食堂は修羅場!(下)
「動物みたいにサカるのは他人の勝手ですが、時と場所を考えてくださいませんか、綾城先輩」
肩にスポーツバックを掛けた短髪の女性は、寮長さんの奇行を見慣れているのか、平然と言い放つ。疲れているのか、瞼は二重になっていて、開けているのも億劫そうだ。
「いいじゃない、寮の新人さんなんだから。せっかく入寮してくれたんだから、このぐらいの熱烈に歓迎してあげてもいいでしょ?」
「だったら、綾城先輩の部屋にでも連れ込んでください。こっちは部活終わりでヘトヘトなんですよ」
邪魔なんでどいてくれますか、と短髪の女性が顎をしゃくる。
「……ちぇ、薫子ちゃんに叱られちゃった。まあ、いいわ。楽しみには後にとっておいたほうが、より美味しくいただけるもの」
妖しく全身を蔦のように絡め捕るような寮長の視線に、僕の体が火照っているのを感じる。そのまま自重を、どん、と疲弊し切ったように背の壁に預ける。
僕の体から距離を置いた寮長さんは、僕の情けないその姿に優越感を感じたのか、ほくそ笑む様に頬を歪ませる。
「じゃあね、もみじちゃん。気が向いたら私の部屋に来ていいわよ」
寮長さんはそう言って踵を返す。
僕はほっとして寮長さんを死角に押しやろうとしたが、あっ! と大きな声を上げられたので、もう一度視界にとらえる。
「私の部屋は第二食堂に隣接している部屋だからね。……鍵は渡しておくから」
手をひらひらさせながら、性欲を持て余している人は遠のく。視界から消え、ようやく安全地帯となった第二食堂で僕はほっ、と安堵のため息をつく。
あの人の艶麗さは体に悪い……。
鍵ってなんのことだろうと疑問が浮かんだが、手に何か硬い感触が伝わる。いつの間にか僕は鍵を握りしめていた。あの人は手品師かなにかなのだろうか。
そして、第二食堂には僕と、短髪の女性だけになる。寮長さんがいなくなると、なぜか空気が重くて話しにくい雰囲気が漂い始める。
それにしても、この人。寮長さんの魔の手から、間接的に僕を助けてくれたのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
不機嫌そうに眉を八の字にしている女性は、スポーツバックを椅子に、投げるように置く。そんな粗野な行動は予期していなかったので、僕の体はびくりと竦む。
僕の本心から口に出た謝意は、宙ぶらりんになったまま。
この場の居心地の悪さを、意に反さない彼女――薫子さんだったかな?――は、これまた無造作に冷蔵庫を漁る。
聞こえなかったのだろうか。
着こんでいる服は、上下ともに校章の縫いこんであるジャージ。服越しからでも分かる、筋肉の隆起から、体育会系の部活動に所属していることはまず間違いなさそうだ。だったら、挨拶や返答は徹底されているはずだ。
咽喉が絡まないように小さく咳払いをし、先程よりは幾分か声のトーンを上げる。
「あの、僕の分の夕食も入ってるみたいなんで、とってもらってもいいですか?」
狐のように細い目をさらに細めながら、僕の分のタッパーも取ってくれる。
「ありが――」
再度感謝の謝辞を述べようとすると、わざとらしく大きな音を立たせるように、僕の分のタッパーを机に置かれる。
呆気にとられた僕は、初対面の相手、しかもなにやら機嫌がよろしいとは到底思えない無愛想な言動と、仏頂面な顔をしている人を、まじまじと眺める。
話しかける言葉も、タイミングも見いだせずに、僕はおずおずと椅子に座る。
それすらも咎められるのではないかとびくびくするが、流石にそれはないようだ。
電子レンジのブゥーンという機械音が、無言の空間に妙に響く。
あんまり話しかけたくはないけど、あまりにもいたたまれない雰囲気。押しつぶされそうな空気に、せっつかれるように、僕は声高々に二度目の感謝の言葉を言う。
「あの、さっきはありがとうございました!」
「はあ?」
ようやく目線が絡み合う。
自分で切ったかのように、乱暴に切りそろえた短髪に、オシャレをまったく意識していない上下ジャージ姿。 それに、他人を威嚇するような肩の上げ方。
この人、僕なんかよりもずっと男らしいかも……。
僕の体を射抜くような薫子さんの視線に萎縮しながらも、彼女の挑むような、蔑むような目つきになんとか応える。
「あ、あの……さっき助けてくれたので……お礼を、と」
「……へー。このことを誰にもバラされたくないから、こんな私にも一応、おざなりで、とってつけたような感謝の言葉を言っておこうってことですか? 私が他人に、このことを吹聴するなんて馬鹿馬鹿しいし、面倒くさいし、そんな形だけのお礼なんていりませんよ」
薫子さんは僕を一瞥し、冷たくせせら笑う。
「……なっ、」
なんだこの人。
口から悪言が飛び出しそうになるが、何とか飲み込む。ここで反発してしまって、目立つわけにはいかない。自分の正体のばれる可能性が、格段に跳ね上がる。自分の首を自分で締めるわけにはいかない。
机に身を乗り出して何も言えない僕に、何を思ったのか薫子さんはあからさまに舌打ちする。
「あなた、さっきからありがとう、ありがとうって連呼し過ぎなんですよ。そんなんじゃあ、心の底から『ありがとう』って言葉をいつか言えなくなりますよ」
なんで初対面のあなたに、そんなことまで言われないといけないんだ、とは思ったけれど、ぐっと堪える。それに、救ってもらえたのは事実だ。それを脇に放り、感謝の一言でも言わなかったら、人として駄目だ。
ジャージ姿の薫子さんは、ドア際でこちらを振り向く。
「何も言わないんですね。それとも何も言えないんですか? あなた、さっきから人の顔色ばかり窺ってばかりですね。……そうやって言いたいこと我慢して、自分は他人のことを考えています、気を使ってあげています、私は偉いです。……そんな風に言い訳して、自分が傷つかないような場所でふらふらしている人間が、私は嫌いなんですよ。二度と話しかけてこないでください」
僕は一瞬硬直して、薫子さんの罵詈雑言が頭の中を反芻する。そして、猛烈に反発する気概が湧いていくる。
他人と距離をとって何が悪いんだ。
いい顔をして何が悪いんだ。衝突しないように、上辺だけで付き合う。……それが人間関係っていうものじゃないのか。物わかりがいいって、そういうことじゃないのか。
人と人とが分かり合うことなんてありえない。
だからこそ人は嘘をつき、相手の出方を窺いながら調子を合わせなければならない。それこそが社交性であり、不変な僕の真理の一つであったはずだ。
だけど、薫子さんが自信ありげにそれを打ち砕いていった。
何が正しくて、何が正しくないのか。
この寮に入ってきて、自分の価値観が微妙にズレていくことを、身を以て実感している。いずれはこの小さなズレが、僕自身を根底から覆すような、嫌な気がする。後方から忍び寄る根拠がないから、より慄然としてしまう憶測が恐い。
嫌な予感を払い退ける為に、薫子さんを追いかけるが――
「あのっ――」
追いつけなかった。
彼女はスポーツバッグとタッパーを持って、そそくさと早足で立ちさる。僕の言葉なんて、一切耳に入れたくないとばかりに。
吐き出せなかった黒い感情が、お腹のちょっと上の辺りで暴れ狂う。うなだれながら、感情の自己処理を済ませると、自分の尋常でない腹のすき具合を自覚した。
こうなったらやけ食いだ。
冷凍保存されていたタッパーを手に取ってみると、当然のごとく冷たかった。




