「逃げられるもんならァ……! 逃げてみろよキュアゆうたァ……!」
戦闘形態に移行した灰色の男たち全軍を前に、リントヴルムはしばし呆然としていた。あまりの恐怖に言葉も出ないらしい。恐怖に震える彼は大きく口を開いて、大きなあくびをひとつ漏らした。
「……で。終わったか?」
「急にテンション下がるじゃん」
「なんか突然、俺は何に付き合わされてんだろって思っちまった。始めて良いか?」
「あっはい……」
ウケが悪かった。せつねーなぁ。
リントヴルムは何事もなかったように俺の前に立ち、俺もまた何事もなかったように迎え撃った。
「何度も言うが、用があるのはあくまで魔法少女だけだ。お前らなんてどうでもいいんだよ。何をするつもりでそんな珍妙集団に成り下がったのかは知らねえが、とっとと魔法少女を呼べ。痛い目にあいたくは無いだろ?」
「やだね、って言ったらどうする?」
「こうする」
爆風のような風圧が身を叩く。ものすごく速い何かが迫ってくるのを、辛うじて知覚した。
それは音速に迫る速度で撃ち抜かれた拳だった。吹き飛ばされそうなほど強い風を巻き起こしながら、顔の真横を突き抜けていく。まともに風を受けた右耳は、少しの間ぼんやりとしか音を拾わなかった。
「拳一つだ。お前は戦いの領域から、拳一つの距離に居る。これ以上踏み込むなよ、殺しちまうぜ」
間近をすり抜けていった死線を横目で見て、俺はにやりと笑った。
「逆だよ。お前が俺たちの領域に、拳一つの距離まで踏み込んだんだ」
「あァ? どういう意味だ?」
「民間人、殴っちゃいけねえんだろ。どうして禁じられてるかは知らんが、お前が俺たちに手を出せないことくらい知ってるさ」
「……ッ!」
リントくんは目に見えて狼狽えた。まあ、図星だよな。
攻撃的な言葉は何度だって聞いてきたが、こいつは俺や灰原に直接的な危害を加えたことは一度もない。お前の脅しは最初から俺たちに通用しないんだ。
「チッ、侮るなよ民間人が……ッ! テメエはもう何度も俺の任務を邪魔してきた! 作戦上必要だって言うなら民間人だって容赦しねえぞ!」
「作戦上って意味なら尚更殺せねえだろ。俺たちは魔法少女の居場所を知ってんだぞ」
「だったらそれを吐け! 吐かなきゃぶっ殺すぞ!」
リントヴルムは俺の喉を掴み、ギリギリと強く締め上げた。
だからそれは効かないんだって。俺は拘束の中から消失し、リントくんの真後ろに再出現した。
「ったく、つくづく手が早え奴だな。遊んでやるって言ってんだろうが」
「テメエ、また超能力かッ!」
少しずれたプニキュアのお面を直して、リントくんの肩を叩く。
「なあリントくん、鬼ごっこしようぜ。お前が俺を捕まえられたら、魔法少女の居場所を教えてやる」
「はあッ!? 鬼ごっこだァ!? ふざけんじゃねえぞ!」
「リントくんもう何言っても怒るじゃん。まあ、嫌でも付き合ってもらうんだけどね」
ポケットから抜き出したスマートフォンのカメラを向ける。画素数がどうのと甘美な謳い文句に誘われて買ったはいいが、黒板くらいしか撮る機会の無かったカメラだ。長い間眠りについていた数百万の画素たちは今、唸りを上げて竜人種の男をカメラに収めた。
「おい! テメエ、何しやがった!」
「記念撮影だよ。なあなあ、人目についたらまずいんだろ? 例えばだけどさ、この写真ばらまかれると困ったりしちゃう?」
「……ッ! 消せ! 今すぐにだ!」
「やなこった」
踵を返して走り出す。屋上のヘリを一足で飛び越えて、ためらうことなく空に体を踊らせる。
十五階分の高さから、俺たち以外誰も居ない街を見た。人気の無い静寂に包まれた街。風がコンクリートの森を揺らして、深い残響を残しながら吹き抜ける。
そんな空に、俺は両手を広げて飛び込んだ。
「夜明けと共に拡散してやる! 追ってこいよリントヴルム!」
鬼ごっこの時間だ。捕まえてみろよ、侵略者。
さて。気合い入れて飛び込んだわけだが、もちろん無策ではない。最初からこうするつもりで予めパラグライダーサークルからパラシュートを拝借している。サークルと言ってもとっくの昔に形骸化し、彼らはもうロクな活動はしていない。内情もすっかりズタボロで、内部の人間に頼んだら「使ってないしいいよ」とあっさり貸してくれた。さすがは雨城大学に名を連ねる飲みサー郡の一角だ。
そういうわけなので、背負ったバッグから伸びるハンドルを引く。するとインナーバッグに格納されたパラシュートが飛び出して、安全に着地できるという寸法だ。だが、現実にはそうはいかなかった。
何故かと問うにも値しない。だってそうだろう。俺、バッグなんて背負ってないし。
「やっべェ……! パラシュート忘れてきた……!」
走馬灯のように頭をよぎるのはつい数分前の思い出。そうだった。ポージングの邪魔になるからって、屋上に置いてきたんだった。
とっさに俺は、この状況を打破するための策を千と八十通りほど考案した。が、そのほぼ全てに超能力または非現実的な現象が必要となることに気がついて、不可能現実の境界線に対面せざるを得なかった。こうなったのも全てはニュートンのせいだ。あいつが庭にリンゴの木を植えなければ、人類は重力なんてものに敗北することもなかったのに。
まあいいや。現実逃避は置いとこう。マジでどうすっかなこれ。詰んだんだけど。
『君さぁ……。自分の命綱忘れられるって、どういう神経してるんだい?』
背中に数キロ分の重さが加わる。頭に響くのはスピの声。そう、我らがマスコットのスピである。パラシュートをくわえたスピが、重力加速度を無視してやってきたのだ。
「来たかプラン536! 待っていたぜ、この時をなァッ!」
『誰がプラン536だ。ほら、早く』
スピから受け取ったパラシュートを手早く装着し、勢いよくハンドルを引く。今度こそインナーバッグに格納されたパラシュートが飛び出した。豊かに広がる翼が風を受け止めて、俺は空に遊ぶ大翼の鳥となることだろう。勝利の凱歌を高らかに唄いながら、優雅に地上へと降り立つのだ。
だが、現実はそうはいかなかった。確かにハンドルを引いたらパラシュートは飛び出した。ところどころに穴が空いている、虫食いだらけのオンボロパラシュートが。
「おいマジかよ!?」
なんたることだ。千と八十通りのシミュレーションからこぼれ落ちた、たった一つの想定外。希望と信じてすがった糸は、我が身を滅ぼす牙だったなどと誰が想像ついただろうか。おのれ邪智暴虐なるパラサーよ。これだから飲みサーって奴らはよォ……!
それでも俺は諦めなかった。まだだ。まだ終わっちゃいない。たとえパラシュートが無かろうと、俺たちには翼がある。この状況を覆す起死回生の一手を、俺は勇ましく放った。
「スピいいいいいいいい! たすけてえええええええええええええ!!」
『…………。僕はもう、呆れて物も言えないよ』
スピの瞳が紅に輝く。とたん、風を切る音が和らいだ。高さを速度に猛烈に変換していた計算式は砕け散り、俺の体に蓄えられていたエネルギーは霧散した。羽根のような軽やかさでゆっくりと降下して、俺は優雅に地面に降り立った。
「……オーケー。計画通りだ。今回も良いコンビネーションだったぜ」
『何一つオーケーでも計画通りでもないし、コンビネーションも何も僕しか働いてないじゃないか。ちょっとは反省しろ』
いやー、すまんすまん。助かった。死んだかと思ったわ。
それはそうとさ、プニキュアの着地シーンって羽根のようにふわっと着地するのと、砲弾のようにズドンと着弾するのがあるじゃん。俺ね、どっちかって言うと砲弾型のほうが好きなんだ。だから次はそっちでやろうぜ。
『一人でやれ。付き合ってられるか』
「そんなこと言わずにさぁ」
『それよりも。君にはもっと気にすべきことがあるだろう』
そうだった。リントくんから逃げないといけなかったんだ。ちゃんと追ってきてるといいんだけど。そんなことを考えていた時、砲弾のようにズドンと何かが着弾した。
アスファルトに大きく亀裂を走らせて、リントヴルムは完璧な三点着地を決めた。翼を勢いよく開いて、立ち込める土煙を薙ぎ払う。
「逃げられるもんならァ……! 逃げてみろよキュアゆうたァ……!」
そうそうこれこれ。こういうのがやりたいんだよね。





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