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駅ビルに新しくできたカフェは、『不思議の国のアリス』をモチーフにしているらしく、テーブルやコーヒーカップ、シュガーポットまで、可愛らしいデザインで統一されている。
壁紙には一面にトランプの絵が散らばり、床は白と黒の正方形のタイルが交互に貼られている。
女の子の『可愛い』を詰め込んだような内装だが、はっきり言って落ち着かない。賑やか過ぎて目が疲れる。
女の子って、どうしてみんなカフェが好きなんだろう。
そして落ち着かない理由がもうひとつ。
テーブルを挟んで座る彼女との顔の距離が、いつもより格段に近いから。
店が定休日の木曜の放課後、彼女がずっと前から行ってみたかったというカフェで、今週のスペイン語の講義の復習をしている。
文法や時制の使い方で、彼女がわからなかった部分を一緒に見直している。
「ありがとう、助かったわ。橘君て、教えるのも上手だし、私よりもずっと理解力があるのね。発音も綺麗だし。
どうしてスペイン語を第二外国語に選んだの?
もともとスペインの文化に興味があったの?」
何気なく聞かれて、言葉に詰まる。
大した理由はない。
うちの商店街の酒屋の陽二さんの元奥さんが、スペイン人なのだ。
熱烈な大恋愛の末に国際結婚、壮絶な大喧嘩を経て離婚して、もう五年になる。
奥さんは、一人娘のナディアちゃんを連れて母国に帰った。
ナディアちゃんと父親の陽二さん、祖母の静さんは、定期的にSkypeで会話をしているのだが、問題は陽二さんが殆どスペイン語を聞き取れないことだ。
本人は『結婚生活に言葉なんていらないんだよ!』と破天荒なことを言っているが、実の娘・孫娘とコミュニケーションが取れないことに、二人とも心を痛めているようなのだ。
そんなわけで、何か役に立てればと思ってスペイン語を選んだわけだが……その事情を全て彼女に打ち明けるのには、ためらいがあった。
三分ほど迷ったあげく、「……何となく?」という覇気のない回答をする俺に、彼女の目つきが険しくなる。
まずい。どうやらまた、面接官モードのスイッチが入ってしまったようだ。
「そもそも、前から気になっていたけど、橘君はどうしてうちの大学に来たの? あなたなら、もっと偏差値が高い学校を狙えたんじゃない?」
彼女は、他県にある名門私立大学の名前を口にした。さすが、全てお見通しだ。
彼女の予知した未来では、俺はその学校の文学部に入学する予定だったようだ。
「あなたがうちの学校にくるなんて思わなかった。入学式で会った時は、心臓が止まるかと思ったわ」
「一応、受けてはみたんだ。自己採点ではいい線行ってたし、実際受かったと思ってたんだけど、マークミスで落ちてた。これも、《運命》のいたずらかな」
冗談めかして笑わせるつもりだったのに、彼女は深刻な顔で眉を寄せた。
「酷いわね。いたずらにしては悪質だわ。志望校を落とすなんて」
「もともと、高校のときの担任に強引にすすめられて受けただけで、行く気はなかったんだ」
「どうして?」
「うちの学校の方が家から通えるし、楽だから」
「……あなたのそういうところ、どうかと思うわ。尊敬できない」
どうやらまたマイナスポイントを獲得してしまったようだ。
彼女について知ったこと。真面目。努力家。強情。
ここだけの話、要領は良くない。勉強は苦手なようだ。テスト勉強になると、生真面目に教科書を丸暗記しようとして頭がオーバーフローになるタイプだ。だから俺のように適当なタイプに腹が立つのかもしれない。
そういえば高校の時の模擬試験で、うちの学校の合格確率がD判定だったと言っていた。三年生の夏から必死に勉強を始めたと。
彼女の性格なら、もっと早い段階から受験勉強に取り組んでいそうなものだけど──
そのことを尋ねると、彼女はしばらく口をつぐんでから「他の受験で忙しかったの」と言って、目を逸らした。
そんなふうに戸惑う様子は初めてで、もっといろんな顔をみたいと思ってしまう。
「『親友』なのに隠し事?」
我ながら、どの口が言うか、と思う。隙あらば、今の関係をひっくり返したいと思っているくせに。
彼女は長いこと迷ってから、俺にしか聞き取れないような小さな声で、某有名女性歌劇団の養成学校の名前を口にした。
「宝生さん、芸能界目指してたの!?」
思ってもみなかった返しに、つい素っ頓狂な声が出てしまった。カフェ中の視線が彼女に集中し、赤くなった彼女に「声が大きい!」と叱られた。
意外だった。そういう煌びやかな世界は、『うわついている』と眉をひそめて、倦厭しそうに見えるのに。
でも確かに、この可愛さなら納得だ。それに彼女の実家はバレエ教室だ。
「それで、どうしてうちの学校に……」
彼女の強張った表情を見て、すぐに言葉を呑み込む。そんなのは決まっている。落ちたからだ。
「受験のチャンスは四回だけなの。中学三年から高校三年まで」
寂しそうな声で彼女が呟く。
そうだ、いつかテレビで見たことがある。
まだ幼さが残る可愛らしい女の子達が、合格発表に一喜一憂する様子を。飛び上がって喜ぶのは、ほんの数人で、多くの受験生が泣きながら震えていた。『これが最後のチャンスだったのに……』と号泣している子さえいた。
その泣き顔に、俯きがちにガトーショコラにフォークをいれる彼女の顔が重なる。
『もう二度と踊らない』と言ったときの、頑なな横顔。
彼女もあんなふうに涙を流したのだろうか。
「エスプレッソ、冷めるわよ」
そう促されて、俺もカップに口をつける。煮詰めたように苦いだけで、美味くはなかった。
「橘君、コーヒーはいつもブラックだけど、甘いものは平気だったわよね。よく学食で、今川焼を買ってるし」
一年と五カ月のあいだ、密かに俺を観察していたらしい彼女は、俺のことなんてなんでもお見通しだ。そのことに毎回くすぐったさを感じながら、ゆるみそうになる頬を引き締める。
彼女は小さくガトーショコラを切り分けると、フォークに乗せた。
「一口食べない?」
エスプレッソが気管に入った。
咳き込む俺を見て、彼女は不思議そうに首を傾げている。
それはいわゆる、巷のカップルがするところの『あーん』というやつなのだろうか。あまりにもキャラクターとかけ離れ過ぎていて、どうリアクションしていいかわからない。
「『半分こ』とか『一口ちょうだい』って、友達の範疇でしょう?」
そう言いながら、彼女は隣のテーブルに視線を流す。
セーラー服を着た女子高生二人組が、はしゃぎながらお互いのケーキをシェアしていた。確かに、女の子同士であれば、微笑ましいだけの珍しくもない光景だ。
「俺のはただのエスプレッソだよ。……しかも、そんなに美味くないよ」
「……じゃあ、いいわ」
拗ねたように口を尖らせてそっぽを向く彼女に、中学生のようにうろたえてしまう。
俺の口許に寄せられていたフォークは彼女の許に戻り、チョコレートケーキは木苺色の唇の奥に吸い込まれた。
気まずい沈黙が流れる。
もしかしたら彼女は……、『友達』という言葉に過剰に反応する、いつも独りぼっちだった彼女は、そんなやり取りに憧れていたのかもしれない。
「……やっぱり、一口、もらってもいいかな?」
断じてやましい気持ちからじゃない、と自分自身に言い聞かせながら、思い切ってお願いすると、彼女の目が嬉しそうにほころんだ。
正確には、表情はあまり変わらなかったけど、いつも彼女のことばかり見ている俺には、その変化がわかった。
チョコレートケーキの欠片を乗せたフォークが、俺の唇に触れる。その冷たさを感じた瞬間、数分前にそれが確かに彼女の唇触れていたことを思い出して、全身を襲うむず痒さに身をよじりたくなる。
その思いがあからさまに顔に出ていたからだろうか。彼女の白い頬が桜色に染まっていく。
味なんて、全然わからなかった。
「……やっぱり、次からはやめておこうか」
「そうね。その方が賢明ね」
俺達の実証実験は、常に失敗の危険と隣り合わせだ。
照れ臭さをごまかすためにエスプレッソを飲み干し、リュックサックを背負う。
「ここ、お洒落だけどコーヒーの味はいまいちね」
同じようにトートバッグを肩にかけながら、彼女が小さな声で囁く。俺もそう思っていた。同じ気持ちだったことが、ただ嬉しかった。
「俺がいつも行ってる店は、全然お洒落じゃないけどコーヒーだけは美味いよ。マスターが強面で不愛想だけど」
商店街の片隅にある純喫茶『誠』。子供の頃はそこのナポリタンが大好物だった。
「じゃあ、次はそのお店に行ってみたいわ」
「デートで行くような店じゃないんだけどね」
口が滑った。彼女の目が鋭くなる。
「……デートじゃないから」
不機嫌な顔でカフェのドアを押す彼女の耳は、いつものように赤くなっていた。




