「彼女は、全てを守って散りました」
講義も終わり、誰と何をすることもなくその足で帰った。
普段なら灰色の男たちを誘って灰色活動に勤しんだりもするのだが、最近の俺は付き合いが悪い。それもそのはず。家に帰れば、待っている人が居るのだから。
「ただいま」
「あ、おかえりなさーい」
アパートの一室に戻ると、シロハがとてとてと近寄ってくる。今日の彼女はエプロン姿だった。料理でもしていたのだろうか。
「大学どうでしたー?」
「最高に刺激的でワンダフルだったぜ」
「あはは。嘘っぽい――」
にこにこと笑っていた彼女が、表情もそのままにピシリと固まった。
次の一瞬。彼女は機敏な動作で俺に詰め寄る。垣間見えた戦うものの体捌き。シロハさんはガチだった。
「それ、なんですか」
冷たい声だった。
シロハは俺の手を握る。手の甲に浮き出ている濃紺の紋様を指さして、問い詰めるように低く囁く。俺を見上げる瞳に色はなく、貼り付けたような無表情だ。正直怖い。
「いや、待て。違う。違うんだ」
「何が違うんですか」
「これはその、そう、虫に刺されたんだよ。浮気じゃない」
「そんなことは聞いてないです」
キャバクラ帰りの夫のようなことを口走る。ちゃうねん。本当に浮気しとらんやんな。ただちょっと、大学で初めてあった女の子とらぶちゅっちゅしただけで。
『珍しい。魔術紋だよ、これ。ナツメ。君の右手には今、魔法がかけられている』
シロハのエプロンポケットからスピがひょっこりと顔を出す。それからまじまじと俺の右手を見分した。
「ナツメさん。正直に答えてください。これはどこで、誰にかけられたものですか」
「まてまてまて、落ち着いてくれ。こんなところじゃゆっくり話もできない」
「……それもそうでしたね」
玄関から室内に移動する。彼女のたゆまぬ努力によって清掃された自室は、小洒落た女子大生の部屋のようになっていた。窓際に置かれたハーバリウムがなんとも言えない少女趣味。シロハ用の布団(本当はベッドにしてあげたかったが、部屋のスペース的に布団になった)の側にはもふもふしたネコのぬいぐるみが鎮座している。名前は大魔獣ナベリウス。名付けたのは俺だ。
「ナツメさん」
「ああ」
俺はシロハの手にナベリウスを渡す。シロハは当然のように受け取り、それを抱えて座った。ぬいぐるみを抱えて座る少女。うむ。
「……? 私は今、どうしてなーさんを渡されたのでしょうか?」
「なーさんじゃない。大魔獣ナベリウスだ」
「なーさんです」
「ナベリウスだ」
俺とシロハの間に火花が散る。彼女は良き同居人ではあるが、この点については意見が相違していた。
『君たちさ。油断したらすーぐ遊ぶよね』
「スピ。私はなーさんのこと、遊びと思ったことはないよ」
「これは大切なことなんだ。ウマのぬいぐるみは引っ込んでろ」
『ウマのぬいぐるみ!?』
スピは愕然とした。所詮やつは有蹄類。一番人気のネコ様の足元にも及ばぬ存在よ。マスコットの座を奪われたスピを、大魔獣ナベリウスが勝ち誇るように見下していた。
「……で。ナツメさん、その魔術紋のことなんですけど」
「ああ、うん。わかった。全て話す。でも、本当に違うんだ。そんなつもりじゃなかったんだよ」
「さっきから何を言い訳しているんですか」
俺は大学であったことを話した。
古森鏡子との邂逅と、お守りとして受け取った魔術紋の話。あと大学の廊下ですれ違ったスパルダーマンについて。うちの大学に限らず、日本の大学には時折スパルダーマンが出没する。彼らがどこから来た何者なのか、正体は誰にも分からない。あれは文部科学省からの密偵なのだという噂がまことしやかに囁かれていた。
「なるほど、スパルダーマン……」
『ホワイト。気にするところそっちじゃない』
「え、でも、スパルダーマンだよ? 見たくない?」
『見たいけど。お願いだからシリアスを思い出して』
さっきから話の腰がポキポキ折れる。まったくもう。ちゃんとやってくれないとナツメさん困るよ。
「ナツメさんが言わないでください」
『ナツメ。君が言うな』
照れるぜ。
「スピ。その古森鏡子って人なんだけどさ」
『おそらく彼女だろうね。魔術紋の書き方も当時の癖がよく出ている。懐かしさすら感じるよ』
「やっぱりそうだよね。私の見間違いじゃないよね」
スピは黙り込み、シロハは不思議そうな顔をしていた。いや、シロハは不思議がっているだけではなさそうだ。彼女は胸元に手を当ててほうと息を吐く。これは……喜んでいるのか?
『ホワイト。警戒はしてくれよ。今のところ、単なる罠というのが一番考えやすい』
「わかってるよ。すぐにでも確かめに行きたいけれど、迂闊に飛び出したりはしない」
『ホワイトが冷静でいてくれて助かるよ』
シロハは二回深呼吸する。彼女が落ち着いたタイミングで俺は聞いた。
「なあ。古森鏡子は一体何者なんだ」
「……そうですね。ナツメさん、あなたには話しておくべきでしょう。いいよね、スピ」
『構わないよ。彼はもう部外者じゃない』
小さく頷いて、シロハは話し始める。
「以前の私は、ある魔法少女とコンビを組んで活動していました。彼女の名は、魔法少女ブラックシルト。ブラックは私にとって、共に戦う戦友であり、唯一無二の相棒であり、かけがえのない親友でもありました」
当時を思い出すシロハの表情は努めて冷静だ。この表情の意味は知っていた。
それは、シロハが辛い話をする時の顔だ。
「二年前の大侵略の日。彼女は、全てを守って散りました」





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