29、従者は誓いをたてました
やっとアシュレイ視点が書けて念願叶ったという気分です。
揺れる馬車の中。二人きりの空間だというのに、彼女は相も変わらず警戒心を身に着けていないようだ。もっとも、今の彼女を押し倒す気も起きない。
ハンカチで目元のをおさえながら嗚咽をもらす彼女はあまりにも痛々しい。
「う…っ、うぅ…っ、ううぅぅぅ……っ!」
泣くのなら、僕の胸を使ってはどうですか?と、言いたいところだが、彼女は頷かないだろう。そもそも彼女を泣かせたのは僕なのだから。
向かいに座るセシル・オールディントン子爵令嬢は、学園から出発して今まで、ずっとこの調子である。
件のセシルお嬢様暗殺未遂事件より数日ののち、長期休暇があった。ので、家で一人過ごす旦那様を無視することもできず、僕と彼女は今、家路についている。
「そのうちのびますよ」
「いつ?明日?明後日?」
いくつの子供ですか、と言いそうになった口を噤む。
彼女の白くて細い指が僕の髪の毛先をつんつんとつついた。
「なんてこと……。アシュレイの髪が…」
男の髪など惜しむものでもないと思うが、彼女には衝撃だったらしい。
子爵邸へ向かう馬車のもとで待っていた彼女は、馬車へ行く前に髪を切った僕の姿を見て真青になった。それからずっと、この調子だ。
切ったと言っても襟足より少し長い程度だ。
いつだったか、彼女が誠意を見せるためにと髪を切ったことがあった。そんな風習は当時も、今になっても聞いたことがない。だが彼女の言うことなら、試す意味はあるだろうと軽い気持ちだった。まさかここまで嘆かれるとは……。
「お嬢様は昔から、たびたび面倒くさいですね」
「髪……かみぃ…」
今更言っても切ってしまったのだから遅い。
彼女の手をつかんで、自分の頬にあてた。
「剃っても、よかったのですが……それはお嬢様に怒られるのではないかと思ったので」
「剃っ……!?許すわけないでしょう!!」
今の彼女の気持ちがわからないこともない。幼少期、彼女の短くなった髪を見て同じように嘆いたのだから。
「髪を切って誠意を伝えるものなのでしょう?僕はお嬢様の命を奪おうとしたんです。それでもなお白々しく貴女の傍にい続けようとしています。大したことではありませんが何かしらしないと気が済まなかったんです」
「だからそれは……っ」
ハンカチを落とした彼女は、目を腫らした状態で頬を膨らませた。そのままこちらへ来てくれればいいのにと思っていると、上体を倒して額を僕の胸に当てて来た。
「貴方が私の傍で永遠に私を愛すると言うなら、私はすべてを許すと言っているじゃない…」
随分と貴重なものが見れた。耳まで赤くなっている彼女の背中に腕を回すと、大げさに怯えられた。
「それは僕には罰ではなくご褒美になってしまいます」
「私は貴方から自由を奪うのよ」
「お嬢様が自身の生涯を捧げてくださったんです。他の何を貴女に奪われても惜しくはない」
***
あの晩。忘れもしない予行舞踏会の晩だ。
首にかけた僕をつたい、両手で僕の頬を包んだ彼女は弱弱しく微笑んだ。
「私は――…」
一度、言いにくそうに顔を背けた彼女は、けれどすぐに僕の目をまっすぐ見て言った。
「信用していると言いながら、誰よりも貴方を疑っていたわ」
それは、僕が貴女に殺意を抱くことを想定していたということか。
不思議ではない。だって彼女は気づいていたはずだ。僕が彼女を求めていたことを。それでも誤魔化し、僕を拒絶していた。
「貴方は私から離れないと、何度も言っていたけれど、それでも不安だった」
人の心って、些細な出来事で移ろうものでしょう?と、彼女は笑う。
「アシュレイはいつまで私の傍にいてくれるかしら?アシュレイはいつ私でない女性に心を奪われるのかしら?」
「そんな日は来ません。僕には貴女だけだ」
彼女は否定するように瞼を閉じた。
頭に血が上った。彼女はまだ僕の愛情を認めない。受け入れるどころか、信じようともしない。
「どれだけ言われても不安は拭えないわ。誰かを愛するには、そういう疑心と戦わなければいけないでしょう?」
首にあたる僕の手をはらった彼女は、僕の顔を力を込めて引っ張った。首がもげるのではないかという勢いだ。
抵抗しようとして、何も考えられなくなった。彼女が自分の唇を押し当てて来たせいだ。二度目に感じる感触は、変わらず、幸福感を覚える。
唇を離した彼女は両腕を僕の首の回し、一緒にベッドに倒れこんだ。
「貴方が心から私を愛して、私を裏切らず永遠に傍にいると言うなら、捧げなさい。アシュレイ・カーライルの持つ自由も未来も、すべて私のものよ。生涯私だけを愛して、私にだけ執着して生きていくの。そうすれば同じだけ愛するから」
耳に口をあて話す彼女の息遣いはひどく官能的だった。こういう誘惑は苦手な人だと思っていたが、これはこれで悪くない。
自分が受け入れられたと理解するにはすぐにはうまくできなかった。なにせもう何年もの間逃げられてきたのだから。それでも、触れ合い言葉を囁く彼女の熱が伝われば思い知らされた。やっと手に入れたのだと。
「誓います。セシル・オールディントンだけを愛し、貴女にだけ執着して死んでいきましょう。自由も未来も、持つものすべて、貴女に捧げます」
腕を緩めて顔を見せてくれた彼女は、少しの涙を浮かべながら恥ずかしそうに笑んだ。
「本当はずっと、貴方がほしかったわ」
それはこちらのセリフだ。
「僕は初めからお嬢様のものです」
オールディントン子爵家に引き取られた日から、この身はセシル・オールディントンのものだ。
彼女のしなやかな手が、僕の首に優しく触れた。
「私はおかしくなってしまったのよ、アシュレイ。もう自分をおさえられるかわからないわ」
艶っぽい目に、全身が興奮で震えるのを感じた。
「貴方が裏切ったら、貴方のここを切り裂いてしまうかもしれないわ。それでも愛してくれる?」
それほど愛してもらえるなら本望だ。
「ええ…。誓います」
***
「お嬢様、そろそろつきますよ」
「……」
「お嬢様?」
微動だにしない彼女を不審に思っていると、何を思ったか抱き付いてきて不覚にも動揺した。
説明もなしにこの体勢を旦那様に見られるのはまずい。今日は仕事もないと聞かされていたから、おそらく屋敷の外へ出て今か今かと娘の帰りを待ち構えているはずだ
馬車が止まった瞬間駆け寄ってきて扉を開けられるだろう。その前に、残念だが彼女を放さなければいけない。
「どうしたんです?お嬢様」
「恋…人でしょう…?」
抱きしめ返したい衝動を抑えて、思いのほか低くなった声で短く肯定した。
「名前で呼んではくれないの?」
「セシル……お嬢様」
「……アシュレイ」
「セシル……。……お嬢様」
何か言いたげな彼女の視線をかわす。
「染みついているんです。慣れるまで時間をください」
「そう長くは待てないわよ。努力してね」
「はい…」
しかしこの体勢は色々な意味で辛い。ここは密室とも言える。子爵邸へつくまでの時間、自分の理性崩壊、二つとの戦いだ。
「お父様はお許しくださるかしら」
「その点については、話せばわかってくださると思いますよ」
娘を従者にとられるなど、普通許すはずもない。自分はついていたと思う。
すでに手は回してある。反対をされる可能性の方が少ないだろう。あちらからすれば複雑なのに変わりはないだろうが。
彼女が僕から離れたところで丁度良く馬車が止まった。
そして予想通り、待ち構えていたオールディントン子爵が馬車の扉を開けたのだった。




