第2話
屋敷に帰り着くと、冷たい空気が私を迎えた。
夜会の熱気とは対照的な、静まり返ったエントランスホール。
自分の足音だけが、やけに大きく大理石の床に響く。
「……おかえりなさいませ、リゼットお嬢様」
執事のローガンが、感情の読めない表情で深々と頭を下げた。
彼の声には、昔のような温かみは微塵も感じられない。
「ただいま戻りました」
「旦那様が、書斎にてお待ちでございます」
その言葉に、私の心臓は氷水で冷やされたかのように凍りついた。
この時間に父が起きていることなど、滅多にない。
そして、その用件が私にとって好ましいものであった試しも、一度としてなかった。
(夜会のこと……きっと、アルフォンス様から何か連絡があったのね)
重い足取りで、書斎の扉へと向かう。
重厚なマホガニーの扉をノックすると、中から低く、不機嫌そうな声がした。
「入れ」
扉を開けると、革張りの椅子のきしむ音と共に、ラム酒の強い香りが鼻をついた。
暖炉の炎が、父――ヴァインベルク侯爵の険しい横顔を赤く照らしている。
「……また、夜会で恥を晒したそうだな、リゼット」
「……いいえ、そのようなことは」
「アルフォンス様から苦情のご連絡があったぞ。『貴家の令嬢は、社交界の何たるかを理解していないようだ』と。一体どういうことだ!」
ガシャン、と父がグラスを机に叩きつける。
琥珀色の液体が、高価そうな書類の上に飛び散った。
弁解しようとしても、喉が締め付けられたように声が出ない。
恐怖で、指先が冷たくなっていく。
父の目は、まるで出来の悪い骨董品でも見るかのように、私に侮蔑の色を向けていた。
「無色の魔力で生まれただけでも、我が家の恥だというのに……。お前は、これ以上ヴァインベルク家の顔に泥を塗れば気が済むのか!」
「申し訳、ございません……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
その時だった。
「お父様、あまりお姉様を責めないであげてくださいませ」
書斎の扉が静かに開き、甘く澄んだ声が響いた。
夜会用のドレスから、くつろいだ部屋着に着替えたカトリーナが、心配そうな表情を浮かべて立っている。
「カトリーナか。……だがな、この姉のせいで、ベルクシュタイン家との縁談が危うくなっているのだぞ」
「まあ……。でも、お姉様もお辛いのですわ。その……魔力のことで、色々と言われることも多いでしょうし」
カトリーナは、慈悲深い女神のような微笑みを浮かべて、私に近づいてくる。
しかし、父からは見えない角度で、彼女の唇が歪み、その瞳が嘲りの色を帯びたのを、私は見逃さなかった。
「アルフォンス様がお可哀想ですわ。無色の婚約者なんて、きっとご負担でしょうに。ねえ、お姉様?」
偽りの同情。
その言葉が、私の心の奥底で、何かの栓を抜いた。
じわり、と体の芯から冷たい何かがせり上がってくる感覚。
指先が、ぴりぴりと微かに痺れ始めた。
足元の空気が、陽炎のように揺らめいている気がする。
(だめ……抑えないと)
過去の記憶が、鮮明に蘇る。
まだ幼かった頃、カトリーナに大事にしていた人形を意地悪で壊され、思わず感情のままに魔力を使ってしまったことがあった。
私の魔力に触れたカトリーナの足元で、美しく咲き誇っていた薔薇の花壇が一瞬にして枯れ果てたのだ。
それを見た父は、血相を変えて私をこう罵った。
『化け物め!』
あの時の、父の凍てつくような視線。
恐怖に泣き叫ぶカトリーナの声。
あの出来事以来、私は自分の力を心の奥底に封じ込め、感情を表に出すことをやめたのだ。
ぎゅっと拳を握りしめ、力の暴走を必死に抑え込む。
カトリーナの挑発に乗ってはいけない。
ここで騒ぎを起こせば、私の立場がさらに悪くなるだけだ。
「……ええ、そうね。アルフォンス様には、いつも申し訳なく思っていますわ」
私は、顔に張り付いた仮面のような笑みを崩さずに、そう答えた。
私の返答に満足したのか、カトリーナは勝ち誇ったように微笑み、父の隣へと寄り添う。
「さあ、お父様。もうお休みになってください。お姉様のことは、わたくしからよく言っておきますから」
「……ふん。まあ、お前がそう言うなら。リゼット、カトリーナの爪の垢でも煎じて飲むがいい。下がれ」
父は私に最後まで視線を向けることなく、そう言い放った。
言われるがままに書斎を退出する。
扉が閉まる直前、父がカトリーナにだけ向ける、愛情のこもった優しい声が聞こえてきた。
自分の部屋に戻り、乱暴に扉を閉める。
そのまま力なくドアに寄りかかり、ずるずるとその場に座り込んだ。
もう、涙も出なかった。
心が麻痺してしまったかのようだ。
部屋の隅にある大きな姿見に、疲れ果てた自分の姿が映っている。
青白い顔。光のない瞳。
侯爵令嬢らしい華やかさなど、どこにもない。
(このままでは、いけない)
心のどこかで、警鐘が鳴り響いている。
このまま感情を殺し、全てを諦めて生きていけば、いつか私は本当に、空っぽの人形になってしまう。
(でも、わたくしに何ができるの……?)
無力感が、重い鎖のように体に絡みつく。
その時だった。
左手首の腕輪が、ふわりと、ごく微かに温かい光を放った気がした。
それは一瞬のことで、幻だったのかもしれない。
けれど、その温もりは、凍えきった私の心に、小さな火を灯した。
――あなたは、あなたのままなのですよ。
今は亡き祖母の言葉が、再び胸に蘇る。
(わたくしの、まま……)
鏡に映る自分を見つめる。
今はまだ、この瞳に力はない。
けれど、この心の奥底で、まだ何かが、消えずに燻っている。
このまま、終わるわけにはいかない。
そんな、小さな、けれど確かな決意の芽が、私の心に生まれた瞬間だった。




