⑤
出すものを出しすっきりしたらしいサブローと共に、バーから徒歩十分の二十階建てタワーマンションに向かう。
最上階の自宅に入るなり、サブローはキッチンに向かい、冷蔵庫から酒瓶を取り出す。
「何本目だよ。飲み過ぎだろ」
「ビールだから平気だろ。飲む?」
「俺はまだ未成年だよ」
「そうか、二月だったよな、颯太の誕生日。去年はなんだっけ? すき焼きパーティーからの」
「サプライズ顔面ケーキだよ」
勘弁してくれ、という顔を作る俺に、サブローは少し笑った。
普段はガサツで自由奔放なうちの家族だが、誕生日に関してはマメだ。各自スケジュールを調整して、その日は全員揃ってハッピーバースディを歌う。もちろん、家族同然のサブローも。
「さすがに、もう弟面して参加できないよな」
「そんなこと言うなよ。お前が来なかったら、俺が母さんにしばかれる。それに今年からは……」
仁さんの妻になった姉は、もう今までどおりには橘家のイベントに参加できないかもしれない。
そんな俺の思いを察したのか、サブローは笑いながら言う。
「どこに住んでたとしても、あいつなら、お前を祝いに飛んでくるよ。旦那と一緒にな」
サブローは力なく笑い、残りのビールを飲み干すと、そのままソファに倒れ込んだ。相当酔っているのか、すぐに寝息が聞こえる。
瓶のラベルはアルコール度数32%。普通のビールの五倍以上。
酒が強いことは知っていたが、こんなものをコーラのように飲み干すなんて、正気の沙汰じゃない。
空き瓶を持って殺風景なキッチンに戻る。週に一度、家事代行業者に掃除を頼んでいるだけあって、シンクもレンジフードも汚れひとつない。
サブローは我が家で食事をしないときは、いつも外で済ませているらしい。学食か、駅前のチェーンの牛丼屋。服装同様に食についても執着が無い。
キッチンから見渡すリビングは、独り暮らしの大学生にはそぐわないほど広々としていた。
巨大な薄型テレビと一枚板のダイニングテーブル、革張りのソファ、オブジェのような照明まで、あらゆるものがセンス良く配置されている。サブローが入居した時からこの状態だったらしい。
リサイクルショップで安く買った花柄のソファと、ときたま突然切れるテレビ、ぎゅうぎゅうに押し込まれた新聞入れなんかが置いてある我が家の居間とは大違いだ。
この家にはなんでもある。
でもいつ来ても、誰もいない。
中学二年まで、サブローは俺と一緒に小手毬商店街に住んでいた。
『毛糸屋 ささき』それがサブローのばあちゃん、登美子さんの店。
サブローに父親はいない。母親には会ったことがない。正確には、見たことはある。
参観日や運動会の保護者席にではなく、サブローの母親はいつも、テレビの向こう側にいる。
女性の地位向上のために戦う政治家、というのが彼女のキャッチフレーズらしい。
もう何年も前にこの町を出て、日本の政治の世界の第一線で活躍している。まさに地元の英雄。
そして公的には、独身、未婚、子供はいない、という設定になっている。
だからサブローは、ずっと登美子さん二人暮らしだった。
中学の時に登美子さんが亡くなって、店を処分した後は、この高級マンションで独り暮らしをしている。
小手毬商店街では、サブローの母親のことを知っている人は数多くいるはずだ。
それでも誰もその話題には触れない。
先週陽二さんが、行きつけのスナックのママに振られたことは商店街中の噂になっているというのに、サブローとその母親のことについては、誰も語ることはない。
そういうところも、俺があの町を好きな理由のひとつだ。
俺の実家は、死んだ祖母が始めた小さな花屋。
フラワーショップとは名ばかりで、昔ながらの店構えはお洒落とは程遠く、客は年々減っている。潰れかけの店を切り盛りする母と、潰れそうな店を支えて家族を養うために、平社員ながら休日出勤や残業もいとわず不動産会社で地道に働き続ける父。
日本のために、女性のために、明るい未来のために、と拳を振り上げて演説をするあの女とは、雲泥の差だ。
俺の両親は誰かの人生を劇的に変えたりりなんかしない。
でも半径五十センチ以内の、手を伸ばせば届く距離にいる人たちのために、毎日必死に生きている。どこにでもありそうなブーケを作り、誰にでも代わりがきくような仕事のために汗を流す。
誰に褒められるわけでもない。でも、誰にでもできることじゃない。
少なくとも俺は、そんなうちの両親を、わりと……不満を挙げたら小一時間はしゃべれそうではあるけれど、尊敬している。
「……不憫なやつ」
俺の独り言が聞こえたのか聞こえてないのか、サブローは鬱陶しそうに眉を寄せて寝返りを打った。
『愛されてー……』という絞り出すような呟きが耳に甦って、胸が痛かった。
親が仕事で忙しいのは、俺もサブローも同じだ。
サービス業の二人が土日に休みを取れるわけもなく、運動会や学芸会の日程はいつも仕事とかち合っていた。
それでも、俺や姉貴の出番のときは、バイクや自転車をぶっ飛ばして、ほんの少しの時間でも駆けつけてくれた。
ときに鬱陶しくなるくらい、誰かしらの目が俺を見守っていた。
祖母が生きていた頃は、くしゃみをするだけですぐに辛い生姜湯を飲まされたし、小学校で喧嘩をして泣きながら帰った日は、俺のハンバーグだけがひとまわり大きかった。
中学で初めて女の子に振られたときは、誰にも話した覚えはないのにいつのまにか家族に知れ渡っていて、父と陽二さんに無理矢理スナックに連れて行かれた。酔いつぶれた駄目な大人を引きずって帰る羽目になった。
過干渉、お節介、余計なお世話。
そんなふうに思うこともある。
でもあの狭い家で、センスのかけらもなく雑多なものがごちゃごちゃに詰め込まれたあの家で、俺は『寂しい』なんて思ったことは一度もない。
今更サブローを寝室まで運ぶ気力もなく、ソファにもたれかかった体勢のまま、少しだけ眠った。
なかなか寝付けなかった。
幼馴染のサブローが、長年の片思いにピリオドを打った。その事実と、仁さんを思う姉の言葉が、踏み出せない俺の背中を乱暴に押す。
子供の頃からそうだった。俺達三人の中で、真っ先に飛び出すのは無鉄砲な姉。
その次が、いつも姉のあとを追いかけるサブロー。
そして、二人から三歩遅れて動き出す慎重派の俺。
いつも目の前にはふたりの背中があった。
でもいつまでも、二人に負けて出遅れているわけにはいかない。
明け方に目覚めて、サブローにブランケットをかけなおし、部屋を出る。
早朝の冬の空気を切り裂くように自転車を飛ばしながら、俺は、あの子をつかまえる決意を固めていた。




