトルに入っている特別な水さえ飲めば、ノアのときとおんなじように、方舟に乗るみたいにして、ノストラダムスから逃れることができるらしいんだって。

あたしはぶるぶると震えるくーちゃんの頬を何度も何度も撫でながら、こころの中で何度も何度も繰り返したことばをとうとう口に出すことに決めた。


「――なあ、くーちゃん。この団地はさあ、たぶんクソなんよ。やからさあ、逃げよう、くーちゃん。この団地から、逃げようや」

 ノストラダムスは言うたんや。1999年7の月、地球に恐怖の大王が降って来るとか来おへんとか。せやからうちは、今日も足をくたくたにして歩いとう。こうやってわざわざあんたのうちにまで来とうんやんか。重たいペットボトル抱えてさあ。わかるやろ? こんなん思いやり以外のなんでもないやん。うちがこうやってあんたのうちに来とうんも、あんたのためを思ってやっとうことやねんで? 腕もさあ、痛いんよ。めっちゃ重いんやから、実際。あんたのことほんまに考えとうから来とうねん。せやなかったら、こんなことせえへんって。わかるやろ? なあ、せやから買うてや、これ。ペットボトル、買うて欲しいんやって。あんたのためを思って、こうやって売りに来とうんやからさあ。


 平成真っ只中。じめじめとした六月だった。五月下旬から始まった長雨はしとしとと日本列島のぜんぶを濡らしていて、ときどきはぴかって晴れたものの全体的にはなんだか鬱々としたお天気が続いていて、世紀末ってことも相まって、みんなどこかそわそわしてうずうずしている、そのような六月がぬったりと、ぬるりと続いていた。文月の気配はどこまでも遠くに居座っていて、永遠にどこまでも伸びていきそうな水無月だった。

 くーちゃんは舌っ足らずな口調でノストラダムスの大予言について懸命に語っている。もうすぐ日本が、いや世界が終わってしまうのだと。そうなってしまったら、これまで生きて来た意味どころか、そもそも生まれて来た意味すらもすべてが全く意味のないものになってしまって、あたしたちはまったくいみのわからないいきものになって、とろけるようにしてみんないなくなってしまうんだって。けれど、くーちゃんたちの売っているペットボトルを買えば。ペットボトルに入っている特別な水さえ飲めば。ノアの方舟のときに、地上が未曾有の洪水に襲われたあのときに、地上にあった穢れた水なんかじゃあなくって、方舟の中の生き物たちを救うためにふるまわれた水の、それが連綿と続いた水脈から採れた聖なる水を買って飲んだとすれば。ノアのときとおんなじように、方舟に乗るみたいにして、ノストラダムスから逃れることができるらしいんだって。ノストラダムスから逃れるってちょっと意味がわかんないんだけれど、くーちゃんが言うには大体そんなところだった。


 な? つーちゃん、後生やから買うて欲しいんや。うち、最近ちょっとノルマ達成出来てへんくて。本部帰ったら怒られてまうねん。つーちゃん、うちら昔からいろんなこと一緒にして来たやん。三輪車も自転車も。滑り台もブランコも。うちらの団地にある、あのおっきなおっきな公園で。団地の真ん中にある、遊具がいっぱいいっぱいある公園で。ずっとずっと一緒にやって来たやん。なあ、覚えとうやろ? まだ自転車の補助輪が取れてへんかったころ、つーちゃんの自転車ずうっとずうっと押して来たん誰か忘れたん? つーちゃんが鉄棒回れへんかったころに、一緒になって逆上がりの練習したん誰か忘れたん? な? つーちゃん、後生やから。つーちゃん、覚えとうやろ?


 ノストラダムスの大予言、ってものが本当にあったとして。1999年7の月に地球が滅亡してしまう、っていうお話なんだけれど。隕石かなにかが落っこちて来て、あるいはなにか大きな天変地異が起きたりして人類が滅亡してしまうっていう夢物語なんだけれど。もちろんあたしは信じてはいないんだけれど、万が一それが起こったと仮定するとして。どちらにせよ、あたしたちに出来ることなんて、なにひとつとしてないじゃあない? それが当たり前の話で、くーちゃんが話していることなんてただの妄想の類としか思えない。たとえ、あたしたちの団地で。あたしとくーちゃんが昔から幼馴染だったとしても。くーちゃんたちが飲んでいる水をあたしがおんなじように飲んだとしても。結局のところ、地球の滅亡なんていう大きな出来事に対してあたしたちが出来ることはなにひとつとしてなくって。ただ茫洋と日々を過ごす以上のことは出来ないんじゃあないだろうか。

 それに、くーちゃんが言っていることはまるっきりでたらめで。ほとんどはちゃめちゃで。ちゃんちゃらおかしくって。自転車の後ろを持って練習に付き合ってくれたことは、あたしの記憶が正しければただの一回こっきりだし、逆上がりの練習はたまたま団地に公園がひとつしかないからおんなじようなタイミングでしていただけで、付き合ってもらってなんかいない。おっきな公園って言うけれど、自転車で学校の反対側まで行けばそれよりも何倍も大きな公園に辿り着けるし、そもそもあの公園は団地中の耳目が集まって来るみたいなかんじがしていてほとんど行ったこともなかったし。ほんの少しだけの、ちょっとした、些細な体験をそんなに大げさに、まるでふたりの間にはちゃんと絆があったんだってかんじで語られても辟易してしまうっていうのが本当のところだった。くーちゃんは昔からこうなんだ。ひとの話を聞かないし、自分の話だけするし、ときどき自分がなんてかわいそうで惨めでどうしようもない存在なんだってことを無駄にアピールして来るし、そんなことあたしに言われたところであたしが知ったことじゃあないし、あたしはくーちゃんに同情なんてしてやらない。


 な? つーちゃん。つーちゃんはほんまにええん? うちが怒られて、ひどいことされてまうことがええことやってほんまに思ってるん? つーちゃん、つーちゃんはちょっとひどいんとちゃう。うちやって頑張ってやっとうのに、つーちゃんはちっとも水なんか売らへんやん。ペットボトル持ち運ぶなんてことせえへんやん。なんでおんなじ団地に住んで、おんなじ公園で遊んで、おんなじ学校に通って、おんなじことばっかりしてんのにうちは、うちだけこんなかんじになっとうん? なんでつーちゃんのお父さんは立派に市役所で働いとって、うちのお父さんは毎日うちでビールなんか開けとうん? なんでつーちゃんのお母さんは専業主婦でのんびりとお花活けとって、うちのお母さんは夜な夜なお仕事なんか行っとうん? それってなんか意味あんのかな? なんでうちらって違うんかな? どこが違ったんかな? うち、最近学校行けてへんやん。世紀末やから行ってもしゃあないんやけどさ。今のうちに頑張らんと方舟からこぼれ落ちてまうやんか、せやからこうやって水売っとうんやけど。いっぱい売らんと、うちは生きとう意味ないんやから。なあ、でもつーちゃん。このままやったらつーちゃん、学校行っとう意味もなくなってしまうんよ? もうすぐ世界が終わってしまうんやから。ノストラダムスがそう言っとうんやから。うちらの団地やってそう言っとうんやから、それはきっと、ううん、間違いなく、絶対に起こることなんよ。やけど、この水飲んどうひとは別。別なんよ。これだけは特別やねん。やってこの水は、ノアの方舟に乗っとった水なんやから。ノアが飲んだ特別な水なんやて。ノアはな、世界が洪水になってしまう前に種を分けたんやて。必要な種だけをつがいで乗せて、世界を滅亡から救ったんやて。うちらもそれがしたいだけなんや。な? 滅亡からつーちゃん救いたいだけなんや。わかるやろ? このままやったらつーちゃん、死んでまうんやで? つーちゃん、つーちゃんはほんまにこのままでええん?


 くーちゃんは昔からこうだった。団地が言っているから。昔からずうっとずうっとこうだった。団地が言っているから。団地の教えはくーちゃんにとって絶対なんだ。あたしたちの団地はずうっとずうっと昔からあった団地で。とても尊くて、とてもとても素晴らしい団地だ。戦争で傷を負った土地の、その真ん中で強く気高く咲いた蒲公英の、それを中心として整地された敷地の上に建てられた、立派で美しくて四角い建物の。今はもうない蒲公英が咲いていたとされる跡地は集会所になっていて、そこでは昼夜問わず熱心に会合が行われていて、そこで決まったことは絶対的に正しくて、団地総則に従っていれば神様はちゃんと見ていてくれて、例えばノストラダムスの大預言が的中したとしてもきっと神様が助けてくれる。とてもとても素晴らしいあたしたちの団地。

 けれど。だったら、くーちゃんが散髪屋さんに行けてなさそうな、ざんばら髪を振り乱しながら喋っているのはどうしてなんだろう。どうしてくーちゃんはこんなにか細くて、重たい水を抱えながらふらふらしていて、すっかり黄ばんでしまったTシャツは伸び切っていてだぼだぼで、半袖から覗く腕にはところどころに痣があって、かわいらしかった顔にはずうっとかさぶたが貼りついているんだろう。どうしてくーちゃんは、いつもひどいことをされてしまうって怯えているんだろう。あたしはくーちゃんの頬を撫でる。かさぶただらけで、ちょっと触れただけでも血が滲んでしまうくーちゃんの頬を。くーちゃんはされるがままになっていて、重たいペットボトルをしっかりと抱き抱えて決して地面に置いたりせずに、下唇をぎゅうっと噛み締めていた。くーちゃんの細い腕はぶるぶると震えていて、ペットボトルを下に置いたところであたし以外の誰も見ていないはずなのに、神様が見ていると確信しているくーちゃんは決してペットボトルを地面には置かない。あたしはぶるぶると震えるくーちゃんの頬を何度も何度も撫でながら、こころの中で何度も何度も繰り返したことばをとうとう口に出すことに決めた。


「――なあ、くーちゃん。この団地はさあ、たぶんクソなんよ。やからさあ、逃げよう、くーちゃん。この団地から、逃げようや」

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