第87話 『ブド・ライアー』。塩商人の少年記
今回は三人称視点です。
四章の重要人物『ブド・ライア』についての掘り下げをしていこうと思います。
ブド・ライアーは商人である。
ここミーンの町でも三本の指に入る塩を扱う大店の主人であり、数人いるミーンの町の商業ギルドの副ギルドマスターを務める。
しかし、彼はこの町の生まれではない、いわゆる余所者である。一介の塩売りから始め、財を成して商家を興し今では商業ギルドの重鎮におさまった。
世にも稀な立志伝の体現者、それがブド・ライアーであった。
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『金のある嫌な奴』、それがミーンの町衆のブド・ライアーに対するイメージである。そんな彼はミーンの町から遠く南の海に面した港町で生まれ育った。
少年時代は食うに困った事は無く、寒村で生まれ育ったナジナと比べれば遥かに恵まれた出自であった。また、港町という事もあり人も物資も行き合う。自然と文字と数字を目にする機会も多く、幼くして読み書きと簡単な計算を自然と覚えていた。頭の回転が早かったようである。
父は陸から海へ、海から陸へ、港湾の荷揚げ場で荷を上げ下ろしする人夫として働いていた。物が集まる港だ、仕事はひっきりなしにありまた自分の荷を先に積んで欲しいという商人の要望を受ける際などは多少の小遣いが入ってくる。そういった意味では実入りの良い職種でもあった。
母はそんな積み荷を上げ下ろす港湾の帳簿をつける経理をしていた。普通、行商や酒場や飯屋などで女性は働く事が多い女性であったが、文字が読め算術(計算)に長けた存在は貴重である。文字と言っても店の看板に書いてある簡易な文字…いわゆる下位語(日本語で言えばひらがなに相当)ではなく上位語(日本語で言えば漢字に相当)を理解しており、その存在は貴重であった。今で言うキャリアウーマン、それがブド・ライアの母であった。
平民としては裕福な部類に入るブド・ライアーの家庭では、子供の教育に関しても熱心で、幼くして下位語とは言え読み書きと計算の素養がある事を知ってからはより一層拍車がかかった。町の私塾に通わせ学ばせる、そんな風になったのも自然の成り行きであった。
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転機が訪れたのは成人になるのを翌年に控えた十四の時、母がひどい腰痛…、いわゆる重いギックリ腰になった。母が働いていた港湾は頭を悩ませた。文字に通じ、計算に長けた存在などそうそう簡単にはいない。人夫なら補充はきくが、こちらはそうもいかない。母も責任を感じ、苦肉の策として息子を代わりに送った。不慣れな為に効率は悪くなるかも知れないが、読み書き計算は問題ない。そう考えての事だった。
大丈夫か?周りはそんな目で見ていたが、働き始めて三日もするとブド・ライアーは効率よく仕事をこなすようになった。さらに数日もすると母親が担っていた仕事に加え、他の者が担っていた仕事にも食い込むようになった。そして母親が仕事に復帰できた一月後には、港湾の帳簿管理業務は三人分くらいをこなせるようになっていた。
この頃のブド・ライアーは初めてする仕事というものに没頭し、寝食を忘れて打ち込んでいた。まるで数字が持つ魔力のようなものに取り憑かれたかのように。
母親と入れ替わるようにしてブド・ライアーは臨時雇いの経理からまたもとの一人の少年に戻った。しかし、給金として銀貨を二十枚受け取った。
この世界では一ヶ月に銀貨十枚もあれば一つの家庭が暮らしていける。切り詰めれば八枚くらいだろうか…。その収入というのは父親一人が稼ぐものではない。父に母、子供も含めて一家が総出で働いて得る金額である。
しかし、この港町は何かと物入りな商都でもある。様々な物が集まるがここで生産している訳ではない為に物価は高め、他の町と比べればだいたい一割から二割ほど余計にかかる。そんな中での銀貨二十枚、いかにブド・ライアーの手にした給金は子供が手にした額がとんでもないものか…。この一事をもってよく分かる。
銀貨二十枚、破格も破格。この給金だけで一家がかなり贅沢な暮らしをする事が出来る。両親の稼ぎはそれぞれ月に銀貨八枚から九枚といったところだ。二人合わせて月に十七枚くらいか…、つまり物価の高いこの町ではかなり裕福な部類である。
しかし、ブド・ライアーは初任給で両親の月収を上回った、衝撃的だった。そして、この件で彼はすっかり自信をつけた。俺は凄いんだ、天才だ、こんなに稼げるんだと。自分が少し帳簿を見ただけで『こんなに稼げちゃうんだ』、そう思った。
それから彼は私塾に通わなくなった。もう十分、これ以上は学ぶ事もない。俺の頭脳はもう既にこんな小さな私塾の枠を超えている、年上の、自分より先んじて学んでいた者たちもいたが自分の方が遥かに優秀だと感じていた。確かにそれは事実であった、そして受けていた講義も彼の頭脳には欠伸を噛み殺すのに必死になる程度のものであった。
自分以外は馬鹿しかいない、少年はそんな事を思うようになった。その侮蔑は自分を育ててくれた両親にも向く。なんせ二人の稼ぎを合わせても自分一人の稼ぎに及ばないのだ、
稼げた金額が人間の価値だとさえ思った。両親にさえそんな事を思うブド・ライアーである、全ての他人にそれを当てはめるようになるまで時間はかからなかった。
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それからのブド・ライアーはいくつかの商家や商会、他の港湾の荷揚げ場などで経理として働いた。期間は一ヶ月、長くても三ヶ月ほど、辞める理由はいくつかあるが大抵は人間関係か飽きてしまうかがほとんど。帳簿の計算だけなら確かに有能、しかし仕事というのはそれだけではない。自分一人で全て完結できるなら商会などの組織を作る必要はない。手広くやればやるほど、店が大きくなればなるほど人が集まる、必要になる。その組織力が大きい事を成す事を可能にする。しかしブド・ライアーにしてみれば他人というのは全て愚者。見下す以外の選択肢は無い、そうなれば多少有能でも組織の中では浮く。これでは上手く行く訳がない。
そうこうしているうちにブド・ライアーは十五歳になった。成人である。そして満を持して彼は商家を起こした、自分が好きに活動内容を決めて自分のペースで金を稼げる。
世の中の自分よりはるかに劣る者どもが営んでいられるんだ、自分ならその何倍も稼ぐ事が出来る。そうなれば自分の優秀な頭脳に見合わない給金で使われる事もない、その稼ぎの全てが自分のものになる。
そこで彼は新たに荷揚げ場を作る事にした。物の数量と出入りする金銭の管理、数字を司る事に関してはもっとも得意だ。いずれこの町の港湾全てを牛耳ってやろう、そんな事を思いながら。




