日常に潜む陰
「ごめんね、まりあちゃん」
しぐれは、申し訳なさそうに謝罪の言葉を重ねる。むしろ、謝らなければならないのはまりあの方だ。
だが、それとこれとは話が別だ。
「……えい、お返し」
「きゃあああっ!」
まりあは鬱憤を晴らすように、しぐれの腹部に指を喰い込ませると、うら若き乙女の悲鳴をBGMに思う存分蹂躙した。
「ひどいよ、まりあちゃん……っ」
くすぐりの末に力尽きたしぐれは、赤らんだ頬を床にくっつけて、ぐったりと横たわる。
さすがにやり過ぎたかと心配するが、しぐれが浮かべる表情はどこか恍惚とし、楽しげだ。きっと、友達と楽しく遊べて嬉しいのだろう。まりあはそう解釈した。
そういうことならばこれからも遠慮はいらない。しぐれを助け起こし、ともに成長することを誓い合う。
「くすぐりにも負けない強靭な腹筋を作り上げましょうっ」
「ひゃい……」
まだ余韻から抜け切れず、身体を丸めてお腹を擦っていたしぐれは、そこでふと異変に気が付く。
衣装棚の隣に置かれた姿見が、どこかおかしい。
「まりあちゃん、見て。鏡が真っ黒に」
しぐれが指差す先でにある姿見は、鏡面が黒々と色づき、何も映さない。のっぺりとした黒い壁で蓋されたような有様だった。
確かさっきまでは普通に、まりあたちのはしゃぐ姿を映し出していたはず。割れてしまったのだろうかと訝しって顔を近づけるが、そんな風には見えない。
その黒は、じっと見つめていると今にも吸い込まれてしまいそうなほどに仄暗く、まるで底が覗けない。異世界にでも繋がっていそうだ。
「ああ、魔女が来たのね」
「ま、魔女?」
至極何でもなさそうな調子の発言に、しぐれはぎょっとして鏡から身を引いた。
まりあは「おや?」と少し不思議そうに首を傾げ、
「しぐれは魔女の結界見るの初めてだっけ?」
「う、うん。初めて……」
質問に、しぐれは緊張の面持ちで頷いた。魔法少女になってまだ日が浅く、倒すべき魔女について知っていることがあまりに少ない。
人一倍怖がりな一面を持つ彼女のことだ、未知への不安は人知れず大きいだろう。ならば、ちょうど良い機会かも知れない。まりあは、魔女について説明を始める。
姿見に映る暗闇の向こうを指差した。
「魔女や魔獣は物と物との境界に、自らの領域として結界を作り出すの。一度結界が生まれた場所には必ず魔力の残滓が残るから、また同じ場所に現れやすい。かがみんがそう言ってた」
「へえ」
「覚えておいて。しぐれもこれから魔法少女として魔女と戦うんだから」
言いながら、まりあはパシン、と拳と手のひらを叩き合わせる。やる気十分だ。
まるで、これから友達とひと勝負始めるかのような気軽さに、しぐれは少なからず戸惑いを見せる。だが、すぐにいらぬ心配だと思い直した。
魔法少女になってからというもの、まりあは襲い来る強敵をバッタバッタと薙ぎ倒してきた。全戦全勝、向かうところ敵なし。こと魔女退治においては、彼女の方に一日の長がある。
「よし、さっさと倒してトレーニングの続きをしようか。ね、しぐれ」
「う、うん」
自信に溢れる横顔をじっと見つめ返したしぐれは、瞳にほんのわずかな陰りを覗かせた。
まだ見ぬ魔女に対する畏怖と懸念。
待ち構えているのは命を削り合う闘争。
恐れるなという方が無理である。
「……できるかな、わたしに」
「しぐれならできるよ。大丈夫」
俯かせた顔の前に、にこやかな励ましと一緒に手が差し伸べられる。
目と目を合わせ、手と手を握り、まりあが伝えてくるのはたったひと言の、大丈夫という言葉。
「しぐれは私が守るから」
「……うん、わたし頑張るから」
ただそれだけで、躊躇う気持ちを飲み込んで、何度でも歩き出せる気がした。
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