第88話 『ブド・ライアー』。塩商人の青年期。
あれからいくつかの店を潰した。最初は立ち上げた荷揚げ場は話にもならなかった。そもそも商都とも呼ばれる大きな町である、各地から集まり送り出す荷を扱う荷揚げ場は既に完成し成熟した産業であった。しかしブド・ライアーはまだ削れる所を削れば更に利益が上がると考えた。このあたりは様々な帳簿の数字を追ったブド・ライアーだからこそ発見に至った事である。
計算は机の上で行う。しかしそれは現実の仕事とは直結していない。外に出れば晴れの日に雨の日、風吹く日。暑い日もあれば寒い日もある。夏と冬なら日の出日の入りの時間も異なる。いつも同じ環境で働けるならば、帳面上…というか机上の計算ては予定通りに進行する。
しかし、働いているのは生身の人間、事故というのは起こるものだ。荷揚げ中に落として損傷する場合もあるし、最悪盗まれる場合もある。そのあたりを皆無にすれば…とブド・ライアーは考えたりするのだが、それこそまさに机上の空論。子供時代に手伝い程度はした事はあるが、仕事として一日を通して汗を流し働いた経験は無い。人の疲労や苦労など考えた事もない。
何より人を軽視した。自分には才がある、これだけで十分だった。自分の優秀な頭脳が考えた事だ、他は俺の思うように動けば良い。将棋で言う所の駒であれば良いのだ、自分が思うように指し動く存在であれば。考えてみれば物心ついた頃から、読み書き計算は出来たが友人というものは出来なかった。その為、他人がどう思うかなど考えた事は無かった。あるのは自分の優秀さ、それを自画自賛する自意識だけであった。
立ち上げはしたものの当然ながら上手くいかない。謙虚さのかけらも無い新参者、誰からも見向きもされなかった。ロクに稼働しない商売。開店早々に開店休業、産声さえ上げたのか怪しい惨憺たる有様だ。
それからいくつかの商売を立ち上げたがどれもこれも上手くいかない。いつしか故郷の港町はブド・ライアーにとって住み心地が悪くなっていった。
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五年の歳月が過ぎた。
ブド・ライアーが商人として旗揚げしてから何事も上手くいかない。彼は故郷の商都とも言える生まれ故郷の港町を逃げるように離れ、別の町にいる。
町…というよりは漁村と言うべき規模だろうか、故郷までは陸路なら徒歩で数日歩いた距離である。漁村でありながら町と名乗るのは規模の割には発展しているからである。商都という一大消費地に食糧を送る生産拠点、それがこの海辺の町であった。
ブド・ライアーはこの海辺の町で働いていた。海水から塩を作る製塩業の商家の下働き、それが今の彼の肩書であった。当初は経理としての職を希望した。しかし経理は数字を全て見られる立場、最悪の場合にはその情報を他者に流される場合もある。いわゆる間諜である。
まして彼は他所者、流浪者である。そんな存在を機密を扱う場所で働かせる物好きはいない。異物と分かっていて体に入れるようなものだ。そのあたりをブド・ライアーは理解していない、この俺の優秀な頭脳の価値を分からないとは…本気でそう考えていた。
ブド・ライアが高性能の機械部品ならばそれで良いだろう、今つけている部品と取り替えれば良い。しかし、商家側はブド・ライアーを『部品』として見てはいない。良くも悪くも『人』として見ていた。他所から来た存在として。
そんな訳だから当然雇われる訳がない。そもそも経理は外仕事とは異なり怪我をする機会は少なく、年齢を重ねても続けられる仕事だ。人の入れ替わりは少ない、彼の入り込む余地は無かった。
故郷では簡単に就けた経理の仕事、きっかけは母親の穴埋めであった。その後はその仕事の優秀さを噂で聞いて声を掛けられたものだ。その後は前述の通り、最初はその優秀さに目を見張るが後に傲慢さが目に余るようになる。
そして時たま彼が引けらかす仕事中に見つけた気付きや知識、それは彼にしてみれば自分の優秀さを誇示する為だけのものであったが雇う側にしてみれば値千金の情報となる場合がある。この異世界には知的財産権などはない。模倣したとしても咎める者はいない。ゆえに日本でも、ここ異世界でも大事な知識や技術は守る。門外不出の秘伝、御家芸呼び方は様々だが意味するところは同じである。
才覚はあるが鼻持ちならない奴、しかしその知識さえ得てしまえば後は用無しである。気まぐれで飼い始めた犬を捨てるかのようにブド・ライアーは外に出された。
『経理は無理だが…』、商家の主人が塩作りの人夫としてなら雇う事を打診してきた。『なんで俺が…』ブド・ライアーは思ったが、金も底を尽いていた。嫌も応もない、その申し出を受け入れるしかなかった。
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新入りとして就職った製塩人夫の下働き、周りには十歳を数えたばかりの子供から中年といった年齢の者もいた。その中に混じりブド・ライアーは製塩場として整備された浜辺で長い柄のついた大きな柄杓に海水を汲んで来て、所定の砂浜に撒いていく。
知ったの通り海水には塩分が含まれる。その塩を含んだ水を砂に撒く。すると砂浜の砂に付着する。そして太陽光に熱せられ水気が蒸発し、砂粒には塩分が付着して残る。
そして、その海水を砂浜に撒く事を繰り返す事で砂には塩分がより多く付着していく。そして頃合いを見計らい、その砂を大きな木樽に集めその中に海水を注ぐ。すると通常の海水より遥かに塩分濃度の高い水溶液ができる。それを汲み出し別部署…、おそらく大釜にでも入れて煮て塩を取り出すのだろう。そこから先は俺の仕事じゃない。知る必要は無かった。
木樽に入れた砂をまた元の位置に戻す。夕暮れが近づく、日差しが無くなると蒸発の効率は下がる。しかし、全く蒸発しない訳ではない。ゆっくり蒸発する、その為に海水を撒いておく。
別部署では塩が出来たようだ。向こうで働く人夫が帰宅を始める。そして余り塩が建物の外に置かれた。いわゆる不用品、本来ならそんな物を出さず売るなりなんなりすれば良いのだが、この町では何の価値も無い、浜辺はともかく少し沖に出れば濁りの無い海水がいくらでも手に入る。製塩しなくてもそれを適度な濃度にすれば十分な味付けになる。余り塩なんか見向きもしない。砂や苦汁が混じった粗悪品、それを持って帰るのは余程の物好きか大馬鹿者というのがこの町の者の認識だった。
しかし、ブド・ライアーはこの町の出身ではない他所者である。そんな認識はなかった、いつまでも製塩人夫をしているつもりは無かった。だが、商都と呼ばれる町の出身である彼には塩というのは買う物だった。粗悪かも知れないが無料、持ち帰っておけば人夫を辞めた後でも塩に困る事はない。ブド・ライアーは毎日欠かさず持ち帰った。
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『船の墓場』、そう呼ばれる場所がある。
この町の南の外れの難破した船の残骸が毎日のように流れ着く、そんな場所であった。漁村という一面もあるこの町では、漁民とその関係者も多い。そんな人々にしてみれば船の墓場など不吉なもの以外の何物でも無かった。誰も近付かない忌み嫌われる場所、それが船の墓場だった。
ブド・ライアーはそんな場所の片隅にある小さな洞穴を住処にした。町に居れば金がかかる。節約…、と言えば聞こえは良いが単純に金が無かった。そんな懐事情でも泊まれる安宿は確かにある、しかしロクなものではない。
泊まっていても常に懐に気をつけといなければ危険なくらいに安全性は心許ない。そんな所では身も心もやすまものではない。だったら寝泊まりはここで十分だ、水が湧いてる場所も見つけた。町でパンでも買ってくれば暮らすには十分だった。
しかし、そんなブド・ライアーに転機が訪れる。




